旧酒々井宿。城下町・旧道沿いに残る文化財の近代建築「莇吉五郎家」 -酒々井⑵

旧酒々井宿。城下町・旧道沿いに残る文化財の近代建築「莇吉五郎家」 -酒々井⑵

酒々井町酒々井へ。本佐倉城の城下町、そして旧成田街道沿いの宿場町、佐倉七牧の野馬会所として栄えた場所。現在も街道沿いには古き良き建物が2か所現存。文化財に登録されています。

個人的にも思い出深い場所です。

酒々井宿の歴史

千葉県印旛郡酒々井町酒々井。現在のJR酒々井駅からは徒歩20分ほど。旧成田街道沿いに酒々井宿の面影が広がっている。

酒々井宿の歴史については「酒々井風土記 ー酒々井宿物語ー」にて詳しくまとめられている。酒々井町教育委員会が制作したウェブサイトのようだが、なかなか力作で読み物として面白い!今回の記事で引用させていただきます。

Advertisement

酒々井宿について

酒々井宿は家並み四丁(約400m)ほどで、上宿、中宿、下宿、横町と町屋が続く宿駅で成田山への小見川道、銚子道と芝山観音への道々が宿内から分かれます。

南側の大鷲神社周辺から上宿~と続く。成田山だけでなく、芝山観音へ続く道も分岐していたのか…今度歩いてみたい。

酒々井の地名は「酒の井」伝説にちなむと伝わり、十六世紀には戦国大名千葉氏の本拠地であり、戦国の終わりには徳川家康により城下町と宿場町を兼ねた「酒々井町」として新しく誕生しました。
佐倉城の城下町、宿場町、馬市の町として繁栄し、「酒々井宿」と呼ばれます。
現在では街並みが一変してしまいましたが、街道沿いの商家や神社、寺院には今なお面影が感じられます。

現在残っている商家は、後ほど紹介する二軒と大鷲神社近くの一軒くらいで後は取り壊されてしまっている。だが、個人的には現存している2軒の存在が大きいと思う。
中学生の時に成田街道を全部歩いていて、特に酒々井宿の街並みが印象深く覚えていた。他の宿場町は開発によって道幅すら変わっていたりする。

地名の由来となった「酒の井の碑」は以前訪ねたことがあるので今回は割愛するが史跡として保存されている。

Advertisement

酒々井町の街並み・宿屋のこと

「酒々井風土記 ー酒々井宿物語ー」の「7 酒々井町の街並み」のページが個人的に興味深いと思ったのでピックアップ!

江戸時代の酒々井町には約百三十軒の家がありました。

古い資料からは問屋、宿屋、そば屋、茶屋、豆腐屋、大工、口入屋[くちいれや](職業紹介屋)、馬医がいたこと、伝承からは屋根屋、桶屋、井戸屋、餅屋、足袋[たび]屋、煎餅[せんべい]屋、馬鞍[うまくら]屋、馬具屋、甘酒屋、油屋、こんにゃく屋、あんま屋などがあったと伝えられています。また仲町の南側、野馬会所の並びには会所に勤める捕手たちの家々が並んでいました。

宿やをはじめ、飲食店や足袋屋、馬具屋など幅広い職業の方がいたことがわかる。

「8 宿屋のこと」のページでさらに詳しく解説がある。

記録と言い伝えでは佐野屋、米屋、大国屋、笹屋、中屋、阿波屋、槌屋、甚内、岩城屋、柏屋という宿屋が宿(しゅく)の中にありました。

江戸後期以降には成田不動や芝山観音の参詣者も迎え入れる町となり、八千代市の大和田宿の5軒に比べると多い軒数だったという。

Advertisement

莇吉五郎家

千葉県印旛郡酒々井町酒々井1636−1。上宿にある「莇吉五郎家」へ。

莇吉五郎家

2022年夏に国登録有形文化財に登録された。酒々井町の記事によると今後、観光資源としての利活用を図っていくとのこと。→酒々井町登録文化財「莇吉五郎家」が国登録文化財に登録されます

文化庁は登録にあたり「佐倉街道(成田街道)酒々井宿に所在する醤油や茶を扱った商家。(中略)賑わった街道の歴史的景観を伝える豪壮な店舗。」であり「国土の歴史的景観に寄与しているもの」と評価しています。

酒々井町では「飯沼本家」(計6件)につぐ国登録有形文化財(建造物)であり、今後、文化振興や観光資源としての利活用を図っていきます。

現在 整備中

私が成田街道を歩いていた2013年頃は整備前で、今にも崩れそうな痛みが激しい印象だった。

そのため、今回訪れた時にスイッチバックされ全体的に整備されている様子を見て、嬉しく思った。

建物の前には酒々井町登録有形文化財の説明看板。これは以前から設置されているもの。

説明看板

酒々井町酒々井地区は、戦国時代には本佐倉城の 城下町として、また江戸時代には佐倉藩の城下町、 旧成田街道の宿場町、 佐倉七牧 (徳川幕府直轄の野馬牧場) の野馬会所 (管理事務所)・野馬払い場の所在する地として栄えた場所です。
莇吉五郎家は、江戸時代の後期に油販売で成功し、 明治初期の吉五郎の代には醤油醸造業を営んでいました。
現在の土蔵二階建て建物と平屋建物は、 明治27年 刊行 『日本博覧図千葉県編』 と同一の建物であるから、 これ以前に建築された店舗兼住宅建物と考えられます。
当家は現在においても歴史ある酒々井地区の中核的 な建物として歴史的景観を形成しています。

 

明治27年 日本博覧図

日本博覧図には、今は無い三階楼と離れ、その他建物が描かれている。

現在 交通量が多い

醤油醸造と茶の製造販売を行っていたとされる店舗兼主屋。
また、県立房総のむらの「下総の商家」のモデルともなった建築物だそう。

そして、平成30年に所有者から寄付を受けたため、国登録有形文化財に申請し、登録が決定となったという。

レンガ造りの門
歩道も整備されていた
敷地内も整備中

土蔵 裏
主屋が見える

Advertisement

株式会社莇商店

また、向かいには「莇商店」。現在も営業している!

莇商店

検索しても公式な情報が少ないのだが、創業明治元年の米専門店とふるさと納税サイト「ふるさとチョイス」で紹介されている。

米屋

店舗右に映るのは、戦前に使用していた大豆窯だという。

酒々井町は明治22年の町村制施行以来一度も合併していない「日本で一番古い町」としても知られています。
都心から50㎞圏内に位置し、北総台地の緑豊かな自然に囲まれた酒々井町は、国指定史跡 本佐倉城跡などの史跡や旧成田街道 酒々井宿の古い商家が面影を残す町並みなど、歴史や文化を感じられる地域でもあります。
旧酒々井宿の歴史的な建物が多く残る県道137号線沿いに店を構える「莇(あざみ)商店」は、創業明治元年 老舗の米専門店。

同じページには「店舗に残る明治時代のカレンダーと敷地に保存されている旧米蔵」が写真付きで紹介されているが、カレンダー=引札(昔の広告)だろう。これは貴重なもの!!

広告によると、「肥料雑穀落花生、生糸繭商」とある。

店舗隣の蔵

さらに店舗の横には煉瓦壁。

店舗横の煉瓦壁

先ほどの文化財登録には含まれていないようだが、こちらも明治頃の建造物なのかな。

イギリス積み
Advertisement

島田長右衛門家・島田政五郎家

旧成田街道沿い、酒々井町役場入り口丁字路近くにあるのが「島田長右衛門家・島田政五郎家」の建造物。

島田長右衛門家・島田政五郎家

酒々井宿の景観を良く残しており、ここだけ切り取ると江戸時代にタイムスリップしたような感覚になる。

説明看板

島田長右衛門家は、江戸時代に幕府野馬御用を勤めていた家で広い敷地を有していたという。かつては宅地裏に野馬会所と野馬払い場が存在。隣接する島田政五郎家は分家で灯油の製造を行っていた。

日本博覧図

明治 7(1874)年に野馬御用を辞し、呉服・太物・足袋の小売問屋を開業した際、明治10~20年頃に建てられた店舗兼住宅。

整備された景観

以前は外観がブロック塀で覆われていたが、見学者が見やすいように塀を取り払い、歩道を土に似せた舗装にしたという。土風の舗装が雰囲気あって良いなと思っていたのだけど、見学者への配慮だったとは。凄いな~→酒々井町の顔づくり(歴史的風致の保全)事業

Advertisement

酒々井の街並み

酒々井宿の現在を探索。

旧成田街道沿いは交通量も多く、歩くには多少難があるが商店街らしき風景も一部のこっているようだった。

旧商家?
元病院

島田家の隣にある旧精肉店。土蔵造りが顔を見せている…

肉のほそや

酒々井町役場入り口の丁字路。

酒々井町役場入り口

正面には酒々井町道路元標が建っている。この辺りが町の中心部。

酒々井町道路元標

さらに北へ。酒々井駅を目指す。

津田屋酒店
自転車店

旧道らしい古い建物が続く。

下宿の麻賀多神社へ。

麻賀多神社
社殿

天喜年間(1053年)に創建。酒々井の地の発祥と同時期に創建されたと伝えられている。

説明看板

境内の説明看板が二つ。観光客に優しい…

鎮座地の項目を見ると、明治後期に尋常小学校用説の為に提供とある。子弟教育を急務とする町のため、敷地が半減…

神社の歴史

現在、酒々井町立酒々井小学校はとても立派な建物に。

酒々井町立酒々井小学校

神社を後にし、少し歩くと分岐のあたりに高台で一休みできるスペースが設けられていた。

椅子が並んでいる

印旛沼眺望名勝地!酒々井宿の北はずれにある眺めが良い場所「下がり松」とのこと。

下り松の展望

江戸末期から明治にかけて多くの人に愛された景色。かつては茶店も存在したみたい。

旧酒々井宿の街並みはいかがだったでしょうか。かつての旅人気分でふらりと歩いてみるのも楽しいかもしれません。

 

 

(訪問日:2022年2月)

error: このコンテンツのコピーは禁止されています。