「館山海軍航空隊赤山地下壕跡」と「掩体壕」を見学!貴重な戦争遺跡 ―館山⑽

「館山海軍航空隊赤山地下壕跡」と「掩体壕」を見学!貴重な戦争遺跡 ―館山⑽

今回は、館山海軍航空隊赤山地下壕跡(通称:赤山地下壕)を見学しました。全国的にみても大きな壕で、館山市を代表する戦争遺跡のひとつ。館山に訪れた際、ぜひ立ち寄ってほしい場所です!

館山「赤山地下壕跡」へ

千葉県館山市宮城192−2。「赤山地下壕跡」へ。JR館山駅から館山日東バスに乗って宮城バス停で下車。バスに乗るのに苦労したので車の方が便利だな~

バス停からは近い

赤山地下壕跡の見学の受付は、手前にある豊津ホールにて。館山市のホームページ「赤山地下壕跡の見学」に詳細がある。

一般200円、小中高校生100円。
見学の際は懐中電灯とヘルメットを貸していただける。

ホールで受付

受付を済ませた後は、赤山地下壕跡の入り口へ向かう。

入壕時間は9時30分~16時。受付は15時30分まで。
私は平日の午前中に訪れたので空いていた。

看板

重厚な扉を開けて、いざ赤山地下壕跡へ…

赤山地下壕跡入り口
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赤山地下壕跡を見学

赤山地下壕跡とは

昭和5年(1930)、海軍5番目の実践航空部隊として館山海軍航空隊がつくられた。それから終戦までの間、館山市香から沼にかけての一帯には、軍事施設が多数つくられ、現在も一部残っている。

説明看板

赤山地下壕跡は、合計全長1.6㎞と、全国的に見ても大きな地下壕で、詳しい情報は残っていないものの、昭和16年(1941)の太平洋戦争開戦前につくられた例はなく、昭和17年以降ではないかと考えられている。

赤山地下壕内のイラスト

また、全国各地の大きな地下壕の壕と壕の間の長さは、一般的には10m~20m以上であるが、この赤山地下壕は5m~10mと狭いため、計画的につくられたとは考えにくく、終戦が差し迫った昭和19年以降に建設されたと推測されている。

赤山地下壕内

空襲が激しくなった終戦間近の頃には、この赤山地下壕が館山海軍航空隊の防空壕として使われていたことが、壕内にある発電所跡や、終戦間際に、この壕の中で実際に館山海軍航空隊の事務をおこなったという体験や、病院の施設があったなどの証言からうかがい知ることができるという。

地下壕は、海上自衛隊第21航空群館山航空基地のすぐ南側、標高60mの小高い山「赤山」の内部につくられた、まさに秘密基地だったという。

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発電所&変電所

まず見えたのが「自力発電所跡」。

自力発電所跡

この一角は、壁面がコンクリートで補強され、コンクリートの土台や床面の鉄筋が残っている。昭和20年2月に航空隊正門前から移転され、使用されてきた。

補強された跡?
土台

随所に説明があるので有難い…

変電所電気員が待機するためのクボミ。

待機するためのクボミ

2段のベットが設置されていたとはびっくり。ここで寝泊まりしていたのですね。

狭い通路を通り奥へ

確かに思っていた以上に狭い場所も多く、背の高い男性だと頭がぶつかってしまう危険性があるので注意。ヘルメット必須!

秘密基地みたい

赤山地下壕内はすべて探索できるわけではない。立ち入り禁止の場所も。赤山地下壕内の広さを実感する。

奥まで照らしてみたが
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赤山地下壕内で過ごす夏休み

赤山地下壕内を見学していて思ったのが、夏に訪れて大正解だったということ。

壕内はヒンヤリを通り越して肌寒いくらい。外は真夏の炎天下だったけど、壕内に入った瞬間、冷蔵庫にいるみたいだった。自然の力って凄い…

涼しい

また、水滴も滴り落ちてくる。見学に訪れたい方はぜひ、夏に訪れてほしいなと思いました。

水滴も

電話番と地層

クボミ2は、縦長いクボミ。ここには、電話番が腰かけて勤務していたそうだ。

説明

また、左隣の窪みはトイレで桶が置いてあったという。こんなに狭い場所で電話番をされていたのですね…

電話番の窪み

そしてライトに照らされて美しい地層の断面が見えてきた。

地層が美しい

突貫工事説もあるが、素掘りで突貫工事が行われたとは考えられないほど美しい断面。これは情報が定かになっていないが、計画的につくられたのではないかという意見に賛同する。

太平洋戦争末期につくられた図面には、赤山地下壕跡の位置に「工作科格納庫」「応急治療所」「自力発電所」と記されていることから、天井が高い壕は格納庫として使われていたかもしれないらしい。

天井がとても高い
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応急治療所&ガンルーム

今度は病院施設があったという場所。

病院施設

金属の2段ベットがあり、軽い患者を対象に治療していたとか。被弾した兵士も治療を受けていたそうだが、重傷者は横須賀海軍病院で治療を受けたという。

応急治療所跡

その跡地、照らしてみると瓶などのゴミが放置されていた。まさか当時のモノではないよね?

瓶?

戦後は「忘れられた存在」になっていた赤山地下壕跡。

戦後について

温度が年中一定しているため、昭和30年前後頃からキノコ栽培に使われていたという。その時の風呂やボイラーなどが残っている。

風呂

コンクリート造の風呂。五右衛門風呂かな?

初めて見た

その先は外へ通じる大きな穴があった。かつてはここからも出入りできたのだろうか。外に近づくと真夏の蒸し暑い空気が漂ってくる。

外へ

さらに違う通路を進むと、「ガンルーム」と呼ばれていた部屋へ。

クボミ3

少尉クラスの士官たちの部屋だったようだ。

ガンルーム

奥の四角い大きなクボミは、御真影を安置した奉安殿。桧の板張りだったそうな…

奉安殿

空襲の時、航空隊から御真影を移すことは少尉クラスの仕官の役割だったと記載されている。奉安殿は、戦時中、小学校に主に設置されていた。戦後はGHQの命令によって撤去された例がほとんどで残っているものは少ない。

千葉県内にはいくつかまだ残っているようだが、若い世代には馴染みが無いので、忘れられる前に記録に残しておきたいと思っている。

見学おわり

また、壕内には「USA」の赤い文字が残っているらしい。終戦後、1945年9月3日に米占領軍3,500名が上陸し、館山は本土で唯一「直接軍政」が4日間だけ敷かれた。今回見つけられなかったが、その際の文字ではと考えられているという。

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館山海軍航空隊近辺の地図

また、受付のところに海軍のまち館山の昭和を再現した地図が貼ってあった。販売終了したらしいが、とても分かりやすいので写真に収めた。

館山の地図

中央に赤山地下壕跡、南に館山海軍航空隊基地跡(現:海上自衛隊館山航空基地)、右に洲ノ埼海軍航空隊跡が描かれている。

また、赤山地下壕跡の周辺にはトロッコ軌道が敷かれ、赤山地下壕と港の間で物資が輸送されていたことが分かる。

トロッコ軌道

館山海軍航空隊は、関東大震災によって隆起した浅瀬を埋め立て、飛行場を建設、昭和5年(1930)に館山海軍航空隊が置かれた。基地周辺には、本土決戦に備えて多数の地下壕や掩体豪が建設され、現在も残っている。

また、地図に描かれている「高の島」。戦前までは浮島だったそうだ。「高の島弁財天」は現在も残っており、基地外なので見学できるという。

高の島

また、平成27年まで海上自衛隊館山航空基地で、館山海軍航空隊の庁舎が使用されていたらしい。写真は終戦間近に爆撃され崩壊した庁舎。

旧庁舎
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赤山地下壕の周り

赤山地下壕跡の北側にある掩体壕を見学しに、元トロッコ軌道が惹かれていた東側の道を歩く。

赤山地下壕跡の周り、無数の大きな穴が開いている。一部埋められている場所もあるが、大きな穴は先ほど壕内から見えた穴だろう。

トロッコ軌道跡
大きな穴

せっかく赤山地下壕跡に訪れたなら、周辺の軍事遺跡も合わせて見学したい…

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掩体壕を見学

坂を登った先には長閑な風景が。こんなところに軍事遺跡があるのかと疑問に思ってしまう。

が、確かに存在した。案内看板もあるので迷うことはない。

掩体壕(えんたいごう)、各地に残っているらしいが私は初めて見る。

説明看板

敵機から戦闘機を守るための格納庫のことだという。戦争末期につくられ、赤山周辺だけでも10基存在したが、現存するのはこの1基のみ。貴重な遺産だ…

掩体壕

少し離れた場所から見たからか、戦闘機が入るのか心配になるサイズであった。思ったより小さく感じた。今の飛行機のサイズとは違うんだな…

掩体壕、千葉県には茂原市、匝瑳市に残っているらしい。今度見に行かなければ…!

軍事遺跡って地味だし、重いテーマだし若い人で好んで見学に行く人は少ないと思う。けど、こうした遺産を伝えていかなければ、証言者が少なくなっている今、本当に忘れられたものになってしまう。

館山にはまだ他にも軍事遺跡があるので、随時見学し、記録に残していきたい。

 

(訪問日:2021年8月)

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