船橋遊郭から海神新地への歴史。伝説の船橋「ミネ」をはじめ、劇場も【船橋散策①】

船橋遊郭から海神新地への歴史。伝説の船橋「ミネ」をはじめ、劇場も【船橋散策①】

「海神新地」という名称で知られている、千葉県船橋市。船橋駅前近くの旧赤線地帯。かつては成田参詣の宿場町として栄えた船橋宿ということもあって、「船橋遊郭」とも呼ばれていた。

私は、最近取り壊しが決定した「玉川旅館」の散策のついでに、令和の海神新地の姿をしっかりと記録しようと思った。それは焦りに近いものだった。玉川旅館が姿を消し、海神新地も数年前とは明らかに違う風景に…

 

この街がかつて千葉を代表する赤線地帯「海神新地」として栄えていたことをここで書き記しておきたい。

 

玉川旅館については以下の記事で詳細を書きました↓

太宰治ゆかりの船橋「玉川旅館」いよいよ取り壊し。登録有形文化財玉川旅館、最後の記録

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海神新地(船橋遊郭)の歴史について

『全国遊廓案内』の船橋遊郭

全国遊廓案内』(昭和5年、1930年発行)では次のような記述がある。(一部旧字体から変換)

船橋町新地廓 は千葉懸東葛飾郡船橋町新地に在つて總武本線船橋驛で下車すれば西へ八丁、船橋タクシーは市内五十銭均一である。

船橋には無線電信局があり、船橋大神宮がある。袖ヶ浦さんの海苔、梨、佃煮等が名産である。此處は徳川時代からの宿場女郎として、最近迄國道に沿ふて散在して居たものであったが、昭和三年に現在の個處へ移轉して遊廓と成つたものである。従って貸座敷の建物も皆木の香りのする眞新しい家計りで、裏の三田濱を見晴らして一寸景色も善い。

貸座敷は目下十九軒あつて、娼妓は百十二人居るが~(以下略)

船橋の名産品である海苔、梨、佃煮…遊郭案内だけでなく、観光案内の役割もあったのだろうか。成田街道沿いの船橋宿に点在してたが、昭和3年に移転し、船橋遊郭として新たなスタートを切ったようである。

貸座敷は19軒、娼妓は120人。近くにある千葉新地や松戸の遊郭と比較しても多い数である。

娼楼についても詳しく記載がある。

娼樓には吾妻屋、松濱樓、魁樓、桃太樓、辰榮樓、甲子樓、つる家、金太樓、正陽晃樓、三つ輪樓、遊淸樓、世界一樓、龜樓、大黑樓、一力樓、上越樓、山口樓、船橋家等々がある。

18軒の娼楼が記載されているが、19軒存在したようなので記載されていない店名もありそうだ。

 

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『公娼と私娼』で見る貸座敷数

内務省警保曲編『公娼と私娼』(昭和6年、1931年発行)に「貸座敷指定地調」に東葛群船橋町として記述がある。

営業者数:19
娼妓数:93
遊興人員:64.422
遊興費:118.010

同時期に発行された『全国遊廓案内』の娼妓数よりも少ない数字になっているが、内務省によって作成された93人の数字が公式なデータであろう。

「私娼窟所在地調」にも船橋のデータがある。この本で千葉県の私娼窟についての記載があるのは船橋だけである。

東葛飾郡船橋町五日市
私娼窟の抱主の世帯数:15
私娼数:35
表面・業態:無職

表面上の業態は無職として、売春を続けていたお店が15軒。実際にはもう少し多い場合があるが、内務省のデータでは残っている。

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『全国女性街ガイド』の船橋

全国女性街ガイド』(昭和30年、1955年発行)には船橋について次のような記述がある。

「往きにしべーか、帰りにしべーか、しべえ、しべえで八兵ヱ女郎」…往時、船橋宿の八兵ヱ女郎は、江戸庶民のあこがれであった。

昔のままの張店調の青楼十五軒に三百三十一名の肉体が熱気をふいて待っている。女の方も宿場女郎型で、和服が断然多い。
最近は、この赤線主流派に拮抗し、白ユリ会に団結する二十軒、七十二名の反女郎派、遊郭の周辺に桃色旗を打ち立てて、共にちょん二百円、泊まり七百円の薄売多利で競争している。

「青楼」は女郎、遊郭のことを指す。宿場町だった名残が、女性の性格にも露われているのはとても興味深い。

 

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『松井天山千葉県市街鳥瞰図』の船橋宿と船橋遊郭

また、鳥瞰図の解説本『松井天山千葉県市街鳥瞰図』に関係のありそうな記述を発見。

宿場時代は三十軒近い旅籠の内、純粋な旅館業は数少なく、残りは飯盛女と称する遊女を奥、いわば半旅館半遊女屋であったが、明治に入っても飯盛女は娼妓、業者は貸座敷業と名を変えただけで存続した。業者の数は大正年間には七、八軒に減ってはいたが、習志野原軍隊の休日ともなれば、門前に行列のできるほどの繁盛ぶりであった。そのため、町の中心街に”女郎屋”のあるのは不名誉とする声が強まり、大正十五年(1926)に、県の指令で貸座敷業は海神と九日市の入会地に移転させられることになった。新地遊廓と呼ばれるようになる場所である。新地遊廓は昭和三年に開業するが、その際従来の業者は大半が転・廃業し、新規開業したのは他所からの移入業者であった。この図はそうした歓楽街空白の時に描かれており、通りにも新地にも貸座敷業者の名前が見えていない。

船橋の鳥瞰図で、船橋遊郭、海神新地の姿を確認できないのは、こうした背景によって、鳥瞰図が描かれている時期に移設していたためと思われる。現存している和菓子屋、廣瀬直船堂の隣には3階建ての遊廓建築ではないか?と言われる建物もあったようだ。

船橋「廣瀬直船堂」創業300年を越える老舗和菓子屋で当時の様子を伺った

その様子は鳥瞰図にも載っている。

広瀬直船堂の隣の遊廓建築?

海神新地は、昭和三年に現在の場所に移転したそうだが、海神新地からは裏にあった三田浜を見渡すことができたため、景色も良かったとか。三田浜も埋め立てられ、その姿は現在無い。娼樓も吾妻屋を始め、数多く存在したようだ。

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『赤線跡を歩く』

木村聡著の『赤線跡を歩く』(2002年発行)によると、

戦後は建物もそのままに赤線として復興。三百人以上の女性がいて活気があり、和服派が多かったという。周囲には青線的なカフェー街も形作られた。

赤線だけでなく、青線も混じる活気あふれる場所だったことがわかる。

 

『理想的郊外生活地京成の美観』の船橋遊郭

『理想的郊外生活地京成の美観』(大正5年、三朋社、p58)にて船橋遊郭の広告を発見!追記する。

船橋町(遊廓)

辻井樓
稲葉樓
山口樓
ともゑ樓(電話七十一)
尋樓
天満樓(電話四十三)
新升樓
須川樓

船橋遊郭の妓楼名を初めて見た。一覧で載っているのはあまりないからだ。これは貴重な資料だ~!!

 

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データで見る船橋遊郭から海神新地への推移

上記のデータをもとに、妓楼数や娼妓数の変化を比較する。

【貸座敷・娼楼数】
大正年間:7、8軒
昭和5年:19軒
昭和6年:19軒
昭和31年:15軒

【娼妓数】
昭和5年:120人
昭和6年:93人
昭和31年:331名

15軒という数に300名以上の人が働いているというのはとても密な状態であるが、「売春禁止法」が昭和33年に制定され、赤線が廃止されるまでは大変賑わっていた場所だったようだ。

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玉川旅館から海神新地跡を歩く

「玉川旅館」が取り壊されるのを知り、すぐに駆け付けた5月。登録有形文化財であっても呆気なく解体されてしまう事実に、ただただ呆然とした。自分には何もすることができない無力感を感じながら、記録をする脚と手だけは止めないように、海神新地へと向かった。

 

海神新地は、玉川旅館から見たら成田街道を挟んだ北西の方向。現在は住宅地が広がっているように見えるが、所々にかつての面影を残したユニークな建物が点在している。

住宅地図には海神の方向に、「遊楽街」と記載がある。なんとも楽しそうな響き…

昭和30年の住宅地図

そんな海神新地の路地に誘われて、地図も気にせず、気の向くままに散策した。

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海神新地をぶらぶらと散策

気の向くままに探索したため、時系列や場所が前後している場合がありますが、ご了承ください。

看板建築のような商店

「ローズ薬局」。全体がほんのりピンクの薬局だが、建物のデザインが素敵。

ローズ薬局

コインランドリーが住宅に挟まれてぽつんと。

洗剤の自動販売機って珍しい。初めて見た。

バーや居酒屋の名残のある建物がちらほら。

「谷中電気商会」もかなり古そう。♦のマークがデザイン性がある。

谷中電気商会
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飲み屋が続くよどこまでも

海神新地

「カラオケスナック バレンチノ」名前が目を引く。一階部分にはフロアレディの募集。現在も営業しているかな?

玉川旅館の近くで見つけたホテル「シロー」。
清潔感のありそうな、ビジネスホテル。市役所が近いからかホテルも多数。

ホテルシロー

やけに自動販売機が多い建物。緑を基調としていてオシャレ。

原始人の人も食べていた 石の上のお料理「みのる」…

まさか海神新地で原始人体験ができるとは。これは気になる。

石の上のお料理「みのる」

裏道も気になってついつい散策。

「割烹 なべ三」が見えた。この老舗割烹料理屋も最近閉店したらしい。この時はまだ灯りがついていたようだが。

なべ三

閉店してしまった。

【料亭の閉店】太宰治ゆかりの玉川旅館に引き続き船橋「なべ三」も閉店。

海神新地に限らず、こういった場所に来ると猫が多い。建物関係なく、猫にも注目してしまう。

ネットでもよく見かけるこの建物。見るからに怪しい。

隣は「三田浜薬局・三田浜鍼灸治療室」。三田浜の文字が現在も残っているのは珍しいのではないだろうか。Googleの口コミを見るとかなり親切な漢方薬局のようだ。

三田浜薬局と寿司屋らしき建物

外観からして寿司屋だったのだろうと思うが、妙に入り口が奥まっていて、窓がふさがれているのが気になる。

かろうじて読める「鮨」の文字。

昔の住宅地図などから探してみたが、1963年には「寿し村上」。1955年には「大平寿し」と書いてあり、度々店名が変わっているのだろうか。

鮨?
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立派な家紋がついた新しそうな建物。「淀君」というお店だったらしい。

その近くの細い路地に、怪しい建物を発見。

和風スナック

「和風スナック きよ恵」。スナックの店名がかな文字を使っていると読みづらい。

「珈琲モナリザ」は外観からしてアンティークな喫茶店。ランチタイムは混んでいるとか。トマトのメニューも可愛い。

珈琲モナリザ

モナリザは元々食品店だったらしい。

この辺りは、何かしらの店舗だったのだろうと思われる不思議なつくりをした建物が並ぶ。窓が大きかったり、ドアが多いとやたらと反応してしまうのは悪い癖だ…

なぜ窓がないのか気になる建物。

エステのようだが、元々は寿司屋とか和風なお店だったのかなと思う。それにしてもミントグリーンが爽やか。ミントチョコレートみたいな組み合わせ。

エステ

何気に石のゴミ箱って好き。風景と同化していて見逃しやすいけど。

石のゴミ箱

この二軒、繋がっているように見える。バーとかスナックだったんだろうな。

BARの文字がうっすら。と思ったけど、床屋「いちかわ」。

やけにドアが多いベトナム料理のお店。ちぐはぐな建物が昭和らしい気がする。

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木造の建物。これは古そう。

隣はNODAYA。酒屋だったようだが、看板のみ残っている。

NODAYA

その奥には、NeNeと書かれた怪しい建物。夜になったら賑わっているのだろうか。

ここは窓の意匠が良い。よくネットでも見かける建物。

小料理の「一松」だったようだ。

一松

スナック八千代は、工事中?とてもお洒落な外観だけあって、シートで覆われているのが残念。

スナック八千代

しかも、オレンジ色の謎の物体がはみ出している…というより飛び散っている。一体何があったのだろうか。

水晶玉のようなものも取り付けられているのが気になる。

少し前まで、当時の妓楼が残っていたのだが、焼失してしまい、現在はアパートへと変わっている。木造建築を見ると、その当時を知っている建物ではないかと期待してしまう。

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船橋郵便局向かい、大沼デンキの傍には、レトロ電柱が残っている。電柱の傍だから見過ごしやすいが、この通りも栄えていたようだ。

壁紙が剝がれ、ボロボロの状態が気になる。

オレンジ色の看板が目立つ「つくし」は、口コミも高評価。隣の空き地も取り壊しになった建物だろうか。この通りにはレトロ電柱もあるので見逃せない!

つくし
これは古そうな木造家屋
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船橋「ミネ」赤線時代の海神新地の面影か

赤線時代の建物はほとんど残っていないが、唯一あるのが「ミネ」だろうか。かつてはミネのあたりが新地の入り口だったという。駐車場になっている隣も、最近まで怪しい建物があった。

成田街道について研究していた中学生の時に訪れていたそうだが、当時はそんなに興味が無く…写真すら撮っていない。安くて美味しいラーメン屋やまとも現在は消えている。

ミネとねこ

ネット上でも、かなり伝説?になっているらしく、熟している女性が多いだとか。65年以上の老舗は、かつて海神新地がこの場所に存在したことを示している。

レポについては以下の本をぜひ見てほしい。帯にもミネの写真が載っているほど。

https://amzn.to/3S5dewM

 

ミネ

昭和30年の住宅地図を見てみよう。「タカラヤ」がミネがある場所。「第二鈴元」が若松劇場があった場所。ミネが開業する以前の店名はタカラヤという違うお店だったのだろうか。

2022年4月撮影 看板が新しく

若松劇場は、妓楼だと思われる第二鈴元の跡地にできたものだと考えられる。

『赤線跡を歩く』では芝居小屋が前身ともある。鈴元は他の場所にもあり、今でいうチェーン店のような存在だったのだろうか?

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船橋で最後に残った妓楼「吾妻屋」

最近まで、といってもだいぶたっているが、最後の妓楼建築「吾妻屋」が廃墟の状態で残っていた。平成21年2月16日に焼失。今から10年以上も前の話。

それ以前は「静閑荘」というアパートだったらしい。6畳間の小部屋が並ぶアパート。吾妻屋の離れはクリーニング代を営んでいたこともあり、その名残も残っていたという。2階建ての大きな木造建築は、外観だけでなく、内部も遊廓ならではの丸窓などの施しがあり、残っている写真を見ると、焼失してしまったのが惜しいなとつくづく思う。放火というのがなんとも言えない…

しかし、吾妻屋の場所が果たして正しいのか、という見方もある。吾妻屋が果たして船橋に残る最後の妓楼建築だったのか。その真相については、吾妻屋の建物が無くなってしまった現在、わからず。

昭和30年の住宅地図

昭和30年頃の海神新地、赤線の様子を表したもの。

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かなりの数のスナックやバーが軒を連ねていた。その後、屋号をそのままにして昭和60年頃の地図にも店名が見られる場所をピンク色で囲った。かつてはレトロ電柱も、至る所にあったのかな。現在、残っているレトロ電柱は2本。吾妻屋、赤線時代の名残を知りたい方は要チェックです。

【レトロ電柱沼】船橋で見つけた11本のレトロ電柱~総集編~

昭和30年頃の赤線

昭和61年の海神の住宅地図には、「サロンミネ」と書かれている。若松劇場も健在だ。

昭和61年の住宅地図

ミネの前では、黒猫が門番をしている。

表の通りにも、ミネの看板が大々的に。

ミネ
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ストリップ劇場「若松劇場」と「ニュー大宝」

若松劇場

ミネからほど近い、「若松劇場」があったあたり。現在は新しい一軒家になっている…2013年頃解体。

1969年に開館。席数は100席。最後まで千葉県に残っていたストリップ劇場だ。若松劇場の宣伝カーも駅前で走っていたらしい。

若松劇場跡地

また、船橋には劇場が3つほどあった。「若松劇場」「西船橋OS」「ニュー大宝」である。

ストリップ劇場について知りたい方は『女の子のためのストリップ劇場入門』を読むとわかりやすいです!私はハマりました…

 

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ニュー大宝

「ニュー大宝」は、1984年~2011年頃まで営業。ニュー大宝は、船橋駅近くにあったストリップ小屋の「大宝」が移転したもの。大宝は1階がストリップ劇場、2階がキャバレー。大宝は50席。住宅地図を見ると、キャバレー大宝の名称を確認できる。

ニュー大宝は、1984年に移転。1階が受けつけ、2階がステージというつくり。閉館した後は、ステージがそのまま残ったライブハウスとして利用されていたようだ。最近は廃墟だったそうだが、最近居酒屋がオープンしたようで、ストリップ劇場の名残を感じれるということで、近々行ってみたい。

『写真アルバム 船橋市の昭和』(2016年、佐々木高史、株式会社いき出版)にニュー大宝の写真が載っていたので引用する。

キャバレーニュー大宝火災現場。昭和42年4月2日の深夜、住宅街のなかにあったキャバレーが火災を起こし、4棟が焼けた。旧湊町3丁目である。<昭和42年>

キャバレーニュー大宝が全壊している様子が見える。

こちらの写真は『目で見る 船橋の100年』(2007年、神津良子、株式会社郷土出版社)に掲載されているものである。

国鉄船橋駅南口の歓楽街(昭和43年頃) 船橋のご当地ソング「男の町だよ船橋は」に唄われるように、船橋駅南口駅前通りを少し入ると迷路のように小さな路地がたくさんあり、酒場、飲食街、劇場が軒を連ねる歓楽街であった。今では縮小されているが、数十年前のままの雰囲気を醸し出す場所もまだ残っている。

「ヌード界の横綱大宝」という看板がとても面白い。船橋のご当地ソングに男の町と唄われているのは驚きである。

新築菊水ホテルも気になるが、現在は無い。

 

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「バー銀河」

下の建物もとても気になった。アパート?
でも窓から見える建物の内部のつくりがおかしい。先ほどの住宅地図と照らし合わせると「バー銀河」とある。一見、アパートのような建物であっても油断はできない。地図と照らし合わせて思ったのだが、もしかしたら赤線時代の名残かも。この建物の隣にある建物も、もともとは旅館だった。転業した旅館かもしれない。今は普通の住宅に。

バー銀河?

「明治牛乳三田浜販売所」の建物も、当時はどんな店舗が入っていたのか気になるところ。赤線、青線の匂いがプンプンするのだが…

「明治牛乳三田浜販売所」

遠くからでも目立つ煙突。「紅梅湯」は現役で営業中。

 

紅梅湯

「ホッピーハウス第16号店」って国道16号が近いからってことかな?骨組みが露になっているのが寂しい。

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追記:「男の街だよ船橋は」

「男の街だよ船橋は」という曲を知っている方はいるだろうか?の1970年にデビューした男性歌手、黒羽三郎のシングルだそうで他にも「夢街 船橋 恋の街」という曲がある。

残念ながら、ネット上には冒頭の音源しかないので全部聞くには購入するしかなさそうだ。歌詞の一部はこちら。

小雨に濡れてる本町を
襟をつま立て駆け抜けた

どうせ恋など縁ない奴が
慰め言葉に涙ぐむ
男の街だよ船橋は

男と女が戯れて
笑って過す湊町

どうせ一夜の薄なさけ
義理と人情が結びつく
男の街だよ船橋は

哀しい通りさ裏新地
拗ねた女の匂がする

どうせ一度は捧げた操
帰るあてない貴方を待つ
男の街だよ船橋は

本町、湊街、新地と船橋一帯が男の街、つまり色街であったことを示している。昭和の歌詞にはこのように街の様子を表すものが多かったのかもしれない。とても面白い。他の地域にもこのような歌詞がないか、探してみたい。

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追記:写真で見る船橋遊廓・赤線

『写真アルバム 船橋市の昭和』(2016年、佐々木高史、株式会社いき出版)に船橋海神の写真が載っていたので追記する。

海神新地の入会地に昭和3年に開業した新地遊廓。海神新地と通称された。業者はほとんどが東京からきていて、当初は12軒であったが、しだいに増加して終戦前には23軒あったという。<昭和初期>

昭和初期の海神新地の貴重な写真である。

次の写真は昭和42年。

海神新地の一角である。大正15年、県の指令により本町通で営業していた貸座敷を移転させるため、海神の水田中に区画(約8000坪)をつくった。しかし、開業したのは東京の業者であった。写真は営業停止(昭和32年)跡10年経過しているが、跡地には酒場や料理店があり、旅館はアパートなどに変化している。<昭和42年>

アパート静閑荘というのが最後まで残っていた吾妻屋と思われる。右手にはレトロ電柱も。

次の写真も同じく昭和42年。

海神新地の一角である。この道の右手が国道で郵便局が近い。売春禁止法の施行からすでに10年を経過しているが、そのころのたたずまいを残す旅館もあり、バー・飲食店が集まっていることも特色である。<昭和42年>

旅館島喜、質屋いのうえなどの看板が見える。

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『目で見る 船橋の100年』(2007年、神津良子、株式会社郷土出版社)には赤線時代の海神新地の写真が掲載されている。

新地遊郭(昭和31年頃) 昭和3年、本町通にあった貸座敷・引手茶屋が移転した海神5丁目が、新地遊郭(新地)と呼ばれた。戦後GHQが公娼廃止の指令を出したが、特殊飲食店として営業を続けた。昭和33年に売春禁止法が罰則付で施行され、遊廓は廃止された。現在は酒場が多くある。写真は廃止直前の新地遊郭のようす。

煌びやかなネオンが光る海神新地の様子。どの場所の写真かよくわからないが、男女の姿が見える。

 

「海神新地」その姿はこれからも時代の移り変わりとともに、変遷していくだろう。海神新地としての名残が残るミネ、そして2本のレトロ電柱。

その最後の姿を見ることができる世代かもしれない。そんな思いで探索した。

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(訪問日:2020年5月)

 

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