肴町~弥勒町。かつての繁華街、商家が並ぶ通りの現在。 -佐倉⑺
佐倉の城下町、新町通りを探索。今回はその続きで、新町通りの角を曲がって新町から弥勒町へ。弥勒町にはかつて遊廓が存在した場所も。その場所を目指して昔の人はどんな気持ちで歩いたのだろうか。
昭和の地図を片手に想像する。
↓現在の地図
角を曲がって
新町通りは、かつて市役所や郵便局、映画館などが並び、中心街だった通り。そして、大量館という映画館が新道通りの東端、角を曲がる場所にあった。
松井天山が昭和3年に描いた鳥瞰図には載っているが、昭和42年の住宅地図では「ブラザーミシン」になっている。その間に建物も取り壊されたのだろう。現在、その角は広い駐車場になっている。おかやま食堂の駐車場のようだ。
かつて「肴町」と呼ばれていた南北に伸びる通り。肴町はその名の通り、魚屋が多い商人町だったらしい。
また、場所がはっきりしていないのだが、大正時代には芸者屋がこのあたりにあったらしい。
道を進もう。その途中で病院を発見した。
外観は民家のように見えるが、内科・小児科の病院らしい。昭和42年の住宅地図でも載っているので、かなり古い病院だと思われる。
調べてみると、昭和27年(1952年)に岡谷昇さんという方が医院を開業したという。この方は戦前から日本の委任統治領であったヤップ島で開業していたが、戦後引き上げて移ってきたらしい。
岡谷医院以前は、「旅館かいば屋」という旅館だったそうだ。
同じ並びに、「肴町山車飾」が飾ってある建物がある。江戸時代後期に制作されたものらしいが、間近で見ることができるのはとても貴重だ。
この建物の道路を挟んだ反対側あたりに、銭湯があったらしい。昭和42年の住宅地図では「さくら湯」となっている。しかし、昭和3年の鳥瞰図では「東京湯」となっているので、店名が変わったようだ。
現在、その場所はどうなっているかというと、2軒のシャッターが降りた建物がある。さくら湯の隣にさくら寿司という寿司屋があったらしいが、その2つの建物だろうか。探索をしたときも、2つの建物に違和感を感じていたが、もしかしたら銭湯として最近まで使われていたのかもしれない。
角にある赤い建物
さくら湯の隣、角にある建物は木造2階建ての立派な建物。昭和3年の鳥瞰図では「角屋商店」。建物の形も現在とあまり変わらず。
角屋佐兵衛の旧家であり、慶長、元和のころに商売を始めたとされているが、そうだとしたら400年近く前になる。代々荒物屋だったそうだが、大正になってからは桐箪笥や花嫁道具一式、雨傘なども扱っていたという。
しかし、2013年に見た時と建物の様子が違う。台風の影響なのか、瓦は落ち、窓は木で覆われていた。ブルーシートに覆われた屋根は痛々しい。
昭和42年の住宅地図では、「佐倉寿し」と「̚カド美容室」。昭和49年になると「カド美容室 サウナカド」と書かれている。さくら寿司と美容室を営業していたのか…
と思っていたのだが、魚屋「堺屋」が角屋の隣にあったそうだ。魚屋として常時30人ほどが働く賑わいだったが、昭和39年に10代目が亡くなってから改築し、寿司屋を始めたらしい。
そして魚屋の傍ら銭湯も営業しており、大正10年頃までは魚屋が経営。その後は何度か経営者が変わっている。
現在、建物自体がちょっと危ない雰囲気を醸し出しているので廃墟状態かなり広い建物なので勿体ない気がする。
2013年の写真
2013年の写真を載せておこう。
よく見てほしいのだが、角の正面にある2階の窓は格子窓ともいうのだろうか、かなり高額な窓だと思う。
瓦も被害がなく、とても綺麗な状態。昨年の秋に千葉県を襲った台風はここまで被害があったとは。それにしても変わりように驚く。
弥勒町通り
裁判所入り口のバス停が見えてきた。かつてこの辺りは「弥勒町通り(みろく)」と呼ばれ、大きな商家が連なる活気溢れる通りだったそうだ。
明治初期、幕府の馬牧であった富里町・八街街方面に多くの人達が入植し、広大な農地が開墾されて農業が軌道に乗ったことで、弥勒町の商人との取引きが盛んになったという。
昭和3年の鳥瞰図を見ると、平山旅館が教院寺の前にあったのがわかる。
ランチタイムは過ぎてしまったが、蕎麦屋「川瀬屋」というお店があった。昭和3年、松井天山が描いた鳥瞰図にも「生そば川瀬庵」として載っている。
なんと、創業は江戸時代の天保元年。2020年で190年の歴史があるという。営業している時間に合わせて、今度訪れたい。
営業時間:11時~14時、17時~19時30分(平日)
11時~15時、17時~19時30分(土日)
定休日:月曜日
「ふじさき京染店」は新しい建物。
太陽のマークがかすかに見える「三菱灯油」の壁。昭和42年の住宅地図で「大規商店」と確認できる。
その隣には、「旅館伊勢」が昭和42年の住宅地図には書いてある。昭和3年の鳥瞰図でも「伊勢勘旅館」とあるので、江戸時代から残っていた旅館なのかもしれない。裏手には「八幡宮」があり、参道のようになっていた。現在は、至って普通の住宅街。
気になる名もなき建物たち
名もなき建物が、密かに眠っている。
下の建物は、特に気になった。病院建築かな?とも思ったが、どうやら違うらしい。
昭和48年の住宅地図を見ると、「小野事務所」とある。事務所なのかとちょっと期待外れをくらった。
事務所の正面にある喫茶店のような建物は、昭和48年の住宅地図で「佐倉愛国社 雪印牛乳」とある。
愛国社?というのが気になるが、牛乳を扱っていたというのが、洋風なかわいらしい建物の雰囲気に納得。
愛国社ってなんだろう?昭和初期の右翼団体という意味もあるらしいが…
数屋酒店
「数屋酒店」。昭和3年の趙和では「數屋商店」として載っている。この建物の西側に伸びる道を北に行くと、かつて佐倉で最も大きかった「松林寺」。そして県立佐倉中学校への大きな道が繋がっていた。
松林寺には貴重な文化財もあるので、次回探索しよう。建物は「石渡家住宅」として佐倉市登録有形文化財に指定されている。
幸田薬局
「幸田薬局」は「幸田商店」の名残だろうか。昭和3年の鳥瞰図では「幸田薬局」とある。明治3年の創業。
幸田薬局は、京成佐倉駅前にも支店があり、こちらは幸田薬局弥勒町本店。横から見ると、蔵の形をしている建物。
シャッターには鮮やかなイラストが描かれていた。
幸田邸と子安神社
鳥瞰図を見ていて発見したのだが、幸田薬局から南へ進む住宅街の奥に、「幸田邸」なる土地がある。昭和3年に描かれているが、昭和42年の住宅地図では無くなっているので、それ以前に取り壊されたものと思われるが、幸田薬局と関係があると思う。
しかも、その周辺は「参道」と大きく書かれており、「仲見世」まである。参道は「子安神社」まで続き、堀田邸の方面から参拝に来る人を迎えていたものと思われる。
現在、子安神社は建物の間に挟まれてひっそりとしているが、仲見世まで存在していたとは…
次回、ここについての歴史も調査したい。
再び弥勒町
かつて賑わっていたという通りも、現在は空き地が目立つ。
特に情報が見つけられなかった下の建物。
その隣、現在は介護施設になっている建物には「土井酒店」があったらしい。看板も残っている。
懐かしい昭和の風景が、こうしてみることができるのもあと少しかもしれない。時代は令和だし…
コンビニみたいな建物の隣にも古い建物。こちらも情報がわからず。
下の建物は、三ツ谷家の隣にある平屋。欄間やランプの跡が残っていた。
同じ並びには、湊屋商店や、江戸や食堂、湊屋種苗店などが並んでいたが、今は無い。
よく玄関の入り口で見かけるレトロなランプの跡。
三谷家住宅
佐倉を探索する方は、ここまでわざわざ足を延ばす人も多いという「三ツ谷家住宅」。
三谷家住宅は佐倉市登録有形文化財に平成13年に登録されている。主屋、袖蔵、座敷屋が残っている。
明治17年に建てられたという袖蔵。主屋も同じくらいのもの。近代の佐倉の商家をよく表す建物として価値が伝えられている。
昭和3年の鳥瞰図では「三谷呉服店」として営業していたことがわかる。内部は非公開であるが、ちょっと足を延ばして見学して欲しい建物。
その向かい側には「三谷綿店」。昭和3年の鳥瞰図でも同じ店名で載っている老舗。店頭には創業130周年とある。
実は、このあたりに佐倉の遊郭が存在していた。昭和3年の鳥瞰図にも載っている。
遊廓時代から現在も営業を続けている三谷綿店。
次はその遊廓についての聞き取り調査を記事にする。まだまだ調査は尽きない…
佐倉の遊廓(弥勒新地)にて聞き取り調査と仮説。現在の佐倉遊廓跡地は… -佐倉⑶
(訪問日:2020年7月)
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