天神台(富津市海良)|天神社~桐の花・冨永商店 ―上総湊⑸

富津市上総湊駅からの探索続き。前回は海岸を歩いたので、湊川沿いから天神台を少し歩きました。
天神台(富津市海良)
千葉県富津市海良14「天神社」
前回からの続きで、上総湊港から湊橋を渡って富津市海良へ。海良、皆さんは読めましたか?
海良(かいら)。角川書店『日本地名大辞典』によると、江戸期~明治8年に存在した旧海良村。

湊橋を渡ったすぐのところに碑があった。「冨田照先生頌徳碑」とのこと。もう少し奥まで進んで見ればよかった。
進むと分岐に。車は右の道に進んでいる。旧山崎ショップと塾。
気になる看板が立っていた。「ようこそ海良へ 眺めのよい天神台へどうぞ」と、菅原道真が描かれた周辺の案内図。手書きなのがポイント高い。
この看板を左に行くと参道らしい。看板通りに歩いてみよう。
住宅街の中に渡辺時計店。このほかにも旧商店がいくつかあった。

左に行くと日本料理「宮島」。2024年、ごはんを食べに行ったのでまた記事にします。
湊川沿いの道。この辺りの風景を見てピンと来る方も多いのでは…
そうそう、石切り場がこの辺りにあったらしく、壁面にはツルハシの跡がリアルに感じ取れる。
湊川と石切り場跡。ここから運んだのかな、多くの人でにぎわったであろう当時を想像するのが楽しい。鋸山だけではない石切り場の歴史も調べたくなったきっかけだった。
地元の方によると、この辺りの石は質が良くて削ったそう。湊は、鴨川への通り道で富津の中心として栄え、町役場も存在するほどだったと。
天神社(富津市)へ
石切り場の手前、高台にある天神社へ。入口の鳥居を横目に、右手の道を進んでいく。鳥居の階段を上っても右の道を進んでも同じ道に合流する。

途中のギャラリーふくろうハウス。
普通に住宅街の集落。途中、この道で合っているのか迷いそうになった。
Googleストリートビューも入れない一番奥に天神社があった。
菅原道真を祀った神社として受験生の神様に人気の天神社。
平成9年の「広報ふっつ」に地元の方によって作られた看板の話、老人会による「天神講」などが紹介されている。


引き返して、上総湊駅の方面へ。
以前から気になっていた旅館清風荘。やはり閉業しているみたい…古い看板が残っていた。腰痛に良いお風呂ってなんだろう。泊まりたかった。

国道沿いの冨永商店。
ここに描かれている桐の花…
地元の方も相撲とのかかわりを話していたけど、調べたら「桐ノ花 光之助(きりのはな みつのすけ)」のことだろう。地元の方もこのお店の祖父が相撲取りだったと話していた。
ネットで調べるとこの街、湊町出身とのこと。明治30年に生まれ、余生は上総湊で過ごしていたそう。
こちらも昭和62年の「広報ふっつ」にて90歳で驚くほど元気と紹介されている。
(訪問日:2023年2月)
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石マニアなので売津の石切場には二度来てるから良く知ってるのですが、本当の石切場は湊川から500m程南側の山の中にあります。湊川沿いの岩は道路の拡幅が目的で削ったのかも知れませんね。
場所は1カ所を除き簡単には分からないと思います。
私も2カ所は直ぐに分かりましたが、それ以外は分からなかったので、地元の長老に聞きました。
掘り方は岩肌から推測すると山の上から横に掘り、その作業を下に向けて何度も繰り返す様な感じがしました。道具は機械で掘ってる様で、ツルハシなどは使用してないと思います。
地面の高さより下に掘り過ぎると水が溜まってしまい、よろしくない様です。
だからか、高い位置の石切場が多いですね。
見学するなら冬がお薦めです。夏はマムシが出そうで止めた方が良さそうでした。
イノシシも多いそうですよ。
カレーショップ「あさると」。古民家釜飯屋の主人がやっているチョーマニアックな御食事処。以前の古民家釜飯屋は、消防法に引っかかってしまい、已む無く閉店。あさるとは中には入ってビックリ!正にお店の名前の通り、アサルトライフルだらけ。西部時代(コルトピースメーカーやウィンチェスター)から第二次大戦(シュマイザーMP40)を経て現代(М16)に至る。湊川支流の相川・梨沢地区は、白浜からの古道の宝庫。鎌倉古道、牛の寝古道、そして房州アルプスなるものも存在している。何よりも、巨石の森「石田村」という神秘的な巨石に囲まれた場所もある。どう考えても人為的に加工された巨石があちらこちらにあり、人跡未踏。磐座が多くあるとも言われているが、学術的には未捜査。流石、学術的探求は遅れているというか、興味の無い富津市教育委員会(笑)。今年は、6月に石田村へ入村の予定。神秘の森で心を癒やす。
鋸山の石切に付いて調べてみたら、昔はタガネ、ツルハシ、ハンマーを使ってたそうで、やはりツルハシも使用してました。使用してないと書いたのは誤りだった様です。
昭和30年前まではタガネなどで穴を連続的に開けて、一気に割るのが一般的な方法だったらしい。
大谷石の産地では昭和29年にフランス製の石切装置が導入されて、その後は急速に機械化が進んだそうなので、千葉県の石切場も同じ傾向だったのかな?
鋸山の保田側の山中にドラム缶が沢山放置されてるのは、機械化された証かも?