佐倉遊廓の真相を求めて。貴重な資料と連れ込み旅館らしい跡地  -佐倉遊廓⑵

佐倉遊廓の真相を求めて。貴重な資料と連れ込み旅館らしい跡地  -佐倉遊廓⑵

佐倉遊廓について、真実が知りたい!千葉県佐倉市弥勒町にかつて存在したという佐倉遊廓(弥勒新地)。しかし、その情報が本当に少なく、地元の方でもあまり知っている方がいないという現実。

他の方が書いている佐倉遊廓についての記事も、はっきりとした証拠がなく曖昧なまま、本当にその場所に妓楼があったのか?佐倉遊廓の経緯や最後まで残った妓楼について色々と謎が多すぎるのです。

そこで、今回の記事ではより佐倉遊廓の真相に迫る内容について取り扱いたいと思います。ネットで錯綜している遊廓の情報に鞭を打つ勢いで新たな情報を聞き取りしました。

佐倉遊廓の基本情報について

私は7月に佐倉遊廓について隣接する妙経寺の方にお話を伺い、記事にまとめました。まだ読んでいない方はぜひ↓の記事を読んでから今回の記事に進んで欲しいと思います。

佐倉の遊廓(弥勒新地)にて聞き取り調査と仮説。現在の佐倉遊廓跡地は… -佐倉⑶

佐倉の遊廓(弥勒新地)にて聞き取り調査と仮説。現在の佐倉遊廓跡地は… -佐倉⑶

佐倉遊廓は明治16年~20年くらいに開業し、その後大正時代に相次いで妓楼が衰退。最後まで残った若葉楼は成田街道沿いに一軒、廃墟として残っていたという。

以前の記事では私の仮説も書いているが、最後残った若葉楼は場所を変えて営業していたかと思われる。そして、遊廓の場所、妓楼の位置についても納得ができない部分が多い。

おはやし館の方のお話

昔の佐倉について知っている方をまずは訪ねようと思い、新町にある「佐倉新町おはやし館」へ。月曜日が休館とのことで、休館日を避けて行った。

佐倉新町おはやし館

偶然、佐倉のことをよく知る女性の方が出勤の日であった。週に2,3回、数時間しか出勤が無いというのでこれはラッキー!

私と60歳以上も離れている方であったが、とてもお話上手で記憶も鮮明。佐倉遊廓のことから、東京のお話まで様々伺うことができた。以下にまとめる。

裏新町を通って兵隊さんは佐倉遊廓へ向かっていた。
国で配布されるスキンを2枚持って遊廓へ。
・佐倉には病院、婦人科が多い。
・女性が事後に洗浄する際にも専用の方がいた。
・裏新町にある花家旅館などでは兵隊さんが忘年会などで利用していた。
・佐倉遊廓へ向かう弥勒町通りにも青線のような飲食店が少しあった。
麻賀多神社の前にも怪しい飲食街がいくつかあった。
・連れ込み旅館は現在も2か所、おはやし館の近くの坂を下った場所にある。

全てが正しい情報とは限らないので鵜呑みにするのは危険だが、成田街道沿いではなく、裏新町を通って佐倉遊廓へ向かっていたというのは本当だと思う。

佐倉の地図

地図を見ると軍隊が置かれていた左側にある佐倉城の大手門から、麻賀多神社前を通り、裏新町の通りを通って佐倉遊廓へ向かう方が近道なのだ。

成田街道を通るのは東京方面からの参詣客などで、近道をする地元の方は裏新町を通っていくのだろう。現在も花家と玉家の建物は残っている。↓

裏新町に残る割烹「玉家」と廃墟旅館「花家」-佐倉⑻

裏新町に残る割烹「玉家」と廃墟旅館「花家」-佐倉⑻

また、国で配布されるスキン2枚が気になった。スキンというのは避妊具であったが、公に認められて男性は遊廓に通っていたのだ。

麻賀多神社の前にも確かに現在も飲食店がある。宮小路と呼ばれていた通りだったが、とても怪しい建物が3軒。しかし、つい最近取り壊しが始まったようだ。

裏新町から宮小路。文化財の建物から刀の博物館 -佐倉⑼

裏新町から宮小路。文化財の建物から刀の博物館 -佐倉⑼

連れ込み旅館の跡地については次に探索する。

「ああいう街は必要なのよ。だからはけ口が無くなって犯罪に走る人も増えてしまったのでは。」今回のお話で最も興味深く、的を得ているなと思った意見。何度も言うが私と60歳以上も離れている女性である。私も遊廓や赤線が全否定されるべきではないと思っているからだ。ここでこれ以上の意見は控えるが、とても貴重なお話を伺えた。また近いうちに再訪しよう。

妙経寺

次は佐倉遊廓に隣接していた妙経寺で私は衝撃的な資料と出会う。

以前、佐倉遊廓について『佐倉お茶の間風土記』という文献を読んでいた時のこと。写真とともに次のような説明書きがあった。

成田楼みねが妙経寺に納めたしゃか像ーM.33.4.8

写真が不鮮明でよくわからなかったので、妙経寺の方に直接尋ねることにしたのだ。

だが、妙経寺の方も最初はそういった像は無い!と否定していた。

が、思い出すように「もしかしたら毎年花祭りで使う像かもしれない」と奥から持ってきてくださったのが成田楼みねが納めた像であった。

しゃか像

しっかりと裏には「佐倉新地成田樓みね 妙経時納 明治三十三年四月八日」とある。みねさんが手彫りしたのだろうか。とても感動する。

しっかりと刻まれている

木製の台も手作り感がある。全長は15センチほど。毎年4月に行われる花祭りの際に使用されるものだという。

木製の台座

妙経寺の方も、まさかこれが遊廓に関係するものであるとは気づかなかったらしい。

明治のしゃか像…

明治33年に奉納されたしゃか像。成田楼みねさんが確かにここにいたことを示している。妙経寺には他にも成田楼の石碑があるので、関係が深かったのかもしれない。

神々しい…

何も残っていないと言われた佐倉遊廓。私たちが気づいていなかっただけだった。

文献から見る妓楼

さらに妙経寺の方が、寺で保存されている過去の記録を持ってきてくださった。

明治26年から大正10年まで。今回は全盛期だったであろう時代を調べることにした。すると、次々と佐倉遊廓に関する文字を発見。すべてが仮名文字であるため、見逃している部分はあるかもしれないが少なくとも8人の名前を見つけた。個人情報もあるので簡略化してまとめる。

①明治29年、佐倉町内弥勒町百三十番地
②明治32年、成田楼娼妓
③明治32年、新地弥冨楼百に十五番地
④明治34年、新地廓内そばや弥勒町百三十番地、志村文治
⑤明治34年、弥勒町成田楼
⑥明治37年、弥勒町百三十番地
⑦新地荒川楼内

ほとんどの方が生まれたばかりの子を亡くしているようで、その供養を妙経寺の方でしていたのであろう。大正以後は住所が書いていないので不明だが、もしかしたら多かったのかもしれない。

百三十番地が志村楼であることが分かった。現在の百三十番地と重ねると場所が違うようにも思うが、もしかしたら番地が変わったのかもしれない。その辺については追加で調査する。

また、廓内のそばやが気になった。志村楼の志村文治さんとの関係性も気になる。

墓地内の遊廓関係?

妙経寺の墓地に、佐倉遊廓の妓楼の境界線が残っているなどと他の方の記事で聞いたので探索に。確かに墓地内に境界線のような石が並んでいる…

手前から奥へ

しかし、これは足場が悪い場所のために奥へ進むために置いた石ではないかと、妙経寺の方は話していた。墓地の中にはこうした石が多数あり、佐倉遊廓の妓楼の境界線の可能性は低いかもしれない。

果たして境界線?

また、こちらの稲荷の石碑も、遊廓関係ではないかと書いてある記事があったが、よくよく見ると、

果たして?

左側の石碑は江戸時代のもの。寛政とある。そして右側も、同じ年代だと思う。妙経寺の方によると、この場所は成田街道沿いにも邸宅があった幸田さんの墓地だった場所。

江戸時代

最近移したそうだが、成田街道沿いで繁盛した幸田さんの稲荷だったことも考えられる。遊廓との関係性は低い。

石もとても古い

そして空き地にある馬頭観音の石碑も、周辺の町の方が合同で制作したものだと思われる。残っているものすべてが遊廓関係であると思いこむのはよくない…

馬頭観音
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連れ込み旅館

最後に、佐倉新町おはやし館の女性が言っていた連れ込み旅館の情報をもとに、現在の旅館を探索。

・佐倉新町おはやし館の北側の道、寺の奥の道の右側に古い旅館があるが、足元が悪い
・佐倉新町おはやし館の北側、現在はホテルになっている旅館がある

旅館①

早速、新町にある成田街道から北側の道へ。

奥へ進む

一見すると住宅街だが、大きな商店が右手に見えるだけでなく、佐倉城下町の街灯もこの道に続いていることから、賑わっていた通りであることがわかった。

商店や街灯

テーオー印刷のシャッターがとても鮮やかで素敵。

テーオー印刷

さらにスナック殿という大人なお店も出現。もしや飲食店が連なっていたのかも。

スナック殿

こんな場所に旅館があるはずがないと思っていたが、確かにある。サクラプラザホテル。

サクラプラザホテル

しかし、コロナウイルスの影響のため当分の間閉鎖するとのこと。あれま…

閉鎖中
窓全開

窓は全開になっていた。客室は多そうだが、背景は断崖絶壁。なぜこの場所にあるのか気になる。

駐車場もある

赤いネオン看板もどこか寂しげ。

ネオン看板
フロント

カップルのホテルかと思ったら、ビジネスホテルだという。地元の方は連れ込み旅館だと思っているらしいけど、果たしてここに宿泊する方はいるのだろうか。

ビジネスホテル

旅館②

おはやし館の北側の道を進むと、お寺が見えてきた。

勝全寺

とても古そうな稲荷神社。

稲荷神社も
狐の顔が独特

寺から左手へ進んでみる。まさかこの倉村の中に旅館が?

寺の左手
斜面が急

さすがに斜面が急だけど、足場が悪いと聞いたしなあ。でもマムシが出るのはちょっと違う気が。

マムシ…

寺の右にも細い道がある。

右手

さらに奥は民家のようだった。

さらに奥

左折する道は下り坂。と思ったら暗い道に電灯がついているのが気になった。でも暗すぎて奥に進む勇気が出ず…

暗い道に電灯が

帰宅してから住宅地図を見ると…

昭和48年の住宅地図

まさかの暗い道の先に「三京旅館」。え、あんな道に旅館って…本当に連れ込みだわ。地元の方しか知らない貴重なお話を伺えてよかった。

そして先ほどのサクラプラザホテルの場所には「民宿王将」「寿々の家」などといった旅館らしき建物。連れ込み旅館からビジネスホテルに転換したのかもしれない。また次回詳しく探索しないと…

 

佐倉遊廓の調査をしていて思ったことは、人間の記憶を頼りにすることが一番であるということ。ネットの記事では推測が飛び交っており、確かな証拠がないまま、石碑などが遊廓関係ではないかと表現されている。何も知らない方からすると、信じるしかないのだが…

地元の方と積極的なコミュニケーションを取ることの重要性をひしひしと感じる。これからも文献だけでなく、聞き取り調査を通して真実を追い求めたい。

 

(訪問日:2020年10月)