佐倉の遊廓(弥勒新地)にて聞き取り調査と仮説。現在の佐倉遊廓跡地は… -佐倉⑶

佐倉の遊廓(弥勒新地)にて聞き取り調査と仮説。現在の佐倉遊廓跡地は… -佐倉⑶

弥勒新地(みろくしんち)」は、千葉県佐倉市にかつて存在した遊廓。佐倉に遊廓が存在したこと、あまりその歴史は知られていないが、今回、聞き取り調査を通して佐倉の遊廓についての情報を得たのでここに記しておこうと思う。

佐倉の遊郭については、まだまだ分かっていないことも多い。もし、何か知っている方がいたら教えてください。

 

佐倉の遊廓(弥勒新地)について

全国遊廓案内』(昭和5年、1930年発行)にて佐倉町遊廓の紹介がある。

佐倉町遊廓 は千葉懸佐倉町にある。

此處は堀田氏の城下で、今は兵營となつて居る。現在は妓樓一軒娼妓約八人位居り、店は陰店を張つて居る重に軍人が相手である。御定りは三圓で酒肴付で一泊出来る。…

『公娼と私娼』の貸座敷指定地調(昭和5年、1930年発行)

印旛郡佐倉町
営業者数:1
娼妓数:4
妾人数:3
遊興人員:3,267
遊興費:6,350

同じ千葉県の松戸にあった平潟遊郭が、営業者数12軒、船橋が19軒とあるのに対し、佐倉の遊廓は1軒のみ。最後に残った妓楼だろう。

 

妓楼について

若葉楼(鳥瞰図)

佐倉の遊廓について、その存在を初めて知ったのは昭和3年に松井天山が描いた「千葉県佐倉町鳥瞰図」である。

昭和3年、鳥瞰図

現在も営業を続けている三谷綿店と、妙経寺の間に、遊廓「若葉楼」の姿が描かれている。若葉楼が描かれているのは、弥勒町通りから入った奥。遊廓に入る門柱の存在も確認できる。

しかし、遊廓は若葉楼一軒のみなのだろうか?疑問を感じる。

志村楼

違う文献で得た資料には「志村楼志村文治」の妓楼の建物が載っている。明治7年(1874年)佐倉城の跡に歩兵第二連隊が置かれたのち、明治16年2月に佐倉の弥勒町に遊廓ができたとあるが、佐倉の遊廓の成り立ちについては不明な点が多い。

「弥勒の新地」と呼ばれた遊廓では、弥富楼・若葉楼・成田楼・日暮楼・東楼・志村楼などがあり、各店、遠国出身の娼妓10名ほどを抱えていたという。そして大正時代の玉だいは50銭ないし一円50銭。

しかし、大正12年(1923年)に起きた関東大震災の頃から子弟教育への反省が強まり、廃業あるいは移住するものが相次ぎ、志村楼は千葉市(吾妻町)でそば屋に転業したというのが定説だ。

そうなると、昭和3年に描かれた佐倉の遊郭は、全盛期を過ぎたものであるために、若葉楼しか描かれていないのかもしれない。そして、その後昭和初期に遊廓は完全に姿を消したものと思われる。また、千葉市吾妻町というのは花街として知られる蓮池のあたりだろうか?これについても追加で調べていきたい。

妙経寺の方に聞き取り調査

佐倉の遊廓の隣に現在も残っている妙経寺の方に、ダメ元でお話を伺ってみたところ、遊廓についての情報を得ることができた。

・成田参詣の殿方が寄った
・戦時中、連隊の方が利用した
・総2階の建物、大きい
・門は記憶にない
・建物が無くなったのは50年くらい前
・行ってはいけないと言われつつ、行って遊んでいた記憶がある
・建物の中は1,2回入ったものの、ボロボロ
・ずっと空き家
・歴博の方が遊廓について調べている
・土地の持ち主が幸田薬局(先祖が所有)
・わか…楼(覚えていないらしい)
・成田楼のお墓がある
・成田楼は無かった(成田街道から由来?)
・小さい頃に、近所のおばあさん(明治初期生まれくらい?)が遊廓で働いている方のお世話をしていた
・成田楼の石碑は供養の石碑?
・建物は成田楼ではないと周りの人も言うらしい

・裏からお寺に登ってこれた(昔は山ではなかった)

お話を伺った女性によると、50年ほど前まで幸田薬局の隣の敷地に、2階建ての建物が残っていたという。妓楼名を覚えていないようだが、鳥瞰図にも載っていた最後の妓楼「若葉楼」かもしれない。

そして、土地を所有しているのが幸田薬局の方とわかった。もしかしたら、その繋がりでお話を伺ってみたらわかるかもしれない。また今度詳しくお話を伺いにいく予定。

 

佐倉の遊郭、現在

それでは、佐倉の遊廓跡地を探索しよう。

佐倉の遊廓について、様々情報が飛び交っており、最初は私もそういった情報を参考に探索した。が、どうも辻褄が合わないことが多く感じていたが、今回お話を伺うことで少し解決した。

弥勒町通り、成田街道の途中にある妙経寺へ。赤い山門が目立つ。

妙経寺

成田楼

門を抜け、すぐ右手にある石碑の中に「成田楼」と書かれたものがあるという。皆さんは見つけられますか?

成田楼はどこでしょう?

最近整理したため、場所がわからないという状況だったため、一緒に探すことに。

どこだろう?

あった、「成田楼」。成田楼で働いていた人に関係するものと思われる。

成田楼

楼がちゃんと旧字体の樓。風化せずによく残っていた…成田楼が存在したことを示す貴重な資料である。

樓に注目

妓楼の場所へ

50年前まで建物が存在していたという場所へ案内していただいた。成田街道に面した、大きな木の左側。佐倉の木が、右手にかかるようにして、遊廓の入り口の門があったらしい。

手前が成田街道

現在、空き地になっている場所に大きな2階建ての建物があったらしい。後ろの敷地まで建物があったとか?

空き地に

昭和42年の住宅地図の時点で空き地になっているので、それ以前に取り壊されたことになる。

若葉楼があったらしいが…?

かつて門があったあたりには痕跡もなく。その先へ進む。

かつての門のあたり

駐車場と妓楼

奥は、右手が墓、左手が駐車場に。駐車場に1軒、墓の方に2軒の妓楼があったらしい。墓の方面に、現在も残る建物の痕跡?があるらしい。次回探す。

駐車場に

真ん中に、馬頭観音の石碑がある。昔から変わらない立ち位置なのだろう。

馬頭観音

横の文字はちょっと読みづらい。

横は読みづらい

残念ながら、遊廓の名残を残す建物は全くない。更地である。しかし、ここに妓楼があったというのであれば、かなり広い敷地であったことはわかった。

 

唯一の資料:歴博

佐倉市に残る遊廓の唯一?の証拠が、国立歴史民俗博物館に展示されている。

歴博の展示

佐倉遊廓が作成した凱旋歓迎のハンカチ。歩兵第一連隊に向けた佐倉遊廓のハンカチ、よく保存されていたな…

佐倉遊廓が作成した凱旋歓迎のハンカチ

歴博で遊廓について尋ねたところ、今年の10月6日から「性の日本史」という企画展を開催するらしく、ちょうど良いタイミング!

コロナの影響で開催未定だったが、無事に開催するとのこと。とても楽しみだ。

歴博の記事↓

歴博で大正・昭和の世界観に浸ってきた!国立歴史民俗博物館 -佐倉⑴

佐倉遊廓まとめ

ここまで得た情報で、佐倉遊廓についてまとめる。

・明治7年に歩兵連隊が設置される。
・明治16年~20年くらいに佐倉遊廓が開業。
(弥富楼・若葉楼・成田楼・日暮楼・東楼・志村楼、各店に10人ほど)

・大正、関東大震災のあたりから縮小。移転するお店も。

・昭和3年の鳥瞰図では若葉楼のみ。
・昭和5年、妓楼1軒

・昭和45年頃まで若葉楼らしき建物が残る。

若葉楼の建物の位置について、鳥瞰図では奥にあったはずと思う方もいるかもしれないが、最後の1店舗となったときに、成田街道に面した建物に移転したのではないかという仮説が浮かび上がる。そしてそれが若葉楼として伝えられ、その時用済みになった大門は無くなっていたのではないか…

下の画像は、伺った話をもとに、現在の写真の上から最後まで残っていたという建物を描いたもの。建築について知識がないため、間違っている点もあると思うが、大目に見てほしい。

若葉楼?

追記:佐倉遊廓について

『佐倉お茶の間風土記』にて佐倉遊廓の情報が載っていたので追記する。

佐倉遊廓の地図

下の写真は、新地遊廓附近略図を参考に、私が描いたイラストである。

佐倉遊廓手描き地図

妓楼の配置などは大体わかったが、これがいつの年代を表しているのかはわからない。

右奥にある荒川楼は、大正のころに若葉楼と変わり最後まで営業していたお店らしく、若葉楼のことを覚えている方は多い。また、弥冨楼は大正12年の大震災前に千葉新地へ移転し「弥冨本店」となったという。千葉新地の妓楼についてはまだわからないことが多いので、とても良い情報を得た。

【千葉新地遊廓】千葉新地と呼ばれた千葉の遊郭、新町~登戸周辺の妖艶な姿を聞き取り調査

日暮楼は7人の妓楼を抱えていたものの、大震災以後子弟の教育上のことを考慮して廃業。日暮楼の前にあった大きな桜の木が遊客を楽しませたそうだ。志村楼は大震災以後廃業、千葉吾妻町でそば屋を開業したらしい。千葉の吾妻町というと、もしかして花街の蓮池とも近いのではないか?まさか千葉の蓮池、千葉新地とリンクする部分が出てくるとは…これは深堀したい。

【蓮池通り】かつての一大花街「蓮池」の過去と現在、そして不思議な料亭 -千葉⑵

地図にある台屋は、遊客の注文によって料理を提供する仕出し屋のようなものだったそうだ。弥勒町通りの近くにある川端屋は遊廓の冷やかし客などが射的や玉ころがしで遊んだ店で小間物なども扱っていたそうだ。

妙見様の縁日

縁日についての様子が描かれた貴重な情報を見つけたので引用する。

遊廓というところにはどこでも縁日のような賑わう日が年に一度や二度はあったものだが、この新地もは8月21日の妙見社の縁日には宵の内から夜半過ぎまで大変な賑わいであった。妙見社は千葉氏の祟神である。久保町より本町に通ずる街道左側に今も小祠があるが、これが本町の妙見社である。この妙見社の縁日には勿論、遊廓の入り口から大門までの間は、両側に夜店が並んで前へも出られないほどの人出で、大門の中も遊び客や遊廓の姿を一度は見ようとする近郷の女たちもかなり入って賑わったものだ。

現在も本町の妙見社が祠として残っているのだろうか…今度探したいと思う。

また、佐倉遊廓でも何人かの女性が若くして亡くなった悲惨な話が伝えられているらしく、日暮楼で病に倒れた抱え娼妓が楼主の暖かい思いやりでその菩提寺に手厚く葬られたという話もある。

遊廓襲撃事件

遊廓襲撃事件というのも伝えられている。

兵隊が50名ばかり将校の指揮で白昼遊廓を襲撃して成田楼、志村楼、荒川楼の器具、建具類を破壊して大騒ぎしたことがある。原因は遊びに来た兵士を娼婦が袋叩きにしたことによるものだそうだが、乱暴な世の中であった。明治24年の出来事であったという。

兵隊50名が遊廓を襲撃するというのはかなり大事件ではないか…あまり伝えられていないが、軍隊と遊廓の関係性はどのようなものだったのか気になる。

 

佐倉遊廓について正確な情報は収集している最中であるが、自分なりの仮説を記しておこう。近々、追加で調査を進めるつもりなのでお楽しみに~

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(訪問日:2020年7月)