旧大網駅前と大網駅移転の歴史。駅前商店街、商人宿の現在 -大網⑸
旧大網駅跡地へ…昭和47年に現在地に移転した大網駅は、現在跡地は公園として整備されています。一方で、旧大網駅の周辺の街並みは昭和のまま時が止まったようで…
今回は、旧大網駅の街並みに注目しながら歩いてみました。
旧駅周辺の商工会や旅館
千葉県大網白里市南玉。旧大網駅へ、川沿いの西側の住宅街から近づいて見ることに。昔は駅前の住宅でとても便利だったのだろうな~と思いながら歩いた。
旧大網へと通じる道。裏通りの静かな住宅街であるはずなのに、裏通り感が無いのはかつての駅前通りの空気が少し残っているのだろうか。
左手に、2階部分が突出している奇妙な建物が!こういう妙なデザイン、昭和っぽい。
この建物は、Googleマップによると「大網白里市商工会」の建物らしい。正面は普通なのだが、私が見ていたのは裏側のようだ。
大網白里市商工会があるということも、この辺りが旧大網駅で中心地だったことの証。ワクワクしてきた~
向かいにあるのは、「フジパーマ」。現在は閉まっている。
そのお隣に、純和風建築で妖艶な雰囲気をまとっている建物があった。これはもしや、旅館建築では?と私の勘がものを言う。
とはいえ現在は個人宅。
何か残っていないかと思っていたら、玄関先の軒先に「加盟旅館」の小さな小さなホーロー看板が残っていた!〇に宿ってどういう略称なのだろう?
このタイプのホーロー看板は初めて見た。検索しても出てこないので珍しいものなのかな?ご存知の方がいたら教えてください。
旧大網駅前には商人宿もあったと伺ったので、この旅館は旧大網駅が現役の頃は商人宿として営業していたのかもしれない。
1949年発行『全国市町村便覧』(全国教育図書)「全国旅館等級別一覧表」には一軒の旅館が載っている。(ランク1が最高)
6 倉田屋
一軒しか載っていないというのは予想外の少なさ…
倉田屋と聞くと、商店街のほうにある「倉田屋食堂」が思い出されるが、旅館をやめて飲食店になったのだろうか。今度聞きに行こう。
旧大網駅から商店街へ続くかつての駅前通りに残る「藤崎歯科医院」。
この通りには、かつて料理屋もあり他にも商店が並んでいた。旧大網駅から商店街へ多くの人が行き交う様子が想像できる。
大網駅の移転の歴史
明治29年(1896)に房総鉄道「旧大網駅」が開業。現在の大網駅から500mほど西に位置している。
旧大網駅は、千葉方面と安房鴨川、東金方面に両方に分岐しており、スイッチバックが必要だったため、列車を運行する上で時間がかかっていたという理由で現在の位置へ昭和47年(1972)に移転。
同じ事例としてJR千葉駅もかつてはスイッチバックが必要で、昭和43年に現在地に移転して解消されている。
現在、駅舎が存在した辺りは「旧駅前児童遊園」に。また、航空写真で見ると線路が存在したであろう広大な敷地が現在も残っているのが興味深い。
そして、現在の旧大網駅の前はというと…
下の写真、左に写っているのが大網白里市商工会館。
公園内にある記念碑。2004年に町民によって建てられたものだそうだ。
旗ふりて
出征兵士見送りし
駅舎の跡に
子らの歓声 大塚喜一
明治29年に開業した旧大網駅は、戦時中に出征兵士を見送った駅でもあったのだ。
また、公園内には古い信号機が残されていた。「腕木信号機」というものらしい。
隣にある説明看板より、1840年代にイギリスで考案され、日本では最初の鉄道が開業した明治5年(1872)に設置されたと書いてある。列車を駅から駅へ誘導するための信号機だそうだ。貴重な遺構…
記念碑から眺める現在の駅前の様子。
「房総東線 旧大網駅跡」として昭和51年7月1日(木)に撮影された写真をブログに載せている方がいる。移転してから4年後、駅舎や施設がまだ残っている旧大網駅の在りし日の写真を見ることが出来て嬉しいです。
旧大網駅の古写真と振り返る
そして、旧大網駅が現役だった頃、60年ほど前(1960年頃?)の古写真を見せていただきました。感謝です…!前回の記事で詳しくその経緯についてはまとめているので合わせてご覧ください。
追記:タクシーのナンバープレートが「千葉55」と読めるのでもう少し後に(昭和45年ごろ?)撮影された物かもしれませんとのことです。
下の写真は、旧大網駅のきっぷうりば。
こちらは、旧大網駅を北東側の高台から撮影した写真。中央に写っているのが駅舎で、左手が駅前~商店街にかけての街並み。
こちらは、絵葉書を写した写真でしょうか。「上総大網神風間ヨリ停車場ノ眺望」。
先ほど述べたスイッチバックの様子。写っているのは機関車ですね…!もくもくと煙が出ています!
私が物心ついたときには既に機関車は走っていないので、どれも貴重な写真。
名所案内の看板は、ホームに建っていたものかな?
宮谷県跡・白里海水浴場・小中湖の3ヶ所が書かれている。現在の大網駅の名所案内に宮谷県跡って載っていたっけかな、今度比較してみよう。
こちらが実際の、宮谷県跡。千葉県指定文化財。
旧大網駅前の商店街と現在
下の写真は、旧大網駅前の商店を写したもの。右から、和洋料理・寿司「吉田屋」、飲食店?「松本屋」、運送会社「南総タクシー大網営業所」の建物が見える。
松本屋の二階には、ボーリング場ファミリーレーンの看板も。
現在も、駅前はお店は営業していないが、60年前の面影を感じる風景が残っている。
右にあった吉田屋や大衆割烹として最近まで営業していたようで、私が行った時は建物は無くなっていたが、2015年のストリートビューに写っている。
隣はカラオケ「京」とタバコ屋に。現在は閉まっているが建物は変わっていない。
驚いたのが、現在も街灯の看板は「お食事処まつもとや」。
下の写真は、左が駅舎、右が駅前の商店。駅前の通りは今よりも広い道路だったことがわかる。
こちらは、駅前ではなく東側の大通りの商店街の60年前。バーゲンセールが行われているのか多くの人が集っている。
そして、駅前の通りから北側の道を進む。元飲食店のような建物が残っていた。この通りも商店街だったのだろう。
元飲食店の横道を進むと古い門柱とエスケーテー株式会社。向かいには美容院があった。
上を見上げると電柱のプレートに「駅前」の文字。そう、ここが駅前だったのだ…何よりの証。
移転した後の駅前の現状を見て少し切なくなった。駅が移動することで街も人も移動する。
当時から変わらずに営業を続けるのは、大網駅近くに移転した「いせや」。今回はこのお店の方に話を伺った。
大網の町は不思議な光景が広がっていた。現在の駅周辺は開発されて綺麗だが、旧大網駅周辺の商店街は当時のまま現在も街並みが冷凍保存されているようだった。
(訪問日:2021年9月)
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こんばんは、もっこり公爵です。
旧大網駅周辺を取り上げて頂き大変嬉しいです。というのも、当方小学生の時、親が当時の国鉄職員だった同級生がかなりいたのです。彼/彼女らの少なからずが駅裏の官舎に住んでいたので、この辺りはよく遊びに行ったものです。従いまして今回も長文となりそうですが、何卒ご容赦ください。
まず、「旧大網駅へ」の画像ですが、コメントのとおりです。20年位前までは画像よりも家屋が密集しており、ちょうど空き地になっているあたりに「美春」?という屋号の酒場(←この呼び名が相応しい!)があり、年配の男性で賑わっていました。他にも商店が残っていたように思います。
画像の商工会館が余りに老朽化しているのに驚きました。駅前一等地に立地していたのですね。リポート頂いた商店街の有様を見るにつけ、商工会がどの程度機能しているのか判然としませんが、この立地からも、個人商店の趨勢を読み取ることができそうです。なお、この商工会館の隣に、「(なんでもそろう!)国鉄ストア」という国鉄職員向け?の小さな雑貨店がありました。
旅館風の建物、ご明察のとおりかつては旅館でした。さすがの観察眼と敬服いたしました。平成初期までは営業していたように記憶しています。屋号は「富田屋」だったと思います。ここで作った駅弁を大網駅で販売していたような?画面左側のポストのある商店跡(ここは食料品店だったと思います)の先にある更地は、揚物屋でコロッケや串カツなんかを売っていました。とても安くて美味しかったので、学校帰りによく買い食いをしたものです。
以下、昭和55年から60年頃の様子を記憶の範囲で記します。
そもそも、このあたりは「旧駅」と呼ばれていました。夏休みにはそれこそ商工会主催の盆踊り大会を三日にわたり旧大網小学校を会場にして開催していたのですが、そのウラでこの旧駅前でも独自に盆踊り大会を開いていました。駅の移転から10年位経過していましたが、かつての駅前商店街の自尊心のようなものが残っていたのかもしれません。
この頃駅舎は既に解体されていましたが、プラットホームやその屋根、数多くの側線、給水塔?等が残っていました。リポートに写真で紹介されているスイッチバック(転車台)も残っていました。使われなくなった転車台は、赤錆が浮き出ていました。円形の部分に雨水がたまって池のような状態になっており、機関車の乗っている線路の部分から釣り糸を垂らしてザリガニ釣りをしました。また、この転車台の近くには、先述の国鉄職員官舎が十軒位あったと記憶しています。お世辞にも広く、新しい家屋ではありませんでしたが、国鉄分割・民営化を前に官舎は廃止され、同級生たちはそれぞれ新築の住宅に引っ越していきました。それと同じくして旧駅の鉄道施設も解体されていったと思います。
駅前は比較的最近まで店舗が営業していました。元飲食店は、そのとおり「蕎麦屋」でした。当方が大網に居住した頃は、既に駅は移転していましたが、かつての主要駅の面影はかなり残っていました。駅は絶えず人の往来があるものですから、廃止された駅というものは、見る者にとってひと際哀愁を催さずにいられないものだと言えるでしょう。
本日はここで失礼いたします。
商工会館は、土地家屋調査士である私が当時の商工会の役員だった人から依頼を受けて登記をしました。隣の山辺10区の公民館は、元々は東金警察署の幹部派出所だった建物です。当時の都市計画で、新大網駅に向かって東金線に並行して新しい道路を造成する予定でした!
商工会館も警察の派出所の建物は、その予定確認を見込んで建てられたものです。なので、どちらの建物の玄関は東金線側なのです。