「不老山薬王寺」”布田の目薬”で知られる薬師様。目薬瓶とともに

東金市にある「不老山薬王寺」へ行ってきました!
”布田の薬師さま”と親しまれているだけでなく、「布田の目薬」が戦前から評判で現在も販売中とのこと。手元にある目薬の瓶を持って参拝へ。
東金市「不老山薬王寺」へ
千葉県東金市上布田301。今回は車で不老山薬王寺へ。県道117号沿いに看板があるので目印に。

薬王寺の北側にある駐車場に停めた。九十九里バスが東金駅・八街駅から出ているらしいが、最寄り駅は総武本線「日向駅」。徒歩50分。歩くのは大変そう。

県道を挟んだ北側には八幡神社。


東側の坂を下って薬王寺の正面へまわる。
横から見ていても彫刻や装飾の繊細さにうっとりする美しさ。正面から拝見するのが楽しみな外観。

南側に面した薬王寺の山門。

あれ、門前は…?と辺りをきょろきょろと見まわしたら左手にそれらしき景観が見えたので後程探索します!
布田の目薬と当時の瓶
不老山薬王寺は、寛永年間に薬師如来が安置された頃から、眼病から悩む人達からの信仰が篤く、「布田の目薬」の目薬が有名。現在でも「布田目薬」「安神散」の二大霊薬がある。
詳しくは不老山薬王寺のホームページや東金市史「不老山薬王寺(上布田)」より。
三世日正によって製造された霊薬で法華経の「是好良薬(ぜこうろうやく)・今留在日此(こんるざいし)・病即消滅(びょうそくしょうめつ)・不老不死(ふろうふし)」の妙文を感得して調剤したと伝えられ、代々の住職に口伝された家伝の漢方薬です。
戦時中は統制会社に薬の権利を移されその配下にあったものを戦後統制解除され当山、第三十世「富田日覚上人」が権利を譲り受け社長に就任、昭和30年「千葉製薬株式会社布田薬王寺工場」として厚生省(現:厚生労働省)の許可を得て当山境内に工場が建設されました。
現在は薬事法の関係もあり佐賀製薬株式会社が製法を受け継ぎ製造、当山にて販売されています。
平成の今でも遠方から買い求めにくる人は多く、まとめ買いされて行く参拝者も多くいらっしゃいます。
お持ち帰りになる前に本堂で薬王瑠璃如来さまにお力を入れていただいてからお持ち帰りになられると良いですよ。(ホームページより)
昭和30年~いつ頃までこの地で目薬は生産されていたのだろう?『東金市史』によると「境内は約四〇〇〇平方メートル。祖師堂・大庫裏・製薬工場等の殿宇高楼が、背後の丘陵に並び立つ蒼古な老杉とよく調和されている。」とある。
また、私は偶然、布田の目薬の瓶を拾った。口元は割れてしまっているが、正面に「布田」のエンボスが見える。

瓶は4㎝ほどの小さい親指くらいのサイズ感だ。私をこの寺に導いてくれた瓶。
薬王寺のホームページには当時のポスター?の画像が掲載されているが、男女血の道って何だろう?
「眼病によし。男女血の道よし。 千葉県山武郡源村本舗布田薬王寺」
寺はこの地方の寺院としては、めずらしく繁栄し、他国にまでその名が知れわたっている。それは、本寺が本尊薬師如来の御利益を点眼薬・調血散という二種の漢方薬の現実的効能によって大いに拡散した巧みな商法によることはもちろんであろう。薬自体もすぐれた調剤によって絶対に副作用がないことなども、おのずから大衆に迎えられる素因となっていたのである。(『東金市史』より)
また、副作用がなかったという点も人気の理由だったとか。
現在も販売されているそうだが、買い求めるのを忘れてしまった。販売の案内も無かったので分からなかったな…
本堂隣には受付のような窓がある建物があるのでこちらで販売されているのだろうか?

また、以下のUは現在の「布田の目薬」の説明書き。
https://www.info.pmda.go.jp/downfiles/otc/PDF/J0701000388_01_A.pdf
布田の目薬は目に栄養を与え、機能回復を促し…
目の疲れや眼病予防等、幅広い効果が期待できそう。
「大施餓鬼会」と臨時列車
目薬だけでなく、不夜城のような祭も有名だという。
毎年9月に行なわれる「大施餓鬼会」は関東一といわれ、以前は夜半すぎまで踊るエネルギッシュなまつりであり、男女が公然と楽しめる数少ない出会いの場だったとか。
当山の施餓鬼会の縁起については、これを詳らかにしないが、素朴な庶民の薬師信仰と郷土色豊かな芸能が融合して成ったものと考えられる。本寺では、これを関東一の大施餓鬼大会と称しているほど盛んなものである。この法要は九月七日・八日の両日に亘って数十人の僧侶の出仕によって執行され、七日には山武郡市・県内は勿論関東各地から講中を初め、檀信徒及び一般人が、観光バスや自家用車を駆って蝟(い)集し、往時には万を数えた時もあったという。これらの善男善女は法要終了の後、あるいは本堂に、大庫裏に、民家に、それぞれ分宿・お籠りして、それからは飲み・歌い・踊って一夜を明かすのが例となっている。両日は露天商が数十軒並び、花火が打ち上げられ、演芸の舞合が設けられ、盛んな時は大庫裏にお籠りする者が千人を数えたこともあったといわれる。正にこの辺境の山寺に一夜の不夜城が現出したのである。(『東金市史』)
不夜城…門前は広くはないが露天商の数も多いな。びっくり!
現在は昔日ほどのおもかげはないといわれているが、当地方の盆行事の最大なるものである。また、この施餓鬼会は別名「縁結び薬師」ともいわれ、この一夜の取りもつ縁で幾組かの新婚カップルが成立したともいう。上代東国で行われた「歌垣(かがい)」の名残りというべきか。
さらに、この施餓鬼会をきっかけに結ばれる男女も多かったという。現代の合コンみたいな?
さらに、薬王寺のホームページによると、施餓鬼祭は、仏教における法会の名称で餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養することの総称。
観光バスや自家用車で乗り付ける参拝者はもちろん、千葉駅から日向駅まで専用の臨時電車が出たほどで駅から当山までの参道(約4km)の道のりには数百軒の露天商が並んだと言われています。
露天商が並んでいたのは、日向駅からの4㎞の参道沿いだったのですね!だから門前は狭いのか…ということは駅から参道を歩いてみたくなるな。

こちらは境内に展示されていた大正時代の写真。
千葉駅から日向駅までの臨時列車が運行されるほどの賑わい。今のひっそりとした雰囲気からは想像もできない。

本堂の彫刻美
そしていよいよ本堂へ。前置きが長くなりました。

本堂へ向かう途中に見つけた、菊の紋章入りの天水受。

『東金市史』に詳しく紹介されていた。戦時中の供出を免れた貴重な文化財。
本寺の山門から本堂に向かう参道の両側に、皇室の菊の紋章入り鉄製の天水受四基がある。これは当山第二五世日寂が、嘉永二年(一八四九)京都妙満寺第二一九世となり上京し、皇室の信頼も厚く大僧都に叙任され、二年の任期を終えて薬王寺に帰山する際、仁孝天皇の皇子・霊明院・常寂院の御二方の御位牌を奉戴し、その御回向を御母君から依託を受け、同時に御紋章御墨付を賜わり、帰山後これを本堂に安置し当寺の宝物としたものであって、時しも江戸講中の奔走によって鉄製の天水受が寄贈されて、御紋章を鋳込むことになったのである。なお、第二次世界大戦の折には軍部から供出の命令が出たが、現住持富田氏はこの由来書を当局に提出して供出を免かれ、今も当山の宝物として残されている。


本堂の彫刻、間近で見ると圧巻の美。
『寺社の装飾彫刻 関東編』(日貿出版社 (2012/12/19))にも写真が掲載されている。
特に注目したいのが、堂内にある3面の欄間彫刻。

欄間に関しては説明書きがあるのでとても助かる。

長坂猪之助藤原友雅の作で、寛政12年(1800)につくられたものとのこと。今から200年以上前!
こちらは『西王母』の欄間で一弦琴を弾いているそうだ。

『馬師皇』は馬の治療をする医者だそうだ。やがて龍をも治療したとか?



鐘と門前
本堂を後にし、薬王寺の周辺を探索。山門の左手には両側に旗幟台。山門の正面ではなく横道に建っているのが気になるが…

小さな郵便ポストもある。

また、こちらの門柱は薬王寺の西側にあったもの。?田村。漢字が読めない…!周辺の村は「源村」だったのでこれは一体?

横道を進むと、境内から山の上に続く右手の階段が気になった。左手には元商店のような建物と坂道。
階段の手前にある碑。

階段をのぼると高台へ。開けた公園のような場所に鐘撞堂があった。以前はこの場所にも建物があったのだろうか。

高台を囲む坂を下ると先ほどの風景に。坂道沿いに2軒の建物。空き地なので他にも同様の古い建物があったのだろう。


東金市でよく見かける押売お断りのホーロー看板が残っていた。

参拝者向けの売店は今は一軒もなく、静寂に包まれている。うーん…
もう一軒は元美容室のようだ。


上布田・神社
他にも何か残っていないかと上布田の集落を歩いてみた。周辺は小さな集落になっていて古い民家が並ぶ。もう少し足を延ばしたら、源村の道路元標があったけど今回は行かなかった。その近くの旧源村小学校も門柱が素敵なのでまた今度行きたい。

薬王寺の南側にある小高い竹藪の山。細い階段が伸びている…

その前にもう少し周辺を歩いた。倉庫に消防信号のホーロー看板が残っていた。

看板が残っているのは、上布田公民館だった。


公民館から先ほどの竹藪へ戻り、細い階段を昇ってみる。グーグルマップには一応「神社」とだけ表記されているがなんだか昔話に出てきそうな雰囲気だ。

神社の社殿がポツンと建っている。


看板がブレてしまって読みづらいが、明治~と読める。神社の名称は分からなかった。

薬王寺は有名だが周辺については情報が少ないので、実際に訪れてみないと実態が分からないなと思った。

目薬の瓶を拾ってから始まった、不老山薬王寺への旅。
眼病に困った際はぜひ。
(訪問日:2022年2月)
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薬王寺周辺は面白い所なので五回以上来てて、去年は春に二度きましたよ。
春に二度来たのは異なる種類の桜の木が植えてあるので、長期間桜の花を楽しめるのです。
去年の一度目は高齢の夫婦に会い、比較的近くの方だったので昔の混雑を知ってました。確かに露店も沢山出たそうです。
この夫婦が御朱印を貰うと言ってたので何処で貰うのか見てたら、本堂隣の建物の受付の様な窓でした。
二度目は植木職人と会い、ここの庭を気に入ったので自分から頼み込んで手入れをしてるんだそうです。
竹で作った鹿威し、垣根、石庭などはこの方が作ったそうです。写真を見るとまだ新しいので頻繁に作り変えてるのかな?
周辺のホーロー看板もタイムスリップした気分になり、興味は尽きないですよ。
屋根が変わった形の建物は養蚕の為の建物だと思います。蚕の飼育ですよ。
可なり前ですが土気でも見たことありますね。でも土気の建物は現在無くなってしまった様です。