浅草「東本願寺」。門前町の街並み”俘虜収容所”の歴史も
前回に引き続き、夜の浅草のを散歩。ふらふらと歩いていたら、東本願寺、そしてその門前の景色が気になって足を止めた。
浅草「東本願寺」
東京都台東区西浅草1丁目5−5。前回の銭湯「三筋湯」の帰り、ふらふらと彷徨っていると、東本願寺へたどり着いた。

慶安4年(1651)神田に建立、今日との東本願寺の掛所(別院)となる。
門に「浅草本願寺」と名前があるのは、以前呼ばれていた名称。明暦の大火で焼失し、神田から浅草へ移転し、昭和40年(1965)に改称している。
さらに、歴史を辿ると重要な場所だったことがわかる。
大政奉還後、明治元年に旧幕臣らによって結成された「彰義隊」の拠点として使われたそうだ。
また、大正3年(1914)、第一次世界大戦の時には俘虜(ふりょ)収容所となり、ドイツ捕虜計314名を収容した。この時の収容所長が西郷寅太郎。翌年、大正4年(1915)に収容所は、千葉県習志野に移転する。
習志野市大久保に設置された「習志野俘虜収容所」は、最大で千人の捕虜を収容。この時に、ドイツ人からソーセージの作り方を教わったため、ソーセージ製造発祥の地となり、現在も「習志野ソーセージ」が有名に。習志野の俘虜収容所の遺構を辿ったことがあるので、まさか浅草の東本願寺と繋がりがあるとは…歴史はどこで繋がるかわからないから面白い!!
京成大久保の記事、以前たくさん書いたのでご覧ください。
京成大久保駅周辺の歴史。軍隊の街と商店街の「カフェ」の関係性 -京成大久保⑴
浅草・東本願寺の門前の街並み
浅草の東本願寺の参道の門前。夜なので見づらいが、参道と呼ぶにふさわしい道路の広さと、周囲には長屋が並ぶ。

人通りもないし、ネオンも無い。昭和の風景がそのまま、静かに残っていて感動した。

かつては、お土産屋やお茶屋など、参拝客向けのお店が並んでいたそうだ。空襲にも焼け残ったという門前町の街並み。
戦前はどんな賑わいだったのだろう。

映画の撮影などでも使われた街並みらしい。確かに映画のセットのような風景がこんなにも残っているとは、雷門周辺の観光客はなかなか知らないだろう。

今度は昼間に訪れよう…

菊水通り
今回、宿泊している台東旅館があるのは「菊水(きくすい)通り」。

東本願寺の北側の通りに広がっている。夜になると、ミラーボールのような街灯が輝いて素敵…
調べてもこの通りに関する記事は少なかったので注目している人は少ないのかな。

ビルの1階に並ぶスナックやパブの看板。コロナ禍の夜は静まり返っていた。

商店街というより、大人の通りの雰囲気。飲み屋やホテルが並んでいる。

ビルの間に挟まれた古民家が気になった。

この時は暖簾がなかったので気づかなかったが、調べてみると昭和12年創業の老舗お好み焼き屋「染太郎」というお店であることがわかった。
坂口安吾、江戸川乱歩、渥美清など著名人が通ったという名店。今まで知らなかったのを後悔…!近くには今回宿泊した台東旅館。素泊まりなのでここでご飯を頂くのも良いな~

(訪問日:2021年7月)
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明里さん、
こんばんは。
ふたたび、船橋の金子です。
ドイツの俘虜収容所は、はじめ浅草だったんですね。
当時全国にあったようで、徳島の板東俘虜収容所が有名で映画にもなっています。
私の祖父は明治の生まれで、当時の富国強兵政策により徴兵され、佐倉の連隊に下級兵士として奉公していました。
孫の私は、ドイツの俘虜の監視役をした話を何度も聞かされました。祖父によれば、そのなかでも目立ったのは「大きくて太った軍曹」だったそうです。タバコをあげて世間話をしたようですが、一体何語で?ですね。
今日も興味深いお話をありがとうございました。
金子さんいつもありがとうございます!おじい様が佐倉連隊にお勤めだったのですか…直接そういうお話を伺ったことがないのでとても興味深いです。機会がありましたらもっとそういうお話聞いてみたいですね。