四街道駅近くの近代建築「木村家住宅(旧北白川宮邸)」。明治の洋館 -四街道⑶

四街道駅近くの近代建築「木村家住宅(旧北白川宮邸)」。明治の洋館 -四街道⑶

四街道駅近くにも近代建築があります。木造二階建て、下見板張りの洋館が「木村家住宅(旧北白川宮邸)」。

明治時代の洋館は、皇族の北白川宮殿下の住まいにもなったそうで、四街道の歴史が垣間見える建物でした。

木村邸(旧北白川宮邸)

四街道市四街道2-12-44。総武本線四街道駅南口から南西の住宅街へ徒歩5分ほど。本当にこんな場所に近代建築があるのか、と疑うほどの普通の住宅街…

四街道駅から歩いて

そして、こちらが今回ご紹介する近代建築!周りは塀と木に囲まれているので建物の全体は良く見えないし、迷惑がかからないようにすぐに撤退…

ネットで検索すると敷地内を見学した方の記事もあるので大変ありがたいです!→明治末期のフランス風木造住宅、旧北白川宮邸(木村邸)

木村邸(旧北白川宮邸)

「千葉県の近代産業遺跡」によると、明治39年築。国登録有形文化財に登録されている。

明治39年に陸軍少佐 牧野豊がフランス駐在中に住んだ住宅の設計図を持ち帰り、技師をフランスから招き建設したと伝えられています。 その後、大正9年から11年にかけ、皇族の北白川宮殿下の住まいになりました。
住んだのは、陸軍野戦重砲兵第四連隊の大隊長であった北白川宮能久親王の第三王子 成久王 と思われますが、決定的な証拠は今のところ見つかりません。

フランス駐在経験のある陸軍将校がフランス技師を招いて建築した洋館。そして、その建物に住んだのは陸軍野戦重砲兵第四連隊の大隊長であった北白川宮能久親王の第三王子…

明治39年築の洋館

そう、四街道は千葉と同様に軍都の歴史があり、さらにフランスとの交流が盛んだったそうです。かつて南口の周辺には同じような将校たちの住まいがあったそうで、最後の名残が木村家住宅なのでしょうか。

だから、四街道駅南口からまっすぐに伸びる通りが「おやしき通り」と呼ばれているのかな?

まだ詳しく調べられていないけど、四街道の「野戦重砲兵第四連隊」の現存する戦争遺跡巡りも合わせて→四街道「野戦重砲兵第四連隊」現存する戦争遺跡を辿って -四街道⑵

四街道とフランスと

建築様式については千葉県のホームページにて。

明治39年(1906)の建築で、木造2階建地下室付、瓦葺、外壁は下見板張。内部は、正方形の平面を縦横に区画し、中央に階段室を設けた間取りとなっており、1階2階とも、ここから各部屋に入ることができるよう工夫されている。十字型に交差させた大きな切妻屋根と、広い妻壁に鎧戸付きの窓を構えているなど、意匠にもフランス様式の特徴がみられる。

リフォームされているので原型とは変わっているという。さらに奥には小さなサンルームが。

綺麗な洋館

普段は個人宅なので一般公開はされていません。

道路からはほとんど見えません
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四街道駅~三才

その後は、東側の商店街を目指して歩くため四街道駅方面へ戻って県道66号線へ。

四街道駅南口

駅前にあった看板には「みどりの湯都賀店」が。こちらは2021年10月をもって、以前紹介した三山店とともに閉店している。

みどりの湯都賀店

四街道駅南口は商店街などは見当たらず、新興住宅街といった雰囲気。

県道66号線

県道66号線沿いに見えたバス停。あれ、どこかで見たことがあるな~と思って近づいて見ると…

見覚えがあるバス停

千葉内陸バス「三才」。そういえばこれ!歩いた日の直前に見たテレビ番組「月曜から夜更かし」に登場していたので覚えていたのだった。三才ってバス停、一度見たら忘れない…

バス停三才

バス会社の人も地名の由来が分からないと話していたが、いつも愛読している『日本地名大辞典』にも載っていなかった。謎。

そして東へ進む四和小学校入り口の分岐。2015年頃に角の土地が整備され、セブンイレブンがオープンしている。

四和小学校入り口

県道沿いは徐々に開発されていて古い建物は少ない。

昔からの建物が少なくなっている

セブンイレブンの手前、角にあるのが「秩父三十四番供養塔 四街道市和良比」。

秩父三十四番供養塔 四街道市和良比

江戸時代になり、多くの江戸庶民の観音信仰巡礼の聖地として賑わた秩父三十四所観音霊場。そこまで足を運べない方のために、四街道にも制作されたのかな。

交通安全を見守っているかのような
石碑

四街道駅から歩いて、離れた場所に在る商店街へ。次の記事はかなり遠い場所にあったので大変でした。

井戸がポツンと

 

(訪問日:2021年10月)

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