養老渓谷駅より探索|旧朝生原小学校に残る二宮金次郎像 ー養老渓谷⑷
養老渓谷駅にて下車。
温泉旅館やハイキングコースとして多くの方が訪れる養老渓谷駅、その近くにある廃校跡地に二宮金次郎像が残っているのをご存知でしょうか?
養老渓谷駅/日高誠寛翁ゆかりの地碑
千葉県市原市朝生原「養老渓谷駅」
小湊鐵道の養老渓谷駅にて下車。昭和3年築、国登録有形文化財に登録されている。小湊鐵道は文化財の木造駅舎が他にもいくつか残っており近代建築好きにもたまらない。
そして駅前で見かけた細長い石碑。いつも通っているのにそこまで注目したことが無かった…
足元にある看板によると、「日高誠寛翁ゆかりの地」とのこと。
養老渓谷駅から西へ5㎞の山峡に日高誠寛がかつて澄んだ梅ヶ瀬渓谷があり、没後84年にその遺徳を讃えて有志によって建てられた碑。
日高邸については、以前上総牛久駅近くにあった旅館の建物が日高邸から移築されたと調べたことがあり、記事にまとめたことがある。
上総牛久の商店街に残る「大津屋旅館」。旧牛久宿の面影(梅ヶ瀬書堂寄宿舎) -牛久⑷
梅ヶ瀬渓谷の日高邸跡、ハイキングコースとして昔行ったことがあるが、2023年12月まで台風の影響で閉鎖されていた。記事公開後の2024年時点では解除されているので、またタイミングを見て行きたい。
養老渓谷駅前の商店が全盛期だった頃を見てみたい…現在も営業しているのは数軒。
旧朝生原小学校/二宮金次郎像
養老渓谷駅からハイキングコースの房総ふれあいの道、駅の東側にある踏切の分岐をハイキングコースとは逆の寺の方に折れ、坂道を登っていく。
木々に囲まれ、高台に少し開けた空間がある。消防団の詰め所が併設。
敷地の入り口に門柱が残っており、市原市立朝生原小学校の跡地であることが分かる。
門柱の表に学校名のプレート有。
廃校の碑の裏側に朝生原小学校の沿革が記されている。
明治6年(1873)、宝林寺に仮校舎を置き朝生原小学校開校。
その後何度か改称があり、昭和47年(1972)に児童数減少のため、閉校に。現在は門柱と二宮金次郎像以外遺構は残っておらず。
検索していると、2020年に樹齢100年を超えるイチョウの木が倒木したとのこと…昭和45年頃のイチョウの木と校舎の写真も掲載されています。
門を入ってすぐのところに古い二宮金次郎像。今回の目的。
裏面を見ると、昭和10年に朝生原小学校内に建てられたことを示していた。
校舎やイチョウの木は無くなってしまったが、二宮金次郎像は100年近くこの小学校跡地を見守っている。
…その後養老渓谷駅からハイキングコースの道中で気になった写真。
現在は営業していないが元食堂?大家食堂、岩風呂の看板が気になる。
だいぶ進み、白鳥橋を渡った温泉街近くにある日枝神社へ。旧ペンションせせらぎの近くで奥まった場所にある。
次回は養老渓谷温泉街へ。
(訪問日:2022年10月)
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あれ…、二宮尊徳像は、各地にありますが、その「おもて」に標語が書かれているって、珍しくないですか?
ということは、1935(昭和10)年に、「金券旅行」じゃなくて「勤倹力行」というフレーズが、その当時の「萌え」標語だったということなのですね、日本が韓国を併合したのが1910年。ナチスドイツがポーランドに侵攻したのが、1939年でしたっけ?
少なくとも、1935年当時というのは、植民地主義が吹き荒れて、日本国内には「いけいけ」のムードが漂っていたのでしょうね、そういう時期に、小学校で「勤倹力行」の標語が掲げられていたって、ものすごくショッキングです。
これが、さらに戦争が激化すると、「欲しがりません、勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」みたいになって、それに何か異を唱えると「非国民」のレッテルが貼られたのでしょう。
とても考えさせられる写真でした。
「二宮金次郎」像について、続報です。
江戸川区の小岩小学校、最近建て直されて、とってもきれいになったのですが、何と…何と…そこの校門に(建て直し前からの)金次郎像が置かれています。
そして、そこの金次郎像にも「勤倹力行」の4文字が!
あと、小岩小学校の金次郎像は…これもビックリですが…「卒業記念」て、刻まれているのです(はぁ~?)。いったい「いつの卒業記念」なのか、校内(敷地)に入って確認は出来ませんでしたが、校門の外から「卒業記念」という文字が、金次郎像の台座に彫られているのは、見ることができました。
引き続きの、明里さんのレポート、楽しみにしています。
二宮金次郎は本当は民主的な人だったのに、明治に入ってから政府に利用されてイメージを改変させられてしまいましたね。
報徳思想に基づいた民主主義者で、現代の信用組合の基礎を築いた人でもあります。
内村鑑三は当時世界に紹介する日本人の代表的な五人の一人に二宮金次郎を選んでいます。
だからかアメリカでは日本のリンカーンとか、最高の民主主義者と言われてるそうです。
所が明治政府は金次郎の「富国安民」思想を「富国強兵」に変えてしまったのです。
スローガンの勤勉、刻苦、精励などが学校では都合良かったのか、小学校、中学校で特に昭和三年の昭和天皇御大典記念で大量に銅像が作られたそうですが、太平洋戦争で供出されて殆ど残ってないとか。
戦争が起きて無かったら今でも銅製の金次郎像が見られたかも?
残念ながら私はまだ一度も銅製の金次郎像を見てません。
松下幸之助、渋沢栄一、豊田佐吉なども信奉してたそうで、当時偉大だったのが分かりますね。