「長南町郷土資料館」と「長南町道路元標」を訪問!貴重な文化財と小湊バス営業所

「長南町郷土資料館」と「長南町道路元標」を訪問!貴重な文化財と小湊バス営業所

長南町道路元標と、長南町郷土資料館へ。郷土史が好きな方は長南町に訪れた際は合わせて訪れてみてはいかがでしょうか。

長南町郷土資料館・道路元標

千葉県長生郡長南町長南2125。長南町役場の隣にある「長南町郷土資料館」へ。

長南町郷土資料館

資料館に行く前に、敷地の北側にある道路元標を撮影!

「廳南町道路元標」。現在の表記は長南町だが、庁の旧字体の廳が使用された廳南町の表記になっているところがポイント。

廳南町道路元標

しかも、道路元標は1つではなく、資料館の階段傍にもう一つ。こちらは「道路元標」のみ記載されており、廳南町道路元標よりも小さく、古いものだろう。

道路元標
長南町郷土資料館

長南町郷土資料館は、昭和48年に開館した資料館とのこと。

昭和30年代、高度経済成長・生活様式の急激な欧米化などによって、日本人の生活は大きく変化しました。こうした時代の中で消滅の危機にあった、それまでの生活を支えてきた民俗資料を保存し、郷土の文化を後世に受け継ぐ学習の場として、昭和48年に開館いたしました(長南町HPより引用)

資料館の受付は無人のため、隣の公民館で受付を済ませて鍵を開けてもらう仕組みになっている。館内は撮影NGのため、興味がある方は実際に訪れてみて下さい。

Advertisement

寛永寺の石灯籠・昔の消防車

資料館の外にも展示物があるのだが、階段の脇にひときわ大きな石灯籠があって目に留まる。

立派な石灯籠!!

なんと、東京上野の寛永寺に建てられていた灯篭で、個人の方から寄贈されたものだという。高さは3m。

寛永寺の石灯籠について

東京都の方から、長南町に寄贈されたのか経緯が気になるが…?

また、こちらは手押しポンプ車。

手押しポンプ車

昭和10年10月謹製とある。昭和10年というと、1930年。今から90年以上前の消防車の原型だ。貴重!

昭和10年製

台車の上に鉄製の手押しポンプが乗ったもので、資料館で展示されている物をたまに見かける。左は錆びてしまっているが、雨ざらしの状態で良いのだろうか…

読みにくいが、製作者の名前が書かれたプレートも見える。
「千葉県長生郡茂原町 高中五郎作」

茂原町で製作されたもの!

茂原町で製作され、長南町で使用されていたのだろうか。

台車の下には、小さな鐘もついていた。現代の消防車と同じく、カーンカーンと危険を知らせていたのかも。

小さな鐘

また、こちらは長南町傷痍軍人会による「平和の碑」。

平和の碑

戦中に負傷した元軍人らでつくる日本傷痍軍人会は、会員数の減少と高齢化のため2013年に解散している。→日本傷痍軍人会、13年11月に解散 会員高齢化で活動困難(日本経済新聞)

長南町の軍人会も現在は解散しているかもしれないが、平和の碑に綴られた言葉を忘れることはないだろう。

Advertisement

文化財の道標・小湊バスの果て

長南町郷土資料館に立ち寄ったら、すぐ北側にある長南町指定有形文化財の道標も忘れずに。

説明看板

高さ約150センチメートル。県道147号沿いの分岐に建つ道標。保存状態も良く、文字がはっきりと読める。

安永六年(1771)製

長南町は、浜野から大多喜を通り勝浦に抜ける房総中往還の宿場として発達した。
物資の講完治として、また、日蓮の聖地小湊や清澄山、坂東三十二番札所清水寺へ向かう信仰の道として、大勢の人々が行き交ったことを、この道標は物語っている。

右 大田㐂ばう志う道

右 大田㐂ばう志う道=大多喜房州道
南 南無妙法蓮華経=日蓮の聖地小湊
左 いちのミや きよみづ道=清水寺

場所ではなく、「南無妙法蓮華経」のように言葉を道標に刻む場合もあるのですね~

左 いちのミや きよみづ道

追記:『房総の街道繁盛記』(山本鉱太郎)より
道標について、説明看板には載っていなかったが1999年に出版された『房総の街道繁盛記』に現在地と違う場所に存在したという話が書かれていた。なぜ大事なことが看板に書かれていないのか…

もとは長南郵便局前の分岐点にあって、山ぞいに一宮へと通じる旧道が続いていたことが判った。

 

道標の隣の敷地は小湊鐵道バス長南営業所。

小湊鐵道バス長南営業所

小湊バスの標識がたくさん…
ショッピングセンターアミリィは、大網白里市のイオンの名称のようだ。

ショッピングセンターアミリィ前
その他多数のバス停が

バス停の屍…

次は旧宿場町の長南町を歩きます!

元商店

 

(訪問日:2021年12月)

error: このコンテンツのコピーは禁止されています。