「吉原遊廓」繁栄の歴史と「新吉原」の現在を探索。日本最大級の遊廓、吉原遊廓を知る -吉原①

―吉原遊廓ーかつて「三大遊郭」として大阪の新町遊廓・京都の島原遊廓と並び繁栄していた吉原。様々な記録が残っている吉原遊廓は、江戸文化の中心地でもあった。
今回の記事では吉原遊廓の成り立ちから、繁栄の様子、そして現在に見ることができる吉原遊廓の名残を探索する。吉原遊廓は明るい話題だけではない。繁栄の裏にあった闇についても理解しながら進めていきたい。
元吉原から新吉原へ
吉原遊廓の歴史は日本橋から始まる。意外と知らない人も多いかもしれないが、途中で移転し、現在の位置になったのだ。
江戸時代、慶長18年(1613)に庄司甚左衛門が、現在の日本橋人形町2、3丁目のあたりに遊女屋を開業した。その場所は、海岸近くに葦(よし)が茂るとても寂しい場所だったために、「芳原」から「吉原」と名称が名付けられたという。
その場所の吉原を「元吉原」と呼び、移転後の場所を「新吉原」と呼ぶ。
その後、明暦2年(1656)に幕府は吉原の移転を命じた。候補地としては浅草寺の裏の日本堤か、本所とされており、沼地だった日本堤を島のように遊廓の形に整え、現在のようになった。
中央入り口に吉原大門があり、周りはお歯黒ドブで囲まれ、塀は栗板塀である。門から奥まで仲之町通りには桜並木があった。中央桜並木には火伏せの神・秋葉様が祀られ、四隅には稲荷社が祀られていた。
現在吉原で遊ぶ際は駅まで送迎車が迎えに来ることが多いというが、江戸時代は駕篭に乗って大門まで行き、廓内は徒歩で移動していた。近所の人は遊廓まで徒歩の場合もあるが、人目を避ける意味とゆとりがある振りをするために駕篭で移動したという。
遊女屋の大きいお店を「大見世」または「総籬(そうまがき)」と呼んだ。格子によって見分けることができる。
吉原遊廓の規模
吉原遊廓の敷地面積は2万坪あまりとされ、日本最大級の遊廓であった。「一日千両落ちる場所」といわれるほど、数千人の遊女が働いていた。
『新吉原細見』という刷り物に、お店ごとの遊女のランクなども記されていた。
『全国遊廓案内』に「東京吉原遊廓」として吉原の情報が載っている。
吉原の現勢としては、引手茶屋が四十五軒、貸座敷業が二百九十五軒、紅唇の娼妓が三千五百六十人働いて居る。
過半数は東北地方の女性。
『図録性の日本史』
『図録性の日本史』に「遊女の股倉にせっせと金を運ぶ男性達」との見出しで書かれた興味深い文章がある。
遊女の股倉は金銭吸収器であって、貯蔵する倉ではない。故に女性の大股の中央倉に、大勢の色欲亡者が列をなして金を運ぶ図は、葛飾北斎を始めとして、数人の浮世絵師が描いて色欲の凄さを揶揄しているが、こうした社会の女性の股倉に迷って身代を潰した男性は、古今東西を問わず枚挙にいとまなく、現代に及んでいる。
遊女は身売りされ、借金のある場合が多く、早く解放されたいがために多くの男性を夢中にさせる必要があった。その様子を揶揄している文章。
吉原遊廓の現在
吉原遊廓の名残を探索しよう。最寄り駅は東京メトロ日比谷線「三ノ輪駅」だと思うが、普段私は浅草寺の方から観光ついでに歩いたり、「南千住駅」から降りることもある。
現在は日本一ともされる風俗街である吉原。


平日であっても吉原へ向かって大きな車が出入りする光景を目の当たりにすると、他の場所では感じない独特な緊張感にドキドキする。

撮影をする際は、周囲への配慮を怠らずに。決して遊ぶ半分、冷やかしの気持ちで訪れる場所ではない。
見返り柳
まず「見返り柳」。土手通りに面したガソリンスタンドの隣、吉原大門交差点にある。

吉原遊廓で遊んだ客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、柳のあたりで遊廓を振り返ったとされることから「見返り柳」と名付けられた。

実際に見ると意外と小さいのだなと感じるが、これは何度も植え替えられ、現在は6代目。また、以前は山谷掘脇の土手にあったが区画整理によって移転したもの。

現在は観光用としての役割だろう。向かい側にある手打ちラーメン「武蔵」。気になっていたけど閉業とのこと。残念。

島原遊廓にも柳の木がある。
五十間通り・吉原大門
柳の木から吉原遊廓の方へ。地図を見るとよくわかるが、吉原の入り口から大門までS字カーブになっている。この道を「五十間通り」と呼び、外から遊郭が見ないようになっている。

吉原への出入り口は大門のみ。遊女が逃げないようにとの目的も。
吉原大門は現在残っていないが、柱が建っている。江戸時代は黒塗りの木造アーチ門があったという豪華なつくり。ここから仲之町通りが奥まで続いていた。
お歯黒ドブ
遊廓の周りを囲っていた「お歯黒ドブ」。その堀の深さは約3.6mともいわれていて、遊女の逃亡対策に余念がない。

お歯黒ドブがあったとされる、遊廓の外側を歩いてみる。すると、遊廓と外側の高低差に気づくだろうか。

江戸町通りの一本隣、千束4丁目を歩く。

よく見ていると、階段があり明らかに遊廓内の方が高い土地になっている。


こちらは台東区立吉原公園。
ここにも高低差がしっかりと確認できる。

そしてさらに「カストリ書房」の近く、階段の傍に「お歯黒ドブの石垣跡」が残っているので要チェック。

黒ずんだ石垣が現在まで残されているのは当時の様子を知る上で貴重。角にこっそりと残っているのが凄い。

吉原公園
吉原公園は、向こう側に風俗店が並ぶ、独特な雰囲気の公園。公園内では休憩している方がいた。

かつては吉原遊廓の中でもひときわ大きかった「大文字楼」があった場所。敷地の広さを公園から知ることができる。
花園通り
吉原遊廓の南側を囲む「花園通り」はかつてお歯黒ドブだった通り。下級の遊女がいる「羅生門河岸」と呼ばれていた。

小部屋が長屋のように並んだ建物は「局見世」と呼ばれ、最低ランクの遊女屋だった。客の袖を離さず、鬼のような形相の遊女がいたという話も残っている。


吉原の現在の街灯
吉原の現在の街灯は赤く、夜になると通りを照らす。

遊廓時代の名残か、赤いぼんぼりのようなデザインが素敵。街灯と一緒に小さな柳も設置されていて、吉原の雰囲気が今も感じることができる。

吉原神社
吉原に祀られていた稲荷社を合祀して明治8年に建てられた吉原神社。吉原大門から仲之町通りをまっすぐに進み、廓内の端にあたる場所にある。

「逢初桜」は、思い焦がれていた人に初めて会うという意味があり、吉原神社のご神木だったが、明治44年の大火で焼失。最近復活したという。

吉原神社のご利益は、開運、商売繫盛、技芸上達など。若い女性にも人気だとか。

境内では「吉原今昔図」が2,500円で販売中。吉原探索のお供に。

本堂の隣にあるのは「お穴様」。


玉垣には料亭の名前も残っていた。

東京都立台東病院
吉原神社の隣にある病院は「東京都立台東病院」。

かつては「東京都立吉原病院」と呼ばれ、性病専門の病院だった。1911年に警視庁によって、吉原をはじめとした洲崎、新宿、品川、八王子、府中に警視庁病院が設けられたことがはじまりとされている。
水道尻通り
吉原病院から浅草の方へ行く道は、「水道尻通り」と呼ばれる。

火の見やぐらと火伏せの神である秋葉神社を祀った常燈明があった。水道尻の名称は元吉原から引き継がれ、かつて神田上水が引かれていたことが由来している。

新吉原花園池(弁天池)跡
最後に「新吉原花園池(弁天池)跡」。

すっかり夜になってしまったが、それはそれで幻想的な雰囲気。

最初に囲っている玉垣に注目した。
吉原遊廓に関する玉垣
水常楼、第二あけぼの…

中村楼…


長金楼…





角海老楼 遠藤はつの名前。



境内の掲示板
境内には掲示板にポスターやチラシが貼ってある。夜でも明るい。

吉原遊廓の明治頃の写真も掲示されている。花魁道中が綺麗。


境内には、10月に訪れたため彼岸花が美しく咲いていた。

関東大震災と吉原
かつてここには「花園池」「弁天池」と呼ばれた池があった。しかし、大正12年の関東大震災の時に多くの人がこの場所に逃れて溺死するという悲惨な事件が起きてしまった。
吉原遊廓の遊女、500人以上が亡くなったとされているがその大多数の490人が弁天池で亡くなったという。その理由は、吉原遊廓からの逃げ道は吉原大門のみ。大火災から逃げようとした遊女たちは、行けに飛び込むしかなかった。しかし、池は深く、さらに次々と飛び込む遊女たち…想像するだけでも地獄絵図だ。
関東大震災というと、浅草十二階が倒壊したのが有名だが、吉原遊廓の被害は相当なものだったという。
昭和34年(1959)に吉原電話局の建設の影響でほとんどが埋めたれられ、現在はたった少しの池だけが残っている。
最近の2011年に発生した東日本大震災でも、弁天池の灯篭が3基、倒壊、前回の被害が出たという。弁天池には玉垣だけではなく、灯篭にも妓楼の名前が刻まれている。

「花吉原名残碑」は新吉原がこの場所にあったことを示す記念碑で、昭和35年に設置された。江戸では有数の遊興地、江戸文化の中心であった吉原遊廓は、昭和33年に「売春禁止法」によって廃止。

地域の有志の方によって建てられた石碑は、現在も綺麗に整備されている。吉原遊廓の歴史は、地域の人々にとっても思い入れが深いようだ。

大正15年(1926)に建てられた大震災殃死(おうし)者追悼記念碑。遊女たちの供養のために祀られている。築山の上に観音像が静かに見守っている。

境内の奥には吉原弁財天本宮。道が照らされており、思っていたよりも明るくて参拝しやすい。

現在は近くの「吉原神社」と合祀されている。

吉原探索へ訪れたら、関東大震災と吉原遊廓の歴史にも触れてみてはいかが。

華やかな歴史ばかりではない。
吉原遊廓案内図
かつての吉原遊廓の案内図をイラストで描いたもの。周囲をお歯黒ドブで囲まれ、入り口は吉原大門のみ。今回は、吉原大門から入って、北に進み探索をした。

遊廓時代の位置関係と現在の位置関係を照らし合わせながら探索すると面白い。
吉原遊廓のこと、現在の吉原について、私と同年代の人はあまり知らないと思う。
遊廓は歴史を閉じたが、その時代を生きていた人々の名前が現在も玉垣や灯篭など、数多く残されている。表舞台には載っていないが、当時を必死に生きていた人々の記録。これからも残していきたい。
今回は前編。次回は吉原の赤線時代を辿る。
(訪問日:2020年10月)
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台東病院というのはやはりそうでしたか…。
カストリ書房で買った大正時代の廓抜けした方の書いた本に出ていた病院はそうかなとは思っていたのですが。
友人のお祖父様が明治から大正にかけての頃なのでしょうか救世軍の活動家で花魁(と言っても江戸時代のそれではなく近代の遊女一般ということでしょうね)を解放する活動、廃娼運動に携わっていたとのこと。楼主たちが仕向けた暴漢に襲われ重傷を負ったこともあったとか。
さてお歯黒溝の石垣のうちもう一箇所の残った部分を生憎寡聞にして知りません。何処にあるかご存知でしょうか?
お歯黒の石垣のもう一か所ってどこでしょう?私もまだよくわかっていません…!