上総牛久の商店街に残る「大津屋旅館」。旧牛久宿の面影(梅ヶ瀬書堂寄宿舎) -牛久⑷

小湊鐵道「上総牛久駅」。古くから街道沿いの宿場町として栄えた上総牛久には古くから営業していた「大津屋旅館」の建物が残っている。最近まで旅館として営業していたが現在は閉業しており、近代建築として文化財的価値も高いため、記事にまとめたい。
上総牛久に残る旅館建築
千葉県市原市牛久。小湊鐵道「上総牛久駅」から南、国道409号沿いに「牛久商店街」が広がっている。古くから房総往還の交通の要衝として賑わった宿場町。詳しくは前回の記事にて。
駅前の通りから少し東へ進むと木造二階建ての大きな旅館建築が残っている。

こちらが「旧大津屋旅館」。2018年5月まで営業していたようだが2022年現在は旅館業は閉業されている。老舗旅館に宿泊するのが趣味なので一度泊まってみたかったがタイミングが合わず残念。

『集落・町並 千葉県集落町並実態調査報告書』によると、この建物は大正13(1924)年築。今から100年前。

通りに面した間口5間半の入母屋・平入りの2階建。屋根は瓦葺、正面中央におこり破風。なお、裏に寄棟造の棟を付ける。(『集落・町並 千葉県集落町並実態調査報告書』)


そして、こちらは古い旧家の別荘を移築したものだそうでGoogleマップに載っている古い写真に「梅ヶ瀬書堂寄宿舎(牛久 大津屋旅館に移築)」と書いてあった。
梅ヶ瀬…どこかで聞いた地名だなと思い調べると、養老渓谷の近くにある「梅ヶ瀬渓谷」!!
梅ヶ瀬書堂寄宿舎、養老渓谷のホームページにも紹介されていた。
日高邸跡
明治の偉人日高誠実(のぶざね)は、明治19年、50歳になって陸軍省を辞し、官有地229町歩を無償で借り受け、理想郷梅ヶ瀬を建設すべくこの地(当時の地名で市原郡白鳥村西沢)に居を移しました。 そして近隣十ヵ村の人たちの協力を得て、植林・養魚・畜産等に力をつくすかたわら、梅ヶ瀬書堂を開校し、近郊在住の師弟に国漢・英数・書道・剣道等を教授し有為な人材を育成しました。 従学する人々は市原・君津・長生・山武・夷隅の五郡(当時)にわたり、数百人に達したといわれます。
明治21年、彼が52歳の時に梅ヶ瀬書堂を開校、80人収容の2階建寄宿舎を設けたという。明治34年に梅ヶ瀬書堂が閉鎖。今の大津屋の建物は大正11年築だけど、明治に閉鎖となると辻褄が合わないな?移築時に新しく建替えたのか、それとも明治築なのか?
その後、台風や豪雨のたびに山は崩れ、無残に荒れ果ててしまったが上総牛久に移築され現在も残っていることは感激。
そしてこんなにもザ・旅籠な旅館建築は千葉県内では早々残っていないのです。国登録有形文化財に登録しても状況は変わらないと思うけど、文化財として保存して欲しい…
大津屋旅館、かつての旅館情報
旅館営業時は、1泊2食付き6300円だったそう。泊まりたかった…

2012年に宿泊された情報が「一路一会のぶらり、たびログ」さんが「【千葉県の老舗伝建旅館】上総牛久・旅館大津屋」で記事にまとめている。往時の写真が…!
収容人数は20名とありますが、現在は高齢の女将が一人で切り盛り(たまにご子息が手伝い)で、現在は1日6人限定の宿です。料理は多すぎず、少なすぎずの栄養バランスを考えた家庭料理。
建物はコの字、中庭や食堂がある。
そしてGoogleマップの口コミも引用させていただきます。
Googleマップ口コミ
・ちゃんみつ(6年前)
旧街道沿いのひなびた昔ながらの旅館。構えが素晴らしく、奥行きにびっくりします。往時の繁栄が忍ばれます。
おばあちゃんがやっていらっしゃいますので、過剰なサービスを望んではいけません。・地図太郎(5年前)
入り口の構えは風情があって良い。旅館の中に入ると存外奥行きがあって、木の床の長い廊下が歩くとギシギシいうのもいい感じ。
旅館のおばあちゃんが可愛らしい。
二階もあるみたいだが入れなくなってるので、二階の窓枠に腰掛けて通りを見れないのが残念だった。
旅館周辺は寂れた商店街、観光時間になると結構車の往来が激しい所。古写真二枚
→「梅ヶ瀬書堂寄宿舎(牛久 大津屋旅館に移築)」
「旅人宿 大津屋」
古写真が二枚。
旅館の裏手には、かつて河岸もあったという。多くの旅人を迎えた旅籠が静かに時が流れるのを待っているようだった。
(訪問日:2022年2月)
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日高誠実に関しては分からない事が多いのですが、以前日高誠実を研究してる方から聞いた話では、梅ヶ瀬(大久保村)の土地は20年間無料貸与で永遠に無料貸与では無かった様です。
しかし亡くなるまで(大正4年8月)梅ヶ瀬に住んでましたので、20年の期限を延長して貰ったのでしょうか?
梅ヶ瀬書堂は明治34年に閉鎖されていて大津屋が大正11年築となると、20年以上の空白期間が存在しますね。
日高誠実は梅ヶ瀬に奥さんとではなくお手伝いさんと住んでいて、お手伝いさんとの間に7人の子供がいたそうです。これに関しては渋沢栄一と似てますね。
ここで私の推測ですが、梅ヶ瀬書堂を亡くなった後も親族が利用してたのではと思ってます。
あくまで推論の話ですけれどね。
これなんですよ、これ、これ。
つまり、昔の人は古い建物(例:梅ヶ瀬書堂寄宿舎)を作っても、それをまた遠方に「移築」して(⇒大津屋旅館として再生)その建物を使い続けますよね。
明里さんが撮ってくれた建物も、「雨戸」がアルミ製の軽いものになっているのが見えますが、この場所に移築されても、宿のみなさんが大切に使い続けて来たのだと思います。
ひるがえって、今の都心を眺めてみると「SDGs」なんてポスターのわきで、ガンガン建物をぶち壊していますからね…。
明里さん、あたなのレポートで、この腐りきった、使い捨て文化蔓延の、日本社会を変えて行ってくださいませ。
デコスケさん何でも詳しくて驚いてます笑
確かに空白期間、親族が利用していたと考えると早そうですね。もう少し掘り下げて調べたくなってきました。