千住遊廓(柳新地)のカフェー建築を探して。千住遊廓の歴史-北千住⑴

千住遊廓(柳新地)のカフェー建築を探して。千住遊廓の歴史-北千住⑴

千住の遊廓。江戸時代、宿場町として栄えた千住、現在の北千住駅のあたりには飯盛宿が並び、遊廓、赤線と時代の変遷を経て多くの人で賑わっていた。その様子は名著『赤線跡を歩く』でも豊かなビジュアルで紹介されている。しかし、現在は開発が進み、住宅街になっているとの噂。

 

千住柳町にあった遊廓、赤線の歴史。果たして令和の現在、どれくらいの名残があるのだろう。あまり期待をせずに訪れた千住の遊廓跡であったが、思わぬ発見もあり、とても興味深い場所だった。

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千住の遊郭の成り立ち

まずは千住遊廓の成り立ちについて、江戸時代に遡ってみよう。

千住宿と飯盛女

千住は「千住宿」として慶長元年(1597年)に設置され、日本橋から1番目の宿、江戸四宿の一つとして大変賑わった。日光街道、奥州街道など主要な街道が通った千住宿では、飯盛女という宿にいる遊女の存在も認められ、遊興目的で千住に訪れる人もいたほど。幕府公認の飯盛女が千住と同じように置かれた場所としては、品川宿、板橋宿、内藤新宿がある。千住宿では13軒あったらしい。

余談ではあるが、私も中学生の時に成田街道を日本橋から成田山新勝寺に向かって歩いて調査していた時に、とてもお世話になったのが千住宿であった。千住には現在もその当時の名残を示すものが多くあり、また商店街を散策していても楽しい。現在も活気あふれる素敵な街だ。

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柳新地(千住遊廓)から赤線へ

大正15年、新たな指定地「柳新地」が指定されることになった。(現:東京都足立区千住柳町)その次の年には、41軒にまで拡大。関東大震災においても焼けなかった千住の柳新地は、洲崎や吉原の方から流れてきた客で繁盛したようだ。

現在の大門商店街の東端に大門があり、メイン通りが北側に伸びている。正方形び整備された遊廓の名残は、現在も残っている。

昭和20年の東京大空襲では、柳新地の西側を除き、無事というこもあって、戦後はRAA、赤線地帯へと移り変わっていった。『赤線跡を歩く』では8ページにわたって、千住の赤線跡の写真を掲載している。当時の写真を見たい方はぜひご覧ください↓

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文献で見る千住の遊郭

『全国遊廓案内』

全国遊廓案内』(昭和5年、1933年発行)

此れで臺が附かないのだから決して安い方では無い。勿論廻しは取るのだ。通し物には楼主が五割を掛けて請求する事に成つて居る。藝妓はきう町から呼ぶので俥賃が五十銭(大小一組)、である。

新宿と費用は変わらないとのことだったが、安くはない。

 

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『全国エロ町案内決定版』

全国エロ町案内決定版』(昭和27年、1949年発行)

左右両側にはずらりと軒灯がたちならび、いずれも店の名をしるして、家並みのそろつたところ、東京には珍しい古めかしさ、奥ゆかしさがある。

戦争の被害を受けなかったため、明治の色町の名残を知ることができる珍しい場所として紹介されている。

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『全国女性街ガイド』

全国女性街ガイド』(昭和30年、1952年発行)

一帯にはこの里は工員、農村青年、不良がよく集まり、女もカカトの厚い農村家出型と一流赤線からの転落組に占められているが、極めて庶民的。昔の青楼的気分にひたりたいなら焼けない老舗の方、サービスならバラック建の新店。

千住遊廓は、比較的庶民的な場所として親しまれていたようだ。「カカトの厚い」という表現からは逞しい女性の姿を想像できる。

黄色のあやめの咲く六月が一番好まれる里である。国電北千住駅から徒歩十五分。

黄色のあやめというのは、どこの場所を示しているのだろうか。今となってはそのような話は聞いたことがないのだが…

 

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千住遊廓MAP

千住遊廓の、妓楼があった大体の場所を赤い丸で書いてみた。大門が2か所、囲われた千住遊廓は、現在どのようになっているのか、探索してみよう。

 

千住遊廓MAP
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大門があった付近

北千住駅から徒歩15分ほど。大正通りから、大門商店街の入り口へと向かう。千住柳町SSと表示されたレトロなガソリンスタンドが、かつての千住遊廓の大門入り口の目印だ。

千住柳町SS

ガソリンスタンドから北に伸びる道路がメイン通り。そして、現在街灯が建っているあたりには大門が存在していたのだろう。地図で確認すると、メイン通りの道路は現在も他の道路と比べて広い。そして京都の碁盤目状のように、区画割されているのが遊廓の特徴だ。

大門は、当時のことを知る「双子鮨」の店主の方によると、銅製から木製へとつくりが変わったという。というのも、戦時中は銅などは回収されてしまうからである。千住遊廓の大門の写真は見たことがないのだが、果たして残っているのだろうか?

双子鮨の方から伺ったお話はこちら↓

「双子鮨」北千住のきたなうまい店。北千住の遊郭にも詳しい店主とランチが最高

「双子鮨」北千住のきたなうまい店。北千住の遊郭にも詳しい店主とランチが最高

大門があった付近

大門があった付近には、鮨屋やたばこ屋が軒を連ねていた。

田中たばこ店
たばこ販売店

たばこのホーロー看板も残っていた。隣の番地の下に、婦人部と書いてあるのが気になった。

婦人部

反対側には、「青雲塾」とある建物。学習塾?と思ったら、ストリートビューで確認したところ「青雲習字塾」と看板が出ていた。

青雲塾

大門から、北側に向かって歩いてみよう。妓楼が並んでいた通りも、今は一般的な住宅街に。10年くらい前までは、カフェー建築を思わせる建物が、大門商店街の北側に残っていたらしいが…

住宅街の道に残る木製の柱。かなり下が埋まっているようだが、なぜこれだけ残しているのか気になる。

木製の柱が埋まっている

突き当たりの道はニコニコ商店街。ニコニコ商店街というものも、かなり窮屈そうな建物。建て替えるのも一苦労しそうだ。

古そうな建物
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ニコニコ商店街

ニコニコ商店街というものも、現在は新しい一軒家が多く、商店街の雰囲気はあまりない。ストリートビューではニコニコ商店街のアーチ看板が見られるが、私が訪れた時は無くなっていた。悲しい…

ニコニコ商店街のアーチのイラスト
ニコニコ商店街の通り
サインポールがオシャレ

美容室の裏に、一軒、異質な建物が残っていた。

1階部分が覆われてしまって建物の全体像がわかりにくいが、覆われていることでかえってその異質性を目立たせている。

カフェー建築らしき建物

2階はかなり重厚なバルコニー。下から2階の部屋を覗けない仕組みになっている。また、よく見るとバルコニーにはデザイン性もある。これはカフェー建築の特徴を捉えていると感じた。

2階のバルコニー

隙間から覗くと、丸いカーブのひさしと、赤い色が残っているのがわかる。もともとは、全面赤色だったのかも。

赤色がちらり

隣が空き地のため、外観だとてもわかりやすい。カフェー建築だということを隠すため、鳩の街や玉ノ井でも同じように建物が覆われていた。千住では多くの建物が無くなった現在、とても目立つ存在なのだろう。

建物の外観

建物を横側から見ると、さらに驚くことが。

 

建物の横側

中央にある窓には、透かしガラスや、左右で異なる装飾があり、見る人を惹きつける。

窓の装飾が素敵

上部には、丸いアーチで囲われた欄間のような空間。カフェー建築の名残がそのまま残っているように思う。千住の唯一の生き残りといっても過言ではないほど、状態も良い。いつまでも残してほしい建物だ。

欄間?
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明光会の通り

ニコニコ商店街から繋がるように、「明光会」と表示されたオレンジ色の街灯が並ぶ通り。過去の写真を見ると、茶色の質素な街灯だったのだが…最近改装したのだろうか?

明光会

商店街と名乗れるほど、商店もなく、「商店街の遺構」とも書かれている明光会で、なぜこんなにも素敵な街灯が復活したのか。

飲み屋と日用品の建物

明光会の通りを縦構図で撮影。圧巻の景色。レトロな街灯と寂れた商店街の雰囲気は、必見です。

縦構図の明光会
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ニコニコ商店街へ再び

明光会はほとんど開いているお店もなく、遊郭からも離れてしまうため、再びニコニコ商店街の方へと踵を返す。オレンジ色と白色の街灯の境目のあたりが、ニコニコ商店街のアーチがあった箇所。

ニコニコ商店街の方へ

ニコニコ商店街では、白い街灯が並んでいる。こうした商店街の街灯も、レトロなものはマニアにとってたまらない。以前『八角文化会館』という雑誌の方が「宝石になった街路灯」と表現していたのが、とても美しい表現だなと思った。

ニコニコ商店街の街路灯

ニコニコ商店街も、ニコニコという名前には程遠く。かつて千住遊廓が繁盛していた時の様子を見てみたいものだ。

入り口が多い気がする建物
かつての商店の痕跡

お化け屋敷のような、解体中の建物。銭湯「金の湯」の目の前にある。手前の空き地は、「上野屋」という立派な建物があったみたいだが…

解体中の建物

「中林商店」と「みなと屋支店」。肉屋と魚屋が一体になっている建物のようだ。

「中林商店」と「みなと屋支店」

銭湯の目の前という立地の良さは、銭湯帰りの客で賑わったのではないかと思う。ニコニコ商店街のかすかな息遣いを感じる建物も、もうすぐ無くなってしまう。

建物の側面

金の湯から裏道へ

銭湯「金の湯」から裏道、住宅街の方へと進む。角に入り口がある、灰色の年季が入った建物を発見。

ちょっと気になる建物の形

断定はできないが、こうした変わった建物の形をついつい疑ってしまう。

疑ってしまった建物

 

住宅街からニコニコ商店街へ戻る。

不自然に壁に覆われた建物。絶対、商店だったでしょ…

不自然に覆われた建物も

「深井米店」は、青いスペイン瓦がとても綺麗に残っている。青と白の色のバランスが美しい。

深井米店

ニコニコ商店街を知らせる街灯の看板。アーチが無くなったため、この看板だけが頼りなのかもしれない。

ニコニコ商店街の名残

ニコニコ商店街を抜けると、大正通りにあたる。大正通りから東側に伸びる商店街は「いろは通り」と呼ぶらしい。丸い街灯と、看板のフォントが可愛い。それにしても、商店街がとても密集していて歩いていて楽しい。

いろは通り
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大正通り

大正通りから、北側にある「氷川神社」を目指して歩く。千住遊廓には関係ないと思うのだが、道幅がやけに広い大正通りの先にある神社にとても惹かれた。

大正通り

新しいアパートや一軒家が多い中で、「中村たばこ店」は古そうだと感じた。たばこの文字が協調された店の入り口。パイプのイラストが描いてあるのは珍しい。

中村たばこ店

長い一直線の道路をひたすら歩くと、氷川神社の鳥居が見えてきた。

氷川神社へ

鳥居の近くには、「千住川田浅間神社富士塚」というものもあった。文政7年(1824年)に築造された富士塚は、現在の場所に昭和43年に移築復元されたもの。観光マップにも掲載されており、実際に登ることも可能らしい。

千住川田浅間神社富士塚

境内には、「大川町會隣組」と書かれた防火用水。旧字体と右読みから、かなり古いものと思われる。

防火水槽

また、太い柱は「旧千住新橋の標柱」。
千住新橋は、明治44年の荒川放水路の大改修計画の一環として、大正9年から13年間の長い年月と莫大な費用を投資して作られた橋である。

その後、昭和32年に拡幅、等級化にともなって架け替えとなった際に、この場所に柱を残すことになったのだという。

旧千住新橋の標柱

 

千住遊廓の名残を追って、ニコニコ商店街、明光会、大正通りと散策をした。商店街もかなり寂しいものになってしまったが、微かな名残を感じれたのは良かった。後半は、さらにややこしい住宅街の中、そして大門商店街を探索する。

千住遊廓(柳新地)と大門商店街。千住遊廓の歴史-北千住⑵

千住遊廓(柳新地)と大門商店街。千住遊廓の歴史-北千住⑵

 

(訪問日:2020年7月)

 

 

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