佐貫城址の探索。かつての武家屋敷街~旧佐貫中学校。遺構が残る平山城 -佐貫⑸

今回は、いよいよ目的地の佐貫城跡へ。城跡までの道のりも、かつては武家屋敷街として栄えたそうで、その面影を辿りつつ歩きます。
かつての武家屋敷街 佐貫城までの道
千葉県富津市佐貫。前回の鉤の手状に屈折している県道を曲がり、東方面へ。JR佐貫町駅から目的地の佐貫城跡までは片道30分ほど。

前回までは商家が並ぶ城下町の街並みだったが、ここからはかつての武家屋敷街。明治初期までは多くの武家屋敷が並んでいたという。
さいとうはるき著『房総の城下町絵本』を参考にします。


東佐貫バス停がある場所には古い門柱が二本残っている。どんな邸宅が存在したのか気になるな~

門柱に取っ手のような部品が付いているので、看板が掲げられていたのか…元病院とか?石畳も若干残っている。2014年のストリートビューではすでに更地。
少し行くと、旧富津市立佐貫中学校。

現在も開校しているかのような綺麗な外観だが、脇には閉校記念碑が建っていた。

沿革によると、昭和22年に開校し、令和2年に閉校となったようだ。

また、「佐貫地区教育発祥の地」と描かれた碑も。今は静かに佇んでいる。

『房総の城下町絵本』によると、中学校がある辺りが、亀城(佐貫城)と呼ばれた城山のちょうど亀の頭だとか。それにしては低いなと思ったら、削られ整地されて中学校となったという。納得。

さらに東へ行くと、日枝神社が山側に。その手前に、東京電力パワーグリッド株式会社佐貫変電所がある。そこは、藩校の「誠道館跡」になるらしい。


また、今は営業していない定食屋「永島屋」。この奥の高台が佐貫城三ノ丸南西櫓台跡とのこと。


いよいよ佐貫城址へ!小山の裾に到着。左手の看板がある辺りが入り口だ。

分岐の角にあるのは、綾部商店。今は営業していなさそうだ。看板には食料品の他に、「鹿野山 天日干し せんべい」とある。

城を探索する前に一服したかったのですが、叶わず残念。
佐貫城跡
いよいよ佐貫城址入り口へ。

入り口には看板がいくつか設置されている。新しい看板は平成30年に設置されていて有難い。

富津市ホームページより引用。
佐貫城跡は室町中期から江戸末期まで城主が替わりながら存続した城跡である。
初期の城主は定かではないが、真里谷武田氏が居城したと見られ、その後天文年間(1532~1554年)には、武田氏との争いに勝った里見氏の所有となる。
永禄10年(1567年)の三舟山合戦では里見義弘がここを本拠地として北条氏に勝利し、ついでその子梅王丸が居城したが、徳川家康の関東入部に伴って、天正18年(1590年)家臣の内藤家長が城主となった。
その後、江戸時代には桜井松平氏、能見松平氏、柳沢氏、幕府代官と城主が交代し、江戸中期の宝永7年(1710年)に阿部氏が城主となって、廃藩置県まで続きました。
現在、花木公園として、佐貫まちづくりいしずえ研究会が文化財の保護・整備を行っています。※駐車場および城跡の敷地内でのキャンプやバーベキュー等はご遠慮ください。

草影に見える石垣、これが大手門跡らしい。

私は特に城マニアではないので、城の詳しい説明については他の詳しい方々のブログ等を参考にしてほしい。→関東地方の城「上総奪い合いの緊迫地帯 佐貫城」
しかし素人なりに佐貫城は城跡として整備されていて、山頂までの高低差もちょうど良く楽しむことが出来た。

三の丸の看板が建っているが、農地転用もされているためどこまでが城郭遺構かは判断が難しいとのこと。
次、二の丸を指す看板。

樹の間から忍者でも出てきそうな雰囲気…

良い道だと思って油断をしていたら危ない。右側は崖。


本丸はまだ先。道に迷わないように看板が至る所にあるのが助かる。


印象的だったのが、土橋。写真では伝わらないが、美しい橋の形。


徒歩10分くらいだろうか、本丸へ。



松天神神社は茂った奥にあるようだ。

本丸の左手に展望台があるので、そこで一休みすることにした。

展望台からは東京湾方面が見える!こんなに標高が高かったのかと、今までの道のりを思う。

東京湾観音も見えた!天気が良いと冨士山も見えるらしい。

室町時代から明治時代初期まで続いた歴史ある佐貫城址。
地元の方々によって整備されているので初心者でも歩きやすい道のりだった。駐車場もあるのでぜひ。
(訪問日:2022年1月)
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