旭市「大原幽学遺跡史跡公園」記念館&旧宅を見学。千葉の偉人を学ぶ
千葉県の偉人として有名な「大原幽学」。農民の教化と農村改革運動を指導し大きな事績を残した人物として知られている。
旭市に大原幽学の旧宅と記念館があるので千葉県の郷土史を勉強する者として一度は訪れたいと思っていた場所!
大原幽学遺跡史跡公園 耕地整理の跡
千葉県旭市。前回は千葉県匝瑳市飯高檀林跡を訪問し、この日最後の目的地である「大原幽学記念館」へ。「つばきの里あさひ」というアーチがお出迎え。
千葉県旭市長部345−2。大原幽学遺跡史跡公園へ到着。駐車場は、公園から一番近い場所は北側に隣接しているが、今回は公園の南側にある広い駐車場に停めた。
営業時間は、午前9時~17時。
ちなみに大原幽学の墓所は駐車場(現在地)の東側にあるようだ。
下は旭市の観光ガイドマップ。屛風ヶ浦もいつか行ってみたい!
ここから先、公園に向かう道は車両進入禁止!史跡は正面の高台の上にある。史跡公園のため昔のままを活かしており、階段や坂が多い。足元には注意です!
道の両脇、これは大原幽学の耕地整理の跡らしい。先ほどの説明看板には「耕地割」と表記されていた。
耕地整理跡も含めて史跡公園なのだろうか。二人ほど男性が作業をしていた。
耕地地割は、幽学が門人の協力を得て耕地整理を行った水田の一部である。もともとは形の異なる大小の田が混在し、作業の能率が悪く雨などで押し流されやすい耕作地であったものを、一区画一反歩(約1、000平方メートル)の大きさに整理し、水路をつけ作業性を向上させたもので、現在も水田として耕作が続けられている。(千葉県教育委員会のHPより)
国指定史跡 大原幽学遺跡
公園の南側から階段を登って園内へ。
入口には説明看板や石碑などこれほどか!というほど手厚い歓迎。
下の写真の碑は、「文化財保護委員會指定」と旧字体で指定された時代も歴史を感じるわ…
大原幽学遺跡は国指定史跡であり、旧宅、墓及び宅地耕地地割が保存されている。
大原幽学(1797~1858)の旧宅・墓と、当時の農村改革の実践跡である耕地地割が史跡として指定を受けている。旧宅は幽学自らの設計によるもので、もともと教導所として名主遠藤伊兵衛によって提供されたものを、天保13年(1842)に住居として改築したものである。8畳2間のほかに台所、便所、押入などを備えてあり、質素で丈夫な造りになっている。嘉永3年(1850)には、門人の増加に伴い専用の教導所が幽学の設計で建てられているが、これは改心楼という間口7間×5間の建物で、建築費および建設は、ほとんどが門人たちの協力によって行われた。しかし、嘉永5年(1852)に関東取締役出役の手先で常州牛渡村の忠左衛門らが改心楼に乱入した「牛渡村一件」が起き、その裁きの結果、取り壊しを命じられて改心楼は現存せず、跡地には記念碑と大原聖殿が建てられている。(千葉県教育委員会HPより)
階段正面を進めば記念館、左手に大原幽学旧宅や史跡がある。まずは左から見学してみよう!
大原幽学旧宅・大原聖殿・改心楼跡
左手を進むと見えてきた門扉。こちらの奥に旧宅がある。
国指定史跡、大原幽学の旧宅。令和3年、比較的新しめの説明看板を拝見。
大原幽学旧宅について大原幽学記念館より引用。
幽学自らの設計によるもので、もともと教導所として名主遠藤伊兵衛によって自宅裏山に提供されたものを、天保13年(1842)に住居として改築したものです。
屋根はもともと茅葺きだったものが、大正末に銅板に改修されています。
八畳二間のほかに台所、便所、押入などを備えてあり、質素で丈夫な造りになっています。
また、この家の特徴の一つが用材にふしのものを使っていることで、すべてに6つずつふしがあります。そして便所の立派なことがもう一つの特徴で、客用と平常用の2つが設けられています。
本来であれば旧宅内部も見学可能。便所が立派なことが特徴、というのは古便器好きとして見逃したのが惜しい。
また、旧宅の西側にはさらに二つの史跡がある。
まず、改心楼跡について。現在は建物等は残っていない。
改心楼とは幽学嘉永3年(1850)に、門人の増加に伴い建設された専用の教導所。
幽学の設計で竣工されました。間口7間×5間の改心楼の建築は、ほとんどが門人たちの協力によって行われ、資材の提供などもしています。晩年の裁判で判決により取り壊しを命じられ、建物は現存しません。
改心楼の在りし日の姿については、千葉県の県立博物館のサイトにて昔の絵図が紹介されている。中央にある平屋の大きな建物だったが、性学の急激な発展に幕府より嫌疑をかけられる発端となった建物でもある。
また、その北側の高台には大原聖殿。
幽学没後、昭和12年(1937)に建立されたものです。この年は80年忌にあたります。またこの場所は、幽学生前の教導所である改心楼跡地でもあります。
当時の建築費(約2,500円)のうち6割は道友で組織された(財)八石性理学会が出し、残りは県内の小中学校、篤志者の寄附で賄われました。当初「大原神社」として神社申請もされましたが、許可がおりずこの名称になりました。本殿の後方には奥殿ももうけられています。その後、地元では学校などにも使用されたりしました。
普段は内部の公開をしていません。
大原幽学を祀る霊廟。後年には地域の学校としても利用されていた点が興味深い。
神社の様な見た目だが許可が下りなかったため大原聖殿。裏手の高台には奥殿も設けられていた。
大原幽学記念館で学ぶ
次は敷地の北側にある記念館へ。
一般人の入館料が300円。入り口で大原幽学の人生が分かるムービーを拝見し、常設展示や企画展示を見学。思っていたよりも充実した内容で夕方に訪問したため駆け足になってしまった。
大原幽学の性学活動を引き継いだ財団法人八石性理学会によって遺跡を管理所有し、資料の保存に努めてきたそうで、昭和32年には幽学没後百年祭の記念事業として、大原幽学遺品保存館がつくられ、一般にも資料が公開されるようになった。
そのうち、重要文化財指定をうけたものは、幽学の自筆もの、幽学の生前、つまり自殺した安政5年(1858)3月8日までに成立したと認められたもの、計407点だそうだ。実際に使用されていた道具や文書等、間近で閲覧可能なのでぜひ見学してみてほしい。
大原幽学には関係が無いが気になったものも。下の写真の「横須賀軍需部」と書かれた資料。香取航空基地の砲弾カ庫バーだそう!
昭和8年製の砲弾庫カバーで、基地内外に何か所も存在した砲弾庫の面影を知ることができる。香取航空基地は、旭市と匝瑳市にまたがり建設され、現在も十字状滑走路が残っている。
記念館がある旭市周辺についても知ることが出来る資料があり楽しめた。
また、館山市立博物館で開催されていた企画展。行きたかったがタイミングが合わず行けなかったのでここでポスターのみ投下しておこう…
館山で有名な写真館・川名写真館が撮影した房総の古写真の展示会、良い企画だなあ…
旧林家住宅
大原幽学記念館の東側には、大原幽学の高弟だった名主の旧林家住宅も。
千葉県指定文化財。
幽学の高弟だった匝瑳郡十日市場村(現旭市)の名主役を勤める林伊兵衛の住居です。幽学の指導を受けて建てたと伝えられ、天保15年(1844)の銘が部材にあります。
昭和54年(1979)に千葉県指定有形文化財となり、昭和63年(1988)に、保存のため同地より復元移築されました。
押入などの収納場所が多く、納戸部分が明るいこと、太い梁を使い柱を減らしているなど、全体に合理的で開放的な造りが特徴です。
令和3年に設置されている説明看板が詳しい。昭和63年に移築復元されたそうだ。
母屋と書院が一体となった約190平方メートルの木造平屋茅葺寄棟造。
建物内を自由に見学可能。
また、こちらもお手洗いが2か所設置されていた。
さらに奥には、私が記録に残している陶磁器製の古便器も。
白と緑のマーブル模様のような焼き付け。今まで見たことが無い模様でテンションが上がった。
愛知県にあるINAXライブミュージアムで同じものが展示されている。瀬戸で明治~大正時代に生産された「掛分釉(青竹)朝顔形小便器」と言う名称らしい。
お客様用に当時から設置されていたのだろうか。こちらの展示を見れただけでも来た甲斐がありそう。
訪問したのは3月。ピンク色の梅の花と相まって良い写真を撮ることができた。
大原幽学記念館を後にし、帰路へ。
車での移動中、妙な物を見かけた。
コンテナの上にいるのは、誰もが知るキャラクター、アンパンマン!!車で通り過ぎたので一瞬だったが遠くからでも目立っていたので目に焼き付いた。
真ん中あたりには、色々なキャラクターがいてカオス…!
場所をチェックするのを忘れてしまったのでどこで見かけたか覚えていないが印象的だった。
帰路の途中で香取市の道の駅「道の駅 くりもと紅小町の郷」に立ち寄った。
くりもと(栗源)町は、平成18年まで香取市に存在した町。
食事もでき、地元の名産品などが販売されている小さめの道の駅。
多古米や野菜、佃煮などを購入してこの日の多古~旭ドライブはおわり。
(訪問日:2022年3月)
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