立石の「赤線」地帯。再開発に飲まれる赤線時代の建物とスナックに化した路地
京成立石に残る赤線。今回は、京成立石駅北側にかつて存在した赤線の名残を訪ねる。売春禁止法が施行される昭和33年まで日本の各地に存在した赤線地帯。その歴史が京成立石にも眠っている。
他の場所と比べて、比較的赤線だったころの名残をとどめているようにも思う。前回書いた「呑んべ横丁」も合わせて再開発が押し寄せる立石の現在の姿をご覧いただきたい。
呑んべ横丁についてはこちら↓
「呑んべ横丁」京成立石、再開発が迫る余命僅かの飲み屋横丁の儚くも美しい姿。
立石の赤線の歴史
立石の赤線の歴史を辿ると、戦争中、付近の工場で働く労働者のための慰安所がはじまりだそうだ。亀戸で被災した一部の業者が移転して、昭和20年6月に民家を改装して営業を開始。終戦後は、米兵向けの慰安所(RAA)となり、米軍がいなくなった後は、赤線として知られるようになったらしい。「立石新地」とも呼ばれていた。
RAAは進駐軍向けの慰安施設の略。進駐軍から一般の婦女子を守るため、内閣の要請、出資によって設立された民間団体だ。「性の防波堤」として、各地に米兵向けの慰安施設がつくられた。吉原、洲崎、玉の井、新小岩、新宿…その中の一つが立石だったのだ。
商店街を挟んだ反対側に位置する「呑んべ横丁」も青線だったのではないか?と噂があるが、様々な意見が飛び交っている。赤線としての歴史が確実に存在したのは、今回紹介する場所だ。令和になった現在、に再開発によって京成立石駅北口全体が高層ビルなどに生まれ変わってしまう計画もあるが、ギリギリ赤線時代の姿を留めている。これからの行く末が最も気になる場所だ。
『全国女性街ガイド』
『全国女性街ガイド』(昭和30年)にも立石の記述がある。
早い話が、銀座人種には嫌われ、浅草民族にはぴったりくるのがこのシマの持ち味。六十軒、約三百名の小じんまりしたところ。美人よりサービスを期待して捨てがたい味がある。
短くまとめられているが、立石の赤線がどのような場所であったのかがなんとなくわかる記述。庶民受けが良さそうな場所だったのかもしれない。私も、表面的よりも中身を重視したい派なのでなんとなく共感できる部分があった。
『全国エロ町案内』
『全国エロ町案内』(昭和27年)
石さえタツというハリキリ、エロ町
立石の赤線については見出しから衝撃的。立石という地名はそういう意味だったのか…と開けていけない蓋を開けてしまったよう。
将来独立しようと金を蓄えている勤勉派の数もすくなくない。なかなかに、しっかりとした土地がらである。
貯金をして、将来独立する女性も多く、また検診に対しても目締めな立石の赤線地帯。客も安心できるとのこと。
『かつしかまちナビ』
地元の方が作成した『かつしかまちナビ』に、立石の赤線について詳しくまとめている方がいるので参考にした。
この時、亀有と立石は黒人向けの慰安所に指定されたのです。
以降、立石にはアメリカの黒人兵士だけが送り込まれました。数台のトラックに鈴なりに乗った黒人兵士たちが、トラックから降りて各店に向かって駆け出したといいます。
しかし、性病が蔓延したことで、RAAは昭和21年3月27日に封鎖されます。
立石の赤線はRAA時代、黒人兵士専用だったのでしょうか。トラックで移動してきた黒人兵士が一斉にお店へと駆け出す様子は今の立石の様子からは想像もできない。
立石は、戦後まもなくはRAAとして黒人兵の客で繁盛しました。RAAがいなくなった後は、闇ブローカーやグレン隊、朝鮮人の客で賑わったようです。しかし交通の便が悪いために、しばらくすると大変な不景気に見舞われます。そのうえ、重い課税が業者にのしかかりました。昭和25年の業者一軒当たりの税金は14万5千円(現在の貨幣価値で440万円)だったといいます。
1日に3千円の収入があるものとして、税務署は課税をし、その翌年にはさらに5,5倍の課税となり、業者はさらに青くなったようだ。そしてそこで働く女性は業者に稼ぎを取られるわ、性病に苦しめられるわでかなり大変な思いをしたらしい。
赤線が存在していた地図を参考に、現在の地図と重ね合わせてみた。現在がグレーの道。青い色で塗りつぶしているのが赤線。現在の道との整合性がよくわからなかったが、もしかしたら道幅も変わっているのかもしれない。また、思った以上に広範囲に存在していたようで、散策の時には新しい建物に変わってしまい、気づけなかった場所も含まれていた。
立石の赤線とデータ
【業者数・従業員数】
昭和26年:51・121名
昭和29年:54・145名
立石は小規模の赤線地帯であるものの、サービスは良いと評判だったそうだ。交通の便もあまり良くなく、周りには多くの競合もいる。店を改装したり、若い女性を集めるなど様々な工夫をしていたようだ。
【料金】(昭和29年)
ショート(立石では30分)、300円
通し(1時間)、500円
吉原の半分ほどの値段でサービスを受けられる。「捨てがたい味」と評されたのも納得がいく。
立石の赤線の名残を求めて
さっそく、京成立石駅北口を降り、赤線時代の名残を求めて散策しよう。昔ながらの商店街が広がっている。交番の近くにある細い道を入っていくと、赤線だった場所に繋がっているのだが…
知らないと見過ごしてしまうくらい、奥まったつくりの路地。なるほど、商店街からは赤線地帯の様子が全く分からない。交番の近くに赤線?!というのも気になったが、赤線時代は警察との関係性も深かったため、玉の井でも同じような現象を見ることができる。
立石赤線、かつての目抜き通り
細い道を抜けると、一気に開けた場所に出た。商店街のにぎやかさとは違い、静寂に包まれた飲食店が広がっている通り。
木村聡著の『赤線跡を歩く』によると、ここはかつて「目抜き通り」だったと表現されている。目抜き通りは、人通りが多い、中心の通りのことを指すため、ここがかつて赤線時代の中心だったのかもしれない。
独特な3つの丸み。右から「もつ焼丸よし」「ミニパブ5555」。ミニパブのハートがアクセントになっていてキュート。
「フィリピンスナック すずめ」。
「憩いの店オリーブ」が気になる。店舗は2階に上がるのだろうか。その隣にあるのは「パブブリッ子」。看板の様子からして老舗のように思う。
個性豊かな店名のスナックやパブが建ち並んでいる。商店街から少し入った場所に、こんな素敵な裏路地があるとは。
路地はまだまだ奥へと続いている。
「立石居酒屋関処」。灰色の2階建てのどっしりとした建物が、立石を見守っているようだ。
店の入り口には、緑色のカエルが…そして近くの建物の屋上のフェンスにも、カエルのようなデザイン…
建物が密集しているように見えて、間に一人が通れるくらいの路地があったりする。通れないだろうと思った通りを抜けると、赤い建物が見えた。
鮮やかな赤と、建物の色が怪しい。赤線に関係しているのだろうか?「カラオケスタジオ唄一文字」の看板だけが残っている。
カーブが美しい薄紫色の建物も気になる。カフェー建築の一種だろうか?ほかの建物とは少し違う雰囲気がある。
現在は使われていないようだ。薄紫色の壁も剥がれ落ちてきている。
路地を奥へと進むと、ドアが並ぶ建物が見えてきた。
その建物の右側を見ると、奥に青いやねがついた不思議な道が伸びている。奥の扉は破壊されているが、お店だったのだろうか?それにしても、横から伸びる青い屋根はどういう意味を持っているのだろう?
赤線地帯では、ドアと窓の数の多さに着目する。断言はできないが、ドアの数が多い。見たところ3つ。そして、2階にはバルコニー。窓から女給が顔を出していたのも容易に想像ができてしまう。
真っ白の壁。かと思ったが、塞がれているように思う。ここにも、ドアがあったのだろうか。右下のまりもっこりの笑みが怪しい。
奥は、明るい通りに出る。この細い路地にいると、昭和にタイムスリップしたかのようだ。
立石赤線の女王赤いタイルの円柱
先ほどの目抜き通りの角にあった「関処」の左手に、禁断の道が伸びている。
細い道を抜けた先には、赤線時代の建物と確認できる特徴的な建物が合わられた。「スナックつかさ」とある。
見てほしい。この曲線美。そして、丸い円柱。赤線時代に特徴的なカフェー建築の特徴をそろえている建物。曲線の下、中央の壁にもドアや窓があったのではないだろうか?と思ってしまう雰囲気がある。
角から眺めると左右に広がる曲線がさらに美しい。こんなび細い道に、赤線時代の建物がそのまま残っているのは嬉しい。
そして、よく見てみると、円柱の下部には…!
赤いタイルが見え隠れしているではないか。これはもしや、上から白く覆われているのかもしれない。劣化して剥げていることで、タイルが見えてきた。カフェー建築では、タイルなどの装飾を凝らし、目につくようなデザインが多かったらしい。
「スナックつかさ」と「スナック安芸」。看板はかろうじて残っているものの、営業している雰囲気はない。
和風と洋風が混じった雰囲気の建物。
建物の下には、残留物。1年ほど前の写真を見ると、ここまでは荒れていないようだが、なにかあったのだろうか。再開発がそれほど迫ってきているということなのだろうか。
円柱は側面から建物の後ろにかけて3本ほど見つかった。赤いタイルが装飾された円柱、見てみたかったな。
スナックつかさの横の道
スナックつかさの横にも、細い路地が伸びている。苔も良い感じに生えている。
スナックつかさの建物を道から覗くと、和風な入り口らしき場所を発見した。
蛍光灯がついているということは、ここからも出入りしたのだろうか。それにしても、横から見ると建物はかなり大きい。2階に連れ込むことも可能だろう。
アパート?赤線の名残なのか?
スナックつかさの建物の向かい側に、アパートらしき2階建ての建物がある。
赤線だった建物は、転業してアパートになることも多いが、この建物もそういった類だろうか。とても気になる。
かなり古そうな電球がそのまま残っている。
雨戸だろうか。半開きの状態で時が止まっている。
釘隠しのような場所に、星のマークらしきデザイン。建物に星を使うのはちょっとハイカラなのではないか。
2か所ある窓のいつ、片方だけが木製の枠組み。片方だけ取り合えてしまったのだろうか。
よく見ると、入り口には電球か、看板がぶら下がっていたのではないかと思われる痕跡。お店だったということもあり得る。
欄間と丸い電球が美しい。比較的壁の色も新しく、大事にされている気がする。
建物をパチンコがあるほうから見ると、「ぱぶすなっくぐう」の看板が出ている。建物の構造が気になる。入口が複数あり、赤線の匂いも感じる。
飲食店やパチンコ店が並んでいる。奥に見える通りが、駅前の商店街。
これも立石赤線の名残
ぱぶすなっくぐうの建物から、裏通りへと抜ける道沿いに、構えている白い建物。
現在は「ろーぜっと」というお店が入っているらしい。バラの花が飾られている。
一見気づきにくいが、これも赤線の名残だろう。上部の装飾がシンプルであるが、凝っている。そしてその近くにある電柱の広告には、「岩井質店」。赤線と質屋は切っても切り離せない。
赤線の裏の通り
裏の鳥は比較的道幅も広い。
赤線地帯の近くに、堂々と構える再開発の事務所。
大衆割烹や酒屋などもあるが、少し寂しい。
フォーエバー21かと思ったら、パブの「forever27」。
先ほど路地を入って見つけた赤い建物を指す看板には、「パブR」の看板が。あれ、そんな建物あったっけ。
こちらはちょっと豪華なつくりの「パブスナックエスペランサ」。
立石の駅前通りに戻ってきた。少し前までは古い昭和チックな街灯が残っていたそうだが、今は新しめの街灯になっている。
ハイテックランドと書かれたSEGAもかなり古そうだ。当時はハイテクだっただろうが、時代の移り変わりの速さを感じる。
京成立石駅北口へ戻ってきた。ここも再開発でこれからどうなるのかわからない。街の景色が変わってしまう前に、見納めておきたい。
おまけ:イラスト地図と建物
イラスト地図で、今回散策した場所を描いてみた。現存していないお店もあるがわかる範囲で記入。かつては映画館も近くにあったそうだが、映画館の詳しい情報もわかったら追記したい。
他に、特によかったと思った建物をスケッチ。スナックつかさの建物は、曲線が美してくて、ついつい描きたくなる。円柱の赤いタイルの全貌が気になって仕方がない!
角にあった建物も赤線の建物らしいが、イラストに起こすとさらによくわかる。ドアが多いのと装飾が凝っているのがわかる。
(訪問日:2020年6月)
【参考にした本】
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