太宰治ゆかりの船橋「玉川旅館」いよいよ取り壊し。登録有形文化財玉川旅館、最後の記録

国の登録有形文化財である「玉川旅館」。登録有形文化財に登録されているのにもかかわらず、様々な事情で4月に閉館。そして年内取り壊しになることがニュースで話題になった。国の登録有形文化財でも、永久に保存される保証がないということを改めて実感した私は、こうしてブログで記事として将来にその姿を残したいと思い、執筆している。
5月に「太宰治ゆかりの玉川旅館が100周年目前で廃業」との見出しを知り、急いで撮影に。そして署名運動も活発であったが、とうとう7月9日に玉川旅館が解体作業に入っていると耳にした。
無力な私たちには、どうすることもできない。数回の撮影で撮り溜めた玉川旅館最後の写真をもとに、玉川旅館の歴史を振り返りたいと思う。
玉川旅館の歴史
玉川旅館の成り立ち
千葉県船橋市にあった玉川旅館。「割烹旅館 玉川」として多くの人々に親しまれた老舗割烹旅館だった。創業は、大正10年(1921年)に料亭としてはじめたのがきっかけ。来年で100周年を迎える予定だった。
創業当時は、目の前に海が広がるリゾート(現在は埋め立てられている)で、「玉川」という名前は、料亭を始めた小川家当主の父、小川紋蔵氏が船橋大神宮奉納相撲で名乗っていた四股名(しごな)に由来するそうだ。昭和24年(1949年)から旅館業を加え、船橋を代表する旅館となった。
『写真アルバム 船橋市の昭和』(2016年、佐々木高史、いき出版発行)に昭和33年の玉川旅館と三田浜楽園の航空写真が載っている。

現在とほぼ変わらない玉川旅館。周辺は畑…

昭和2年の鳥瞰図にも、海に面した場所に玉川旅館の絵が描いてある。
戦前は、稲毛海岸等など、東京からのレジャー客や、陸軍の士官御用達旅館としても利用されていたそうだ。


建物は、本館・第一別館・第二別館の3棟が国の登録有形文化財に登録されている。船橋市にある登録有形文化財4つのうち、3つが玉川旅館の建物だ。
離れなどは近年建てられたものもあるが、創業当時からの建物も多い。
2階建ての建物は、一見3階建てのように見えるが、高床式の長い脚があり、船着き場跡が残っている。

等級別一覧で見る玉川旅館
追記になるが、1949年発行の『全国市町村便覧』(全国教育図書)にて「全国旅館等級別一覧表」がある。
全国の旅館が、等級別1~6までランク付けされているのだが、千葉県船橋市の項は次のようになっている。
1 三田浜楽園
2 玉川旅館
2 常盤
2 常盤別館
2 金波
2 富久
玉川旅館のランクは2。最も評価の高い三田浜楽園は、千葉県の他の場所と比べても類を見ないほどの場所だったことがわかる。玉川旅館以外にも高評価の旅館が色々あった船橋。現在はすべて無くなり、有名な旅館は何一つ無い。それほどの価値がある旅館がすべて無くなってしまったのは時代の流れなのか…
太宰治と玉川旅館
そして、第二別館の「桔梗の間」に太宰治が1年3ヶ月あまり滞在したことは有名な話だ。

「ダス・ゲマイネ」や「虚構の春」「狂言の神」の作品が玉川旅館で書かれた。太宰治は、自身の回想記で船橋について次のように語っている。
「十五年間」昭和21年(1946年)
以上挙げた二十五箇所の中で、私には千葉県船橋町の家が最も愛着が深かつた。私はそこで、「ダス・ゲマイネ」といふのや、また「虚構の春」などといふ作品を書いた。どうしてもその家から引き上げなければならなくなつた日に、私は、たのむ!もう一晩この家に寝かせてください。玄関の夾竹桃も僕が植ゑたのだ、庭の青銅も僕が植ゑたのだ、と或る人にたのんで手放しで泣いてしまったのを忘れていない。
滞在費が払えなかった太宰治は、フランス語の辞書や万年筆を置いていったともいわれており、現在も太宰治のファンが訪れていた。昭和51年(1976年)に母屋の火災で焼失。
太宰治の言葉が描かれた石碑が玉川旅館の入り口に飾られている。
「当時の私には一日一日が晩年であった」と。

また、太宰治が借家住まいをしていた太宰治の旧宅は、船橋市宮本1丁目の住宅街に、説明板が設置されている。
太宰治が誕生した日でもあり、入水自殺をした日でもある6月19日は全国のゆかりの地で「桜桃忌」「生誕祭」が行われている。玉川旅館でも、閉館を惜しみながら今年も開催された。

そして、船橋には他にも太宰治に関する史跡が保存されている。玉川旅館が無くなった後も、太宰治が過ごした歴史を残していきたいと思う。
湊温泉
宿泊客や宴会利用者に親しまれた「湊温泉」。敷地内の地下218メートルから湧出する薄茶褐色透明の温泉だ。温泉を利用したことがある方にお話を伺ったところ、茶色のお湯が特徴的だったとのこと。

西の海神、東の花輪
玉川旅館を調べるまで、「西の海神、東の花輪」と称されていたことを知らなかった。西の海神は玉川旅館、東の花輪は東船橋6丁目にあった山崎別荘のことを指しているようだ。
偶然、玉川旅館について記載があった新聞から知ることが出来た。地元の方々も、玉川旅館のが取り壊されることに対して色々と感じているようだ。東の花輪である山崎別荘の跡地は、現在公園になっているが、玉川旅館はどうなってしまうのだろうか。

吉岡新聞舗は現在も営業しているようだ。

これらの掲示物は、玉川旅館から少し離れた「斎藤豆腐店」で見つけたもの。

三田浜楽園
現在は高層マンションが建っている玉川旅館の傍には、かつて「三田浜楽園」があった。鳥瞰図でも確認できる。1929年に三田浜塩田が開拓され、三田浜楽園という遊園地になった。

玉川旅館は太宰治ゆかりの場所であったが、三田浜楽園は川端康成がゆかりである。

三田浜遊園には、動物園、野球場、プール、老舗温泉旅館などが造られ、習志野市の谷津遊園と並び、東京近郊の観光地だったそうだ。
2006年に高層マンションが建築され、幕を閉じたが、現在も記念碑が残っている。
玉川旅館の記録
駅から向かう道のり
まずは、不安橋駅から玉川旅館へ。その途中には玉川旅館への案内看板が。

これらも撤去されてしまうのだろう。至る所に看板を見つける。


看板を参考に進むと、玉川旅館の建物が見えてきた。

玉川旅館の外観

表から撮影を始めた。多くの見学者が来ており、撮影するのも譲り合いだった。
玉川旅館の背後には、白い高層マンション。玉川旅館だけが時代に取り残されているようだ。

調査をしている方や、報道関係の方が忙しく出入りしていた。建物の内部は灯りも灯っていた。


立派な玉川旅館の看板。一つの時代がまた終わろうとしている。


赤いネオンの玉川の文字は、昼間であったが光っていた。最後の輝きは、とても美しかった。


駐車場とみられる建物も、欄間のデザインが美しい。

裏手へと回る。


石で囲われていたようだが、現在は竹が囲っている。


高層マンションへと向かう人と、玉川旅館を見学している人。


入り口には赤いリボンが巻かれたポールが。
ひとつひとつの灯りのデザインがオシャレ。

祝日でもないはずだが、国旗が飾られていた。

敷地内へ…
玉川旅館の方に許可を取り、敷地内へ入らせていただいた。最後だと思い、可能な限り撮影をした。

玉川旅館の表札がかかった入り口。活気のあるころに、足を踏み入れなかったことを後悔する。いつか…と思っていたら、無くなってしまうものもある。いつかではなく、思い立った日に行かなければならない。

玄関を覗くと、様々なものがそのまま置かれていた。引っ越し前のような煩雑とした雰囲気。


太宰治の写真も垣間見える。


木製の下駄箱。

力を果たせなかった国の登録有形文化財の証明。

井戸?
レトロ電柱も、現役で利用されているようだ。まさか玉川旅館にもあるとは…これも撤去されてしまうのだろうか。

中庭の方へ
調査をしている方もいたが、邪魔にならないように撮影をさせていただいた。

和風庭園と思われる美しい中庭。
建物を繋ぐ廊下が中庭から見える。紅葉の季節になるとまた違った顔を見せるのではないだろうか。
中庭から建物内を覗いてみると…

なんと美しい柄なのでしょうか。
着物について詳しくないため、なんと表せばよいのかわからないほど、豪華絢爛な着物。

垣間見える置物や、家具がすべて貴重なものばかりだ。
御風呂へ
御風呂はこちらですとの看板を目印に、奥へと進む。

廊下を進み、一段下がるとお風呂が見えてくる。
御風呂へと続く階段。
その階段が石垣になっているのが気になった。
どうやらここが舟着場跡のようだ。当時の石垣がそのまま残っているのは貴重だが、撤去されるんだろうな。

御風呂はさらに奥へと続く。

御風呂には説明看板が設置されており、湊温泉の歴史も知ることができる。
営業していない日のはずだが、熱々の湯舟は稼働していた。
「古代槽」と呼ばれる耐久性に優れた浴槽を利用しているようだ。
庭で気になったランプ
庭にはたくさんのランプが吊るされていたのだが、どれも趣ある装飾で、温かみを感じるつくりだ。御風呂までの道を照らしてくれたのだろうか。
リボンはどんな意味があるのだろうか。
庭から見えたお手洗いも、とても素敵な扉。
建物の土台を見ると、無数に入ったヒビが目立っていた。この様子を見ると、たしかに現状維持をしていくのは難しそうに思える…

撮影をしていると、多くの人が同じように敷地内へと入ってきた。中には、庭の石に腰掛けポーズを取り始める若者もいて、少し異様だった。私も少なからず若者の恰好をしているため、その若者と巻き添えをくらい注意をされたのだが、真面目に歴史として保存したい人からするとそういった行動をとる人は迷惑だなと思った。でも、それくらい玉川旅館が多くの人に影響を与えているのは確かなのである。
在りし日の玉川旅館
8年前の玉川旅館
奇しくも、8年前の7月、自由研究で訪れていたようだ。その時はまさか今のようになるとは思わず、記録が少ない。


情報提供
ある方から、玉川旅館が現役で営業していた時(2012年頃)の写真を提供して頂いた。約8年前の玉川旅館の内部の写真。私は玉川旅館の中へ入ったことは無いため、とても有難いです。ありがとうございます…

豪華絢爛な室内の様子。

私もいつか行こうと思っていたのだが、こんなにも素敵な場所であれば思い立った時に早く行くべきだった。取り壊しになってから後悔しても遅い。

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玉川旅館閉館の理由
玉川旅館は4月30日をもって閉館。年内には取り壊される。閉館の理由としては、新型コロナウイルスの影響による売上の激減。さらに、近年の自然災害による建物の修繕費を維持するのが厳しくなったとのことだった。瓦の修繕費は1億にものぼると聞いた。
国の登録有形文化財、船橋市の4つのうちの3つを占める玉川旅館の建物も、個人で維持していくには限界があるだろう。文化財に対する補助は厳しいという。
船橋市の議員の方にもお話を伺ったが、新型コロナウイルスの影響で船橋市も財政が厳しいとのこと。そして船橋市が確認する以前に、解体の話が決まっていたため、取り壊しを中断するのは、女将さんの意向もあり、厳しいと話してくれた。
一方で、玉川旅館の記録を保存し、市内の設備に移築するかも?との案も出ているそうだが、一体どこまで実現できるのかはわからない。
船橋はこれからどうなるのか…失った登録有形文化財
船橋市の登録有形文化財、4分の3が玉川旅館であり、年内に取り壊しが決まっている。保存運動も虚しく、解体工事も始まってしまった。
そして、玉川旅館の近くにあった割烹「なべ三」も閉店、さらに「船橋グランドホテル」も8月をもって閉業と、ニュースが次々と舞い込んできた。
かつては、成田街道の宿場町「船橋宿」として栄えた船橋も、その面影を手放そうとしている。…これから船橋はどうなるのだろうか。玉川旅館に限らず、今後は社会情勢の影響もあり、さらに消えてしまう場所が増えるだろう。少しでも記録として残したい。そんな気持ちが、玉川旅館を思っていると、一層強くなった。

追記:取り壊しの様子
6月で取り壊しと聞いていたが静まり返っていたため、安心しきっていたところ、7月上旬。いよいよ取り壊しが始まったようだ。

全体がシートで覆われ、もうかつての姿は見えない。あたりは重機の音がガシャンガシャンと響いている。

かろうじて、玉川の文字は保存されているようだが、一体どうなるのか。

無造作に投げられ、割れていく瓦。

2021年2月。
再び訪れてみた。

何もない…うう。記録に残しておいて良かった。

これからマンションが建つんだろうなあ。
玉川旅館の最後は胸が張り裂けるような思いだった。
(訪問日:2020年5月)
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