小湊、伊南房州通往還沿い。志らが染め看板 -小湊⑺
安房小湊編、この日最後は伊南房州通往還沿いを通り安房小湊駅へ。
珍しい看板や二宮金次郎像を拝見しました!
志らが染め ホーロー看板
前回の続きで、日蓮交差点の北側の伊南房州通往還沿いを歩いている。
伊南房州通往還沿いの小湊薬局。
この辺りは商店街だったのか、各種商店の名残が窺える。こちらは町の薬局。よくあるお店かと思ったら…
ホーロー看板がショーケースに展示されていた!大塚製薬のオロナイン軟膏のホーロー看板はお馴染みだが、後ろの二枚は初めてお目にかかった。
志らが染めのホーロー看板。商品名は、左側の男性の袖に「元禄」と見える。元禄の白髪染め。実は、以前、元禄の白髪染めの空瓶を入手したことがある。→https://deepland.blog/bottle-retro/
丸いフォルムの瓶。戦前の白髪染めの瓶だが、当時の広告看板を見ることが出来て感動した。ということは、小湊薬局は戦前から商売をしていて元禄を販売していたのだろうか。また時間のある時に話を聞いてみたい。
奥に見える神社は八雲神社。少し高台にある。
伊南房州通往還沿いの静かな街並み。左手のストアー吉野は今は閉まっている様子。
2014年のストリートビューを見ると、青果から日用品等幅広く扱う町のスーパーだったようだが、皆さんは今どこへ買い物へ行くのだろう…
石碑と若宮八幡神社
再び国道128号沿いを歩いて駅へ向かう。その途中、旅館安房家の近くの駐車場入り口で気になる石碑を見かけた。
細長い石碑。草木に埋もれていて全面を読むのは苦戦するが…
「日蓮上人尊父…
建仁三年五月十二日北条時政により当地に流され渡邊喜内先祖代官滝口兵庫朝家がお助け給仕す。」
これだけ読むと意味が分からなかったので「かもがわナビ」にて紹介されているのが有難い。
貫名次郎重忠漂着地
ヌキナジロウシゲタダヒョウチャクチ日蓮聖人ご尊父が安房にたどりついた地に建立された石碑。 伊豆方面から安房へと流れ着き、安房に聖人の生をもたらした、 「郷土の聖人の父」の足跡がここに。
代官滝口兵庫朝家の邸宅がこの場所にあったのかな。民家の敷地内なので見過ごすところだった。
国道沿いの蔵造り店舗の前にある水道もかなり年季が入っている…
今は使用でき無さそうだが、手作り感が半端ない。
よく見ると全体的に曲がっている。こんか水道初めてだ。
そして国道から裏道、伊南房州通往還を辿る。
伊南房州通往還がちょうど屈折する角にある若宮八幡神社。
創建年代は不詳であるが、徳川時代初期に西国より漁労のため来航し土着した人々が、浪花に都して聖徳仁慈の君たる大雀命を奉祀したのが当社であるといわれ、貞享・元禄の頃には当地区氏神として敬仰されたもののようである。明治初年村社に列せられた。明治十一年五月十八日火災のため焼失したが、直ちに再建された。現在の社殿は平成二年に改築されたものである。明治四十三年七月十四日磯崎鎮座の神明神社を合祀した。
若宮八幡神社の向かいにある鎌田酒店。和菓子屋のかまたと関係あるのかな。
タイル張りのシンク?素敵な色合い。
今は静かな伊南房州通往還沿い。蔵造りの店舗跡は、渡邊製菓店だとGoogleマップに記載されている。
今は閉業している様子。
隣にあった建物も無くなっており、裏道の伊南房州通往還沿いのお店は残っていない。
小湊小学校の二宮金次郎像
そして橋を渡っていよいよ帰路が近づいてきた。
吾妻神社の鳥居から参道を見る。今回は時間が無く社殿までは行けず。
最後に寄りたかったのが廃校になった小湊小学校。
現在は、小湊さとうみ学校として自由滞在型スポーツ・文化合宿/企業研修空間になっているそう。大浴場もあり団体宿泊も可能らしい!素敵!
そして正門近くにある二宮金次郎像!
築年数は記載が無かったが古そう。いつか二宮金次郎像をまとめた写真集でもつくりたい。
伊南房州通往還は外房線沿いのぐねっと曲がった裏道を行く。
その後県道に合流し、大風沢川を渡って安房小湊駅へ。
駅近くの伊南房州通往還沿い。こちらも商店街だった面影は感じるが…
駅前の伊南房州通往還沿い、一体どんなお店が並んでいたのか… また改めて過去の地図を見てみたい。
(訪問日:2022年3月)
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タイル張りのシンク。うすグリーンと白のコントラストも素敵ですが、外側まで、モザイク模様ってめずらしくないですか。
コンクリート橋の意匠(デザイン)もそうですが、人々の暮らしの中に、ちょこっと、その時代の美意識が垣間見えるのが、何とも楽しいです。
そして、二宮金次郎像。わたしも、あの像は、いったい何のために、あれだけの数の立像が、学校という教育機関に設置されたのか、不思議に思っています。ある意味…むかしの「御真影」的な…シンボリックなものであったのかもしれません(←おそらくそうでしょう)。
では、そういう(現代では「児童虐待」とも言われかねない)立像を、どこの業者に(国が)発注して造らせたのか、その経緯は、わたしもたいへん興味があります。
明里さん、若き郷土文化史家として、そうした尊徳像の秘密に、いつか迫って頂けると、たいへんうれしいです。