東金と花街、花柳界の歴史。唯一残る割烹料亭「志津本」 -東金23

東金と花街、花柳界の歴史。唯一残る割烹料亭「志津本」 -東金23

「関東の京都」とも称された東金の町。現在も残る八鶴館はその象徴として現在も大事に保存されている。

今回は、その東金の繁栄を物語る別視点の記事として、「花街、花柳界」の東金を調べてみようと思う。

東金と花街 花柳界の歴史

問屋場として栄えた東金。八鶴湖畔の旅館「八鶴館」で旦那衆による芸者遊びが盛んだったことは、以前お伺いした時に聞いた。館内に出入口が複数あるのも大人の遊び感溢れる構造だった。→「八鶴館」東金が誇る”千葉の三大旅館”木造三階建旅館建築を見学 -東金⑾

さて、花街としてのエリアは存在したのか?置屋、芸者さんについてはどこから来ていたのだろう?

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七軒町

「道の駅みのりの郷東金」のパンフレットに次のような記載がある。

湖畔の八鶴亭の横は、かつて七軒町と呼ばれた花街。その横には、小さなお稲荷様の祠があり、菅原神社もすぐ側です。

八鶴亭=八鶴館、その隣が「七軒町」という花街だったとのこと。菅原神社は、八鶴湖の西北に位置し、角を曲がった先にあるので未訪問。岩崎地区。現在はのどかな住宅街なので微塵もそのような雰囲気は感じず。また今度行って見よう。

『東金小唄』

千葉県東金市岩崎区の「東金ばやし保存会い若会」である「い若会」のFacebookにて、興味深い内容が記載されていた。

い若会のレパートリー『東金小唄』
近代日本を代表する詩人である北原白秋が東金に滞在していた際に作詞し、当時の東金芸者衆によって八鶴館で披露された歌でもあります。
江戸時代には「上総の黄金町」と呼ばれ、
大正〜昭和と文化が栄えた東金の面影を伺える曲です。
お祭りの時にこの曲が聞こえてきたら
是非口ずさんでみてください
『東金小唄』歌詞(一部)
わしが東金 東の上総
マットマットマットサ
黄金町とは 誰がつけた
鴇が嶺なら 赤ぼっけ
七里法華で ドンツク
朝の風〜

大人から子どもまでみんなで岩崎区の祭囃子を演奏し、語り継いでいるという。

著名な北原白秋による東金芸者衆の文化が今も息づいていること素晴らしいなと思った。

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割烹料亭「志津本」

そして唯一残っている料亭が割烹料亭「志津本」。JR東金駅東口すぐ。

駐車場

千葉日報の2019年の記事が詳しいのだが有料会員ではないと読めない。

 

通りに響く三味線の音色 今も残るお座敷文化 芸妓のまち東金 【ふさの国探宝】2019年8月5日

かつて東金市のJR東金駅周辺にはたくさんの芸妓の姿が見られ、県内でも代表的なお座敷文化が花開いていた。全国各地の芸者街と同様、宴会の楽しみ方の多様化で先細りを見せてはいるものの、元芸妓のおかみが料亭文化のともしびを大切に守っている。

◇    ◇

東金市の旧市街一帯にはかつて多くの芸妓(げいこ)が暮らしていた。「旅館」や「料理屋」などと呼ばれる店の座 ・・・

女将さんは、元芸者とのこと。完成な住宅街の奥に趣のある割烹料亭志津本の姿が。

割烹料亭志津本

過去の鳥瞰図等を見ると、線路の北側にある石橋ぎょうざ店の付近に置屋(芸舞妓を抱えている場所)が存在したらしいが現在は駐車場が目立つ。

置屋だったあたり
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名も無き料亭の面影

東金線沿い、割烹志津本から西側にある裏道にひっそりと元料亭の姿が残っているようだ。

東金線沿いに

Googleマップ上では「嘉島園」。旅館業としてネット上に情報が残っている。

入り口は中央にある大きな木製の扉。現在は花壇で覆われており使われていない様子。廃業してからも久しく時間経過していそう。

裏路地に残る板塀に風情を感じる。かつてのストリートビューを見ると木戸を入り空を見上げると藤棚があったようだ。

二階建てが二棟?かと思っていたが奥にも見えない建物があり敷地が広そう。航空図で確認。木々に埋もれた建物が気になるな~

全体

料亭風な外観

旅館と記載されていたが割烹旅館だったのではと想像する。

また、こちらはJR東金駅北口の裏路地。現在は営業していない飲み屋の建物が昭和のまま残っている。

東金駅近く

そして、鑑札が残っていた。18歳未満は立ち入り禁止!

スナック
知恵

現在は、割烹志津本が残るのみ。東金の花街としての文化も文化財として残していってほしい。

 

 

(訪問日:2022年3月)

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