「カフェー建築」吉原に残る戦後の赤線地帯の遺構を探る。吉原遊廓から赤線へ -吉原②
”吉原”、遊廓や赤線探索をしている方にとって、吉原という場所は特に印象深い場所なのではないでしょうか。
遊廓跡地を巡り始めてから半年、何度も吉原の赤線探索へ足を運びましたが、他の場所とは違った独特な雰囲気を感じました。そして今年に入ってからは、吉原のカフェー建築も2軒取り壊されるなど、その遺構は少なくなってきています。
今回は、「吉原と赤線」に注目してカフェー建築の遺構などを探っていきます。
前回は「吉原遊廓」と現代の吉原の様子についてご紹介しました。もし読んでいない方がいたら合わせてご覧ください。↓
「吉原遊廓」の繁栄の歴史と「新吉原」の現在を探索。日本最大級の遊廓を知る -吉原①
赤線とは
吉原の赤線時代について。まず赤線について詳しくない方もいると思うのでさらっとおさらい。
一般的には戦後、GHQは民主化政策の一環として、日本政府に公娼制度の廃止を要求。東京の吉原や新宿2丁目などでは飲食店として風俗営業の許可を取ることで、娼妓は女給となった。東京ではそうした場所は「カフェー」などと呼ぶように。(地域によって異なる)
「赤線」というのは、警察が遊廓などの風俗営業が認められている場所を地図に赤く線で囲んでいたといわれており、それが「赤線」の語源になったとか。
またよく耳にする「特飲街」(特殊飲食店街)の言葉はカストリ雑誌などで使われていたという。
そして赤線が廃止されたのは昭和31年(1956)に制定された「売春禁止法」によって、昭和33年(1958)までに営業していたカフェーなどは廃業したといわれている。が、店舗はバーやスナック、旅館、ホテル、と転業し密かに営業を続けているお店もあったという。
吉原と赤線
吉原の赤線地帯については資料が多く残っている。様々な資料から引用する。
『全国女性街ガイド』
『全国女性街ガイド』(昭和30年、渡辺寛)
吉原は、今年になって更に変り、天然温泉が湧くという革命的飛躍期に入った。吉原病院向井の検査場のとなりにボーリングを据えつけ、この夏から二十七軒ほどが天然温泉の看板をかけて営業を始めた。
『全国エロ町案内決定版』
『全国エロ町案内決定版』(昭和27年発行)
歌にも残る見返り柳をくぐれば、いまは揚屋町喫茶街―などというネオン看板が、大門の石柱から柱にまたがついている。
だが、吉原も今は昔の物語である。わちきはすきでありんすの廓言葉も、女郎買いの失敗も、今日の落語ででもなければ聞くことができない。
吉原も遊廓時代のお歯黒ドブもなくなり、自由恋愛の場所となったという。そして、電灯がある吉原遊廓の女性は品位が高く、大学で学んだインテリ女性が多いというのも特徴的と書いてある。
すなわち、昔の吉原が、女を道具のようにして、遊蕩児がそれをもてあそんだのに反して、現在の吉原は、自由に、そして民主的に、客と女給は互いに愛人をえらぶことができ、気持があえば簡易明快に、恋愛を楽しめる場所になつたのである。
データ
昭和27年
女給:800名 お店:185軒昭和29年
女給:1200名 組合加入店:270軒
カフェー建築とは?
赤線地帯では特徴的な「カフェー建築」と呼ばれる建物が知られている。カフェー建築の特徴についてもまとめておこう。
『玉の井 色街の社会と暮らし』
『玉の井 色街の社会と暮らし』にカフェー建築についての記載がある。
赤線にあったカフェ―の建物は独特のデザインで装飾されていた。タイル貼りの柱、丸や扇形の飾り窓、一階の屋根先に取り付けられた大きな庇など、アールデコでもなく、誰がデザインしたというものでもない独特の装飾で飾られていた。いわゆる「赤線建築」とも呼ばれ、戦後の一時期を象徴するようなデコレーションであった。
カフェ建築は、タイルの柱、飾り窓、大きな庇など特徴的な装飾が施されている。というのも、風俗営業をしている建物であることがわかるようにしなければならなかったからである。客にとっても、警察にとってもカフェー建築のデザインは夜でも輝きを放っていたに違いない。
建物一階の道路に面した前側の部屋は土間となっていて、ここはホールと呼ばれ、机、いす、バーカウンターなどが置かれている。一応は飲食店であることから、壁などにはウイスキーの酒瓶が置かれていることもあるが、中身は水を入れた飾りであった。ホールは建物の床面積の半分近くを占めているが、ここを広くしておかないと狭苦しく感じられ、客が寄り付かないためであろう。
ホールで客は女給を待ち、階段から二階へと上がる。二階には小さな部屋が区切られている。ホールの裏側にある「帳場」で経営者が仕事をする。また、便所には洗浄機も設置され、病気の予防に努めた。
『建築デザインの解剖図鑑』
『建築デザインの解剖図鑑』にカフェー建築の見極め方が載っている。
①入り口が2か所
②装飾過多
これらがすべてに当てはまるというわけでもないが、参考程度に。
入り口が2か所、複数あるのは客同士が鉢合わせにならないようにとの工夫だった。現在はその入り口をふさいでいる建物も多い。二階には大きなバルコニーを設け、下からの視線を防ぐ。現在はアパートなどに転業し、建物も改装されている場合があるが、意外と側面の壁に当時の色が残っている場合も。
また、公安委員会の鑑札が残っている場合もあるので忘れないように。
残っているカフェー建築には現在も住んでいる方がいる。生活の場であることを忘れないようにして、謙虚な姿勢で探索に臨みたい。
吉原カフェー建築MAP
吉原のカフェー建築を手描きMAPにまとめました。赤は現存する建物、カフェー建築に番号をつけています。
①徳兼(角えび)
江戸一丁目通り。現在、「角えび吉原本店」として営業している建物も、実はカフェー建築の名残が残っているらしい。旧屋号は「徳兼」。
角海老グループは宝石販売業、ソープランドを経営する企業。創業は1950年代ころといわれ、社名は吉原遊廓の「角海老楼」から取ったが、歴史的つながりはないとされている。
首都圏を中心に31店舗、ボクシングジムも経営している。
以前松戸の平潟遊郭を探索していたときに店舗に遭遇。↓
「平潟遊郭」ここも忘れてはならない!遊女が祈りを捧げた場松戸の「池田弁財天」
「角海老」と聞くと海鮮料理店と間違える人もいるそうだが、全く異なるので注意…
2020年10月に訪れた際は、なぜか閉まっていた。亀有店が営業している?
建物の側面にまわると、カフェー建築時代の名残を感じれるような。表は豪華だけど建物自体は古そう。
②白菊
角えび本店の斜め向かい側、旧屋号「白菊」のカフェー建築が残っている。以前訪れた時は気づかなかったが、扉が左右に二か所。窓が大きくあり、タイル、そして色彩豊かな壁。
カフェー建築の名残が色褪せずに残っている貴重な建物である。
中央の青い丸いタイルは見ていると吸い込まれそうな。
角海老とは目と鼻の先。
側面にもタイル、そして大きな窓、扉がある。
さらに!奥の扉の上の窓に「白菊」の文字がうっすらと残っているのがわかるだろうか。これは凄い。屋号が現在も残っているのはここだけでは?
建物の脇には、東京オリンピックを境に姿を消したといわれるコンクリートゴミ箱。東京で残っているのは珍しく感じる。
建物は奥に長い。この一角は昭和の雰囲気が漂う。
徳兼の横の道を進み、かつてお歯黒ドブだった方へ進む。昭和33年の地図を見ると、下のアパートのあたりまで「白菊」の敷地だったそうだ。もしかしたら関係がある建物かも。
アパートの名称は「白茶荘」とある。
その先にはお歯黒ドブの名残といわれている石がある。(もし本物だったら凄いな)
遊郭専門書店・カストリ書房
遊廓・赤線探索では欠かせない「カストリ書房」さん。奥に見える建物がそうだ。
遊廓専門の書店である「カストリ書房」では貴重な文献を購入することができる。最初は入るのにためらうかもしれないが、意外と若い女性も多いそうなので気になる方はぜひ。
定休日は月火。平日は予約制なのでホームページから。
隣にあるアパートらしき建物もとても古そうだ。
③モリヤ
カストリ書房から東へ進み、住宅街の中へ。伏見通りは営業禁止区域であるためカフェー建築が多く残っている密集地帯として有名。千束4丁目。
おや、工事中か…と思って見逃してはいけない。実はここにも少し前まで有名なカフェー建築が残っていたのだ。
旧屋号「モリヤ」赤いポストと富士山のようなデザインが特徴的なアパートだった。しかし、今年3月に訪れた時には解体されていた。おかげで隣のカフェー建築が良く見える。
令和2年3月31日に4階建ての建物が竣工予定。
まさか更地になっているとは思わず、3月に訪れたときは赤いポストの建物をひたすら探し回っていたなあ。カフェー建築は老朽化も激しい。早めの行動をお勧めする。
④プリンセス
屋号「モリヤ」の隣にある、まさに吉原カフェー建築の女王!旧屋号「プリンセス」である。
残っている吉原カフェー建築の中で圧倒的存在感がある建物。
「岩淵荘」としてアパートに転業。
プリンセスは他のカフェー建築と比べても丁寧に撮影した。お付き合いください。
よく見ると下部の柱が灰色になっているが、元々なのか塗り替えられたのか。
カフェー建築が続々と取り壊される今、もしかしたらプリンセスも危ういのではないかと危惧する。
角のカーブに惚れてしまう。
アールの部分には細く赤いデザインも施されており、建物を引き締める。
窓や扉は改装されているようだ。
こちらの窓の格子は木製。とても古そうだ。
プリンセスの裏は駐車場になっている建物。
建物の裏側に目を向けると、ピンク色の壁の色が見えた。
営業禁止区域であるため、この辺りは人通りが少ない。
壁の材質は砂が混じっている。
屋根に目を向けると、電球の名残か、何か残っていた。ひび割れが凄いな…
旧屋号「モリヤ」のカフェー建築と並んでいた姿は圧巻だったのだろうなあ。
実はプリンセスの向かい側、現在駐車場になっている場所にも灰色のカーブが印象的なカフェー建築旧屋号「金よし」が存在していたが、2006年に取り壊されたようだ。
ビルの隣、喫茶リゲイン
金よしの隣に古そうな建物が残っている。
細い通りの先にあるのは有名な建物。
「喫茶24リゲイン」の廃墟。
ゲームと書いてあるが、吉原の喫茶というのは情報喫茶だろう。
昭和33年の地図を見ると、お店が密集していて屋号が読みづらいくらいだ。
空き地になっている場所にも古い建物があったのだと思う。その奥にも古いトタン板で囲まれた建物。
元々は何のお店だろうか。
喫茶24リゲインの向かい側にある建物も、もしかしたらカフェー建築?と思ってしまう作り。
他の方が情報を載せていないので実際のところわからないが。
⑤マスミ
同じく伏見通り。旧屋号「マスミ」である。
以前は建物の上部にあるマスミの文字に気づかず、カフェー建築とわからなかった。それくらい見過ごしてしまう。
電球が2か所残っている。
マスミの文字は壁と色が銅かしているが良く見える。
柱も円柱。
マスミの向かい側には解体された「親切」のカフェー建築が少し前まで残っていた。4本のアーチで大きかったが、現在はアパートに。
マスミの裏へ回ってみた。
入り口が2か所。部屋数も多そうだ。
元々は違う色だったのか、ピンク色の壁が見える。
伏見通りにあったアパートのような建物。これはカフェー建築かわからないが怪しいので一応載せておこう。
⑥黒潮
旧屋号「黒潮」も有名なカフェー建築。
カーブが美しい正面のデザイン。入り口が2か所、奥に長い建物。
典型的なカフェー建築…
客同士がぶつからないように、入り口が複数あるカフェー建築が多い。
その隣は駐車場に。
黒潮の裏側。
遠くから見ると、結構奥行を感じる。
近くにあったアパートらしき建物。吉原を探索しているtpカフェー建築ばかりに見えてくる。
ピンク色の建物
黒潮の2軒先にあるピンク色の壁の建物。伏見通りには面しておらず、半分ほどの敷地。
カフェー建築かどうかはわからないが、よくみると趣がある。
花園通り
花園通りは、かつて「お歯黒ドブ」と呼ばれる水路があった通り。遊女が逃げないように、吉原遊廓の周囲には水路で囲われていた。
そして「羅生門̠河岸」と呼ばれ、水路沿いには下級の遊女屋が並んでいたといわれている。反対側の水路の方は「浄念河」と呼ばれていた。名称からして悲壮な…
もちろん現在はお歯黒ドブなどなく、道路となっている。
下級の遊女屋があった通りにも、赤線時代は多くのお店が並んでいた。
江戸町通りの入り口。現在の吉原には各場所に柱が建っており、その場所を知らせる。
花園通りから、吉原遊廓とは反対側、浅草5丁目を見ると商店が建っている。
浅草5丁目の方も探索したら古い建物がありそうな雰囲気。
吉原の方面に向かって、昼間から多くの車が出入りしている。黒や白の大きな車、いわゆる送迎車だろう。
⑦白揚だった場所
こちらは角町通りの入り口にある「青閑荘」。このアパートのある右手にかけての細長い敷地に旧屋号「白揚」があったようだ。
他の場所よりもかなり大きな敷地。一体どんな建物だったのか気になる。現在はアパートや風俗店が並んでいる。
⑧助六
角町通りの隣にある通り、京町通りの寿司屋のような外観の建物は旧屋号「助六」。
3階の屋上へと出る扉もある。言われないと気づかないカフェー建築の名残だ。
⑨旅館日光荘
旧屋号「日光」は旅館日光荘だったが、廃業。隣のマンションの場所にも「旅館常盤」があった。旧屋号「ときわ」。
現在は「浅草旅籠」となっている。日光堂の看板も無くなっている。
⑩明石
正直ビヤホール本店があった建物の左側の路地を通って奥へ。ビヤホールは閉業し、駐車場になった。
そして目の前に広がる更地。この場所にも半年ほど前には、旧屋号「明石」のカフェー建築が建っていた。
こちらは2020年3月の写真。あまりカフェー建築について詳しくなかったため、写真を多く撮らなかったことを後悔している。まさか取り壊されるとは思っていなかった。
明石の建物は更地になってよくわかるがとても広かった。取り壊されたとSNSで見かけたが、詳しく知りたかったので、近くのお店のボーイの方に話を伺ってみた。(毎日お店の前にいる方なら知っていると思って)
そしたら私が訪れた10月4日の2週間ほど前には工事が完了し、更地になったとのこと。近寄りがたい印象だったが、優しく教えてくださった。
カフェー建築も悠長なことは言ってられない。
⑪ゆうらく
明石の奥に見えるのは、ハートのような壁のデザインで有名な旧屋号「ゆうらく」。
隣が更地になったので、この辺りの薄暗さが減少した気がする。
ハートのようなデザインの壁は健在だった。
以前訪れた時は、数枚しか撮影しなかったので今回はたくさん撮った。
建物の裏の入り口。
旧屋号「ゆうらく」の隣は、「新柳」というカフェー建築だったそうだ。
追記:2021年冬、解体中とのことです
裏の門もよく見ると趣向が凝っている。
木彫りのデザインが他では見たことが無い。幾何学模様みたいな…
また、「ゆうらく」の建物の裏側には白や緑、ピンク色の塗装の名残が見える。
「ゆうらく」がこの建物まで含めるとすると、とても広い敷地だったことがわかる。
赤い庇が残っていた。
旧屋号「ゆうらく」のカフェー建築の正面。
入り口が数か所あり、手前の大きな入り口はホールだったのかな。
和洋折衷の外観。
以前は気づかなかったのだが、2階の屋根裏についている電灯。
ひし形の形をしている。屋根に沿って数か所、施されていた。
昔の写真を見ると、かつては装飾が施されていた。角の壁には大きな看板があったと思われる痕跡も見える。
千束4丁目。向かい側は現役のお店が営業中。
以前の2020年3月に訪れた際の写真は記事にまとめている。
⑫鶴川
更地になった旧屋号「明石」の隣。白い建物も名残?旧屋号「鶴川」といわれている。
角の入り口。有限会社稲毛製靴。
事務所として使われていたように思う。
⑬白鶴
鶴川の裏にあるのが旧屋号「白鶴」。鶴に関連した名称なのが気になった。
よく見ると建物の年季が凄い。
しかし、表側は改装されており、現在は現役のお店として営業中。びっくり。
⑭太閤
更地の隣にあるのは旧屋号「太閤」。更地になったことで、建物の構造がよくわかる。
現在は宿泊所ふるさとあさひ館。
このカフェー建築は比較的綺麗に残っており、扉や窓がノスタルジックな雰囲気だった。
中央には大きな窓。ここから客を見定めていたのかな
旧屋号「太閤」と「ゆうらく」。令和の時代も生き残っている。
カフェー建築?
「太閤」と同じ並びになった建物だが、この建物もカフェー建築ではないか?と思う。
スペイン瓦、広い入り口。
柱にはタイルが施されている。
正面の入り口は改装されているが、窓と扉に違和感を感じる。
カフェー建築の左を進むと、仲之町通りに出る。
大黒屋
カフェー建築とは関係が無いが、昭和33年の公娼廃止時にも存在した「大黒屋」。
たばこと履物を販売中。
探索していたら暗くなってきた。吉原の夜が始まる。
旧角海老?
仲之町通りの交差点にある赤い建物。
質屋星野の広告が見える。今回質屋を見かけなかったが、歓楽街と質屋の関係性は深い。
建物の角に看板が残っている。「角海老」とある。
廃業しているようだが、向かい側に見えるマンションの場所にかつて吉原遊廓TOP3を占めていた「角海老楼」があった。
場所的に偶然なのか、必然なのか。
赤線時代の吉原を案内
『全国女性街ガイド』に赤線時代の吉原の様子を案内している記述があるのでまとめた。
カフェー建築と合わせて少し確認してみよう。
・京町一丁目
角海老、大華、玉喜など老舗が多く、女性も吉原流に教育されている。値段が高い。泊まり11時から4千円台。
・京町二丁目
かつては京一に次いで良かったが、西部劇に出てくるような新店が増築。泊まり2500円。
・揚屋町
吉原の銀座。泊りは12時半から平均2千円。変わったお店が多い。値段も高いが、豪華なお店で一生想い出として残る。
・角町
泊まり千円~1500円クラスの店が続き、浅草的な若い子が多い。そこから裏通りの栄町にかけて学生、若い工員に人気。
・江戸町一丁目
戦後は空き地が多かった。ぐんと安く、おとっちゃんや職人向け。徳兼。泊り千円より。
・江戸町二丁目
泊まり千二百円。
吉原には、赤線時代の名残であるカフェー建築がまだいくつか残っている。有名な建物も多いが、吉原がかつてどのような様子だったのかを知ることで見えてくることもあると思う。
(訪問日:2020年10月)
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「カフェー」と見ると、カフェー丸玉女給事件を思い出す、元法学部生・・・
吉原は歩くのも怖いと思ってしまうのですが、ものすごい力作ですね。
カフェー丸玉女給事件って初めて聞きました。確かに最初は怖いですが、意外と親切な方もいたので良かったです。