裏新町に残る明治創業の割烹「玉家」と廃墟旅館「花家」-佐倉⑻

千葉県の佐倉市。江戸時代の武家屋敷が残る佐倉城下町を探索するシリーズも、終盤。今回は、城下町として栄えていた新町通り、ではなく、その一本裏道にある裏新町の方面へ進む。
裏新町も、表通りとは違った雰囲気で、歴史が詰まった道。ぜひ合わせて探索して欲しい。
裏新町について
裏新町について、昭和3年の松井天山が描いた千葉県佐倉町鳥瞰図から見てみよう。大量館という映画館、佐倉町役場などがあり賑わっていた新町通の一本裏道。

湯浅質店の道を入っていく通りだ。佐倉警察署などがあるのがわかる。現在はどのような場所になっているのだろうか。探索してみよう。
裏新町へ
角の湯浅質店はとっくにない。現在は閑静な住宅街のように見える。

住宅街の途中、一軒家ほどの空き地に何やら不思議な空間を見つけた。「どうぞのいす」と書かれたうさぎのイラスト。

「大木さん(欅)の木陰が涼しいお休み処です。(どうぞのいす)」と書かれている。大木を擬人化しているのがユーモアがあって面白い。確かに、一本だけ目立つ大きな木が残っている。

「ここは昔(江戸時代)同心町と云って隣には牢獄が有り、十手を持った侍が住む長屋が並んでいた処です。(現在は裏新町宇田組)」
ここは特に目立つ場所でもないが、プチ観光名所として休めるように整備されているようだ。

丁寧に佐倉城下町の昔の地図や案内が載っている。


江戸時代、この辺りに牢獄が存在していたとは思えないくらい現在は住宅街が広がっている。しかし、こうした一角が観光用に整備されていることで私たちはその存在を知ることができるため、とても良い取り組みだと思った。

割烹玉家
別館?
住宅街の中には、ポツポツと古い建物が残っていたりする。と思っていたら、新しい建物に見せかけて古い建物が残っている場所があった。手前は整骨院の駐車場。

特に、2階部分の手摺や襖に高級感が漂っている…これはただの建物ではなさそうだ。地図で調べたところ、隣で営業している玉家の敷地とわかった。現在は使われていないように見える。

玉家は現在も営業を続けている老舗。創業は明治18年(1885年)!
昭和3年の松井天山が描いた鳥瞰図にも「御料理玉家」とバッチリ載っている。鰻が有名らしく、口コミの評価もとても高い。
しかし、土日の11時30分~14時30分のの営業のみ。訪れる際は、時間に気を付けよう。

通りには、玉家を囲むように白い壁が並び、建物もいくつか建っている。広い敷地がその歴史を伝えている。


玉家は千葉県千葉市に千葉店があり、そのお店がメインで平日も営業しているらしい。といっても雰囲気は佐倉の方が最高です。
玉家の坂
割烹玉屋の入り口は、坂を下った場所にある。玉家の坂として、グーグルマップでは観光名所になっているらしい。

風情を感じる風景が広がっていた。表の新町通りのすぐ裏手に、こんなにも良い雰囲気の場所が残っていたとは感激…

この日は営業時間外だったため、入り口は閉じている。青いスペイン瓦の屋根が目印。

玉家について調べていると、建物の内部の細工も素晴らしく、また敷地内には池などもあり、一度訪れたいと思った。しかも、鰻も成田山新勝寺よりも手ごろな値段で、とても美味しいとのこと。高い塀の奥には、文化財級の建物が広がっている。

お酒が並ぶ入り口
玉家の入り口の横には、酒屋らしき佇まいの入り口があった。ここも玉家の敷地。

さすが、老舗。細部の窓や彫刻が素晴らしい。2階部分には、魚のデザインも。川魚を扱う割烹だからだろう。

この坂から眺める建物は、格別。いつか鰻を食べたい…

さらに建物を横から眺めると、立派な窓が並んでいる。今は無き、船橋市の割烹旅館玉川旅禍を彷彿とさせる雰囲気。

こんなにも面積のある窓を維持するのは大変だろう…台風の影響など受けずに残ってほしい建物だ。

花家旅館
玉家ばかりに目が行ってしまっていたが、反対側の崖の上にも不思議な建物が見えた。

崖の上に、木製の手摺が少し残っており、建物は廃墟のようだ。がけ崩れを起こしており、近づくのは危険。
しかし、その佇まいから歴史を感じるのは気のせいでしょうか…?

昭和3年の松井天山が描いた鳥瞰図では、「御料理花家」とある。玉屋と同じく割烹料理屋というところだろうか?その後、昭和48年の住宅地図を見ると「花家旅館」となっていた。
旅館としてどのような営業をしていたのか、また建物はどんな様子なのか、全く情報が無くわからないのが残念。

花家旅館の入り口と思われる場所へ回ってみたが、私有地につき立ち入り禁止の看板がある。たぶん立ち入る人が多いのだろう。奥に赤い鳥居があるのだが、それは花家旅館の頃からあるものだ。



創業は明治中ごろということがわかった。鳥瞰図で見ると隣にある料理屋の「藤屋」が盛況だったころに、独立して花家を開いた人がいるという。

こんなにも立派な建物が2軒。しかも、隣には「旅館胡竹」という旅館もあったらしい。元々、市役所や警察署など官公庁の建物が近かったため、利用する方も多かったのであろう。廃墟になってしまっているのがもったいない。
地元の方であればもしかしたら詳しいことを知っているかもしれない。とりあえず玉家の鰻を食べにいくことが今後の目標…どうか最後の一軒だけは残っていて欲しい。
追記:花家について
現在は地元の方ではなく、東京の方が土地を所有しているとのこと。そのため、地元の方も現在の状況はわからないらしい。
花家旅館がある裏新町は、佐倉城に存在した軍隊の兵士が佐倉遊廓に向かうために利用していた道でもあるらしく、花家旅館でも宿泊したり、忘年会を開催していたそうだ。10数年前までは地元の方も大人数の集まりで利用していたようで、木造2階建ての建物の様子を覚えている方がいた。写真などが残っているといいなと思うのだけれど…
1949年発行『全国市町村便覧』(全国教育図書)にて佐倉町の旅館が「全国旅館等級別一覧表」に載っている。
4 花家
4 千登世
4 兼坂旅館
4 岩井旅館
4 泉屋
佐倉町の中では最も有名な旅館だったのかもしれない。佐倉町にはランク4しかないが、花家の規模でも4なのは驚き。(1が最高ランク)
兼坂旅館や岩井旅館はJR佐倉駅前にあった旅館。現在はビジネスホテル兼坂になっている。
兼坂旅館→
武家屋敷を抜け、JR佐倉駅まで。駅周辺の老舗旅館、現在は「ビジネスホテル兼坂」に -佐倉⑷
佐倉遊廓については↓
佐倉遊廓の真相を求めて。貴重な資料と連れ込み旅館らしい跡地 -佐倉遊廓⑵
(訪問日:2020年7月)
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二十年ほど前になりますが、何度か玉家に鰻を食べに行ったことがあります。当時は今よりも手ごろな値段でしたので、大網からわざわざ車で食べに行ったものです。
青瓦の門の扉の上あたりに、扇形をしたお品書きが掲げられていたような?(記憶があいまいですみません)それがまた、老舗料理屋の風格を醸し出していました。
玄関入って左側に「一人用」個室があり、当方はもっぱらそちらに通されていました。中央に火鉢兼用(だったような)テーブル、壁には地元佐倉市出身の長嶋茂雄のサインがありました。テレビも置いてあり、鰻が焼きあがるまでテレビを見ながら待つことができました。
後年、連れ合いと来店したときは、立派な床の間付きの座敷に通されました。肝心の鰻重の味は申し分ありません。建物の歴史と相まって味もひとしおでした。なお、東金市にも系列のお店があります。こちらは国道沿いで車が止めやすい、新しい店です。
大網からも訪問されていたのですね!コメントを読んでさらに行きたい気持ちが高まりました…