松戸「矢切神社」レトロ電柱?!~矢喰村庚申塚、野菊の墓碑 -矢切⑵
北総線「矢切駅」から歩ける範囲で歴史散歩へ。矢切駅~矢切神社~野菊の墓文学碑。
矢切神社
千葉県松戸市下矢切332。北総線「矢切駅」の北側に位置する矢切神社へ。
神社周辺には家族連れが多くて人目が気になり、よく観察しなかったのだが…参道の右手にレトロ電柱(街灯)が建っているではないか!茶色いから全く気付かなかった。また再訪しなければ。
看板に神社を大切にしましょう、と書いてある通り、子どもたちの声が聞こえる和やかな神社だった。
矢切神社は高台に建っているのだが、これは過去に発生した大洪水が影響しているらしい。
宝永の大洪水の後に勧請されたお稲荷様、屋根の鏝(こて)絵が見事
After a big flood this shrine was invited. The dragon relief on the roof is worth seeing.
“江戸川は宝永元年(1704)の長雨で大洪水を起こしました。矢切の川岸にあった集落も流されて多くの死者を出したと伝えられます。その後、村民たちは東側の台地の上に移住しますが、この時に京都東山からお稲荷様を勧請して現在の地に稲荷五社大明神を建立しますが、のちに矢切神社と改称されます。
神社拝殿の屋根には地元の左官職人高橋三四郎が大正元年(1912)年に描いたとされる見事な龍の鏝絵(こてえ)が残されています。”(松戸市観光協会より)
またしても後になってから気づいたが、屋根の鏝絵が素晴らしい…!
大正12年に描いたとされる龍の鏝絵。千葉県内に残る鏝絵を探しているのが、知られていないだけで意外と各地に残っているのかな…
矢喰村庚申塚
矢切神社の向かいには同じく高台に碑が並んでいる場所がある。
庚申塚保存会によって昭和61年に整備されている。松戸市観光協会でも神社やこうした庚申塚が詳しく紹介されており、松戸市は歴史に対する造詣が深いのだろうか。素敵だなあ。
国府に近く戦の多かった地域、平和祈願と先祖供養の心は今も同じ
Many battles were held around here since there was a govemet office. Now a cornerstone of peace remains.
矢切村(当時は矢喰村とも書く)は近くに下総の国府があったために記録に残る大きな戦いが七度あったといわれます。人々は二度と再び戦いの来ない平和な 日々と健康を求め、先祖の供養のため 矢切の渡し口や街道すじに庚申塚、地蔵様を建てました。近年には庚申塚の整備とあわせ、平和としあわせを祈る「やすらぎの像」が現在の場所に設置されました。(松戸市観光協会より)
一つ一つの碑に石碑に対する説明看板もある。
特に気になったのが下の地蔵尊。建立不明。「秀海講 行商人中」とある。
秀海講、初めて聞いた。調べると、松戸市内を中心に設けられている八十八ヶ所巡りの霊場だという。→ま つ ど市販のガイドブックに載らない松戸のあちこち
千葉大学園芸学部の敷地内にも秀海講と刻字された碑があるそうだが、謎が多いというのでこれから注意深く探してみたい。
野菊の墓文学碑
庚申塚から西側、江戸川の方面へ進む。
矢切大坂。川に向かって下り坂。
左手にある西蓮寺に野菊の墓文学碑があるというので立ち寄ってみる。
少々分かりづらいが、墓地の奥に野菊の墓文学碑が設置されていた。昭和39年建立。
伊藤左千夫の小説「野菊の墓」の一節が刻まれている。
現在も運行している矢切の渡し。江戸川唯一の渡しだそうだ。伊藤左千夫の小説「野菊の墓」で政夫と民子の悲しい恋の舞台になったことでも有名。皆さんは矢切の渡し、利用したことがありますか?
また、ここは今から約400年前に北条氏と里見氏の激戦地、第二次国府台合戦が行われた場所。西蓮寺と野菊苑の間の大坂付近で起こり、多くの死者が出たという。
西蓮寺の北側に野菊苑がある。
矢切の渡しまでここから徒歩20分。ちょっと一休みする場所のようだ。
野菊苑展望台からの景色が素晴らしかった。
矢切耕地、江戸川の流れ、遠方には東京の街並み。
一人でぼーっと遠くを眺めていた。心が洗われる。
公園内には火の見櫓やベンチ、碑がある。
矢切地区の整備事業に寄与した「渋谷金蔵翁之像」。
さらに矢切大坂を下ると、途中の崖側には「大井戸之碑」。
徳川時代に掘られた大井戸は常に生活の泉だったそうだが、坂の修繕工事によって埋めることになったという悲しい歴史…(昭和32年建立)
矢切大坂を下り、住宅街を抜けると川沿いに広がる矢切耕地。
のどかな風景が広がる。青から橙色へ、夜がだんだんと近づきつつある。足早に最後の目的地の柳原水閘へ。
(訪問日:2022年2月)
-
前の記事
松戸「二十世紀ケ丘商店街」~北総線「矢切駅」周辺の商店街 -矢切⑴ 2023.02.14
-
次の記事
松戸「柳原水閘」明治期のレンガ造りの4連アーチが保存。近代化産業遺産 -矢切⑶ 2023.02.16
明里さんの撮った「野菊の墓」文学碑の写真、特に末尾の「門人 土屋文明」の名前に、はっとしました。
土屋文明さん(1890~1990)と言えば、歌誌「アララギ」の流れを汲む、正統派も正統派、そしてとっても有名な歌人です。
但し、文明さんのお祖父さんは、博打で身を持ち崩し、今でいう「闇バイト(=強盗団)」に加わって最後は獄死したのでしたね、そのために文明さんは生まれ育った群馬の片田舎ではたいへん苦労して、だから、旧制中学卒業後に文明さんは伊藤左千夫(←当時40歳前後でしょうね)を頼って上京するのです。
そして、伊藤左千夫さん(1864~1913:享年49歳)の援助を受けて一高から東京帝国大学に文明さんは進学しました。今でこそ、大学生は履いて捨てる程いますが、昔の大学進学率は2、3%ではなかったでしたか、それで昔は「大学に進学した」と聞くと「末は博士か大臣か」と村をあげてお祝いをしたそうなのです。文明さんは、東大在学中にはあの芥川龍之介などとともに同人誌「新思潮」に小説も書いたとか。
だから、土屋文明さんにとって、今のキムタク(50歳)よりも1歳若くして亡くなった伊藤左千夫さんは、命の恩人なのでしょう。
石碑が建てられたのは昭和39(1964)年、伊藤左千夫さんの没後半世紀(51年)が経ち、文明さんも74歳になっていました。でも、そういう老齢に達した文明さん、恩人である左千夫さんの石碑を建てられてよかたのではないでしょうか。
わたしが、シビれるのは、石碑で、文明さんは控えめで石碑中央に小説「野菊の墓」の一節、それも、作中の「矢切」の描写が取られています。ふつうは、その文学者の揮毫(きごう:毛筆で書いたワンフレーズ)でお茶を濁したりしますが、そうやって「矢切」を訪れた人が作品と風景とを合わせて鑑賞できるように配慮した、実に品のいい文学碑だと思いました。
そして、最もわたしがシビれたのは、「門人 土屋文明」の〈門人〉。
文明さんは、その石碑が建てられた時に74歳。日本の中でも「大歌人」ですよ…。でも、文明さんは10代の少年のまま「自分はあくまでも伊藤左千夫に教えを受けたひとりの門人である」ということで、その「門人」の一語を自分の名前の上に冠したのでしょう。
その2文字を見て、74歳のご老人のたどって来た人生や、(23歳の時に死別した)師である伊藤左千夫さんへの敬愛の情が見てとれて、わたしは涙が出ました。