大網宿の歴史と街並み。六斎市が開かれていた本宿と老舗和菓子店など -大網⑵
今回は大網の本宿エリアを探索。江戸時代から「大網宿」として知られ、明治以降も商業の中心地として発展してきました。その大網の中心地ともいえる本宿の街並みは、現在も昭和レトロな建物が残っています。
大網の歴史
千葉県大網白里市大網。大網白里市は、平成25年(2013)に「山武郡大網白里町」から「大網白里市」になった。
大網の古代~現代までの歴史については、大網白里市デジタル博物館のページ「大網白里市を知る」に詳しくまとめられています。
六斎市
これまで他の地域でも扱った「六斎市(ろくさいいち)」は、「長南、本納、大網、茂原、一宮の五ヶ村で、5日毎に月6回、順番に開かれ」たとある。
大網では三日、八日、一三日、一八日、二三日、二八日に開設されたことから「三八の市」とも呼ばれたそうだ。当時は、自給自足の生活。必要な品物は他の地域から交易で手に入れる必要があるため、市の立つ通りは、道路の幅を六間(10.9m)に拡幅させ、市を行いやすくした。現在のバス通りがその名残?
市内三檀林
江戸時代には地方の教育は寺子屋などの寺院が行っており、現在の大学に当たる高等教育を行う場所を檀林と呼びます。当時の市周辺は七里法華の影響により、日蓮宗の檀林が作られ、市内には小西檀林、宮谷檀林、細草檀林の三檀林が存在しました。
大網白里市市内には三つの檀林が存在したというのも興味深い。その後、宮谷檀林があった本国寺には、千葉県発祥の地とされる「宮谷(みやざく)県」が誕生するなど、大網の歴史を語る上で欠かせない場所。現在は千葉県指定史跡となっている。
日立航空機の地下工場
そして、戦時中の日立航空機の疎開工場跡も先ほどの本国寺の付近に残っているそうです。
太平洋戦争の末期、サイパン島などのマリアナ諸島が陥落すると、B29による本土空襲が本格化してきました。このような中で、東京の防空のため、茂原に海軍が、東金には陸軍が飛行場を建設すると共に、飛行機のエンジンを作っていた日立航空機も、千葉から大網の丘陵部に工場を移すこととなりました。大網から山辺にかけての丘陵部には、地下式や半地下式の工場が建設されたため、現在も一部に地下工場跡のトンネルが残されています。
戦局の悪化のため、人だけでなく工場も疎開をする必要に迫られ、爆撃を避けるために地下につくられることに…
しかし、地下に工場をつくることは容易ではなく、計画の半分も進まないうちに敗戦を迎えたという。かつては30数か所も半地下工場が存在したようだが、現在は第一工場の入り口付近に説明看板があるらしいので今度行ってみよう。
大網の商店街
大網の歴史深さを知ったところで、現在の街並みへ…
前回の記事で、熊野神社へ行くため途中で道をそれてしまったので、その続きから。「綿文商店」の隣にある建物は金物店?半分だけ扉が開いていた。
左右で異なる佇まいと主屋二階の戸袋が青銅で美しい。
並びにあるスーパーカネダは2014年時点で既に閉まっているが、こういう小さなスーパーを見かけると何だかホッとした気持ちになる。
小さな個人宅と思われる建物、持ち送りがオシャレだし、壁に鶴のような立体的な飾りがついていて気になる。
誰もいない。車もほとんど通らない。でも、ここが商業の中心だったことは、現在残る商店街の街並みから想像できる。
そしてこちらは、角にある手作り弁当の看板。現在は閉まっている。角にあるから「かどや食堂」なのか~
なぜここでお弁当、と思っていたが、この横の道を西へ進むと旧大網駅へとたどり着く。そう、ここは駅前通りと商店街の分岐点。多くの人が朝、夕とお弁当を買い求めたのだろう。
駅前通りには、板倉精肉店や関谷青果店の看板が残るのみ。ここにも静寂が広がっている。
かどや食堂の隣は、末廣鮨。こちらは現在も暖簾が出ており営業中。
”男性かつら”の文字が目を引く、野口理容が向かいに。角にあった小さな建物は更地になっていた。
まだまだ続く商店街。ここから本町へと向かいます。
バス停の看板。西側に大網白里市役所がある。
役場入り口というのは、大網白里町だった頃の名残?
右の赤い屋根の建物は、宅急便サギサカと看板が出ている。
その並びには、古い街灯が現存!これは嬉しい~
街灯にある「すずき屋」の姿は見当たらないが、なぜか一本だけ残っている不思議。
その向かいにあるのは、和菓子屋「菊屋」。大網名物の宮谷餅を販売している。
帰宅してから調べると、なかなか歴史のある和菓子屋のようで入るべきだったと後悔。大網駅北西、宮谷にある県庁も置かれた本国寺と関わりがあるそうで…
大正年間このお寺の御会式などの縁日に先々代(九代目)虎雄翁が出店した折りに見た黄名粉餅と胡麻餅にヒントを得て発案したのが宮谷餅であります。
大正時代に九代目?!今何代目になるのだろう。江戸時代から営業している和菓子屋ということかしら。今度お話を伺ってみよう。
商店街の衰退を見ていると、このお店も心配になるな…
大網本宿、商店街の街並み
いよいよ、大網本宿エリアへ。丁字路の角にある寝具店「成戸屋」も老舗の貫禄。営業中。
丁字路正面にある建物、横から青銅がちらっと見えている。しかし、店名が分からないので閉業されてしまったのだろうか。
2012年のストリートビューを見ていたら、「小川卓立堂」という昭和感溢れる看板が映っていた。
隣は河野商店。
閉店している。商店街、買い物をする場所が無くて高齢者の方々も大変だな…
かわのやは、大網サービスチェーンの加盟店だったという看板も。つい最近まで営業していた雰囲気。
隣は瀬戸物などを扱う尾張屋だったが、最近改装されて1階部分の全面扉は撤去されている。
江戸時代から続いていたであろう老舗は閉店、または建物すらも面影が無くなっていて今記録することの必要性を感じる。
そして個人宅に併設した佐藤薬局の店舗。シャッターが閉まっているので閉店しているのだろうか。
入り口脇に残るレトロな大きな看板と、青銅の雨樋。看板建築のようなパラペットが毅然とそびえ立つ。
そしてここが、本宿のバス停。大網宿の中心街だったと推測。
斜め向かいにある、水色の横長の店舗も気になる。一体何のお店だったのか…?
ガラス戸には、大網と電話番号が書いてあるが店名が分からない~
横に古い看板があり、事務所と見えるので何かの会社の事務所として使われていたのだろうか。
その隣にも同じ敷地で横長の店舗跡。
向かいには、石畳と前面ガラス戸の大きな建物。昔はブロック塀は無く、何か商売をされていたのではなかろうか。江戸時代から歴史がありそう。
隣は鮮魚店「魚岩」。
右側が広く更地になっている…ここには本屋とリサイクルショップの古い建物が並んでいた。
角にある石井薬局は健在。この建物は見所がたくさんあるので、次回の記事にて。
角を左に曲がると、大網小学校方面。この裏通りにも昔は商店が並んでいたようだ。
しかし、あまりにひと気がないので調べると、大網小学校は2012年にみどりが丘の方に移転したとのこと。老朽化が原因だという。現在も跡地は残っているものの、子供たちが集うことはもうないのだろう。
左の白い建物は小林靴店。どの建物も閉まっていて寂しい。
古い商工案内を見ると、手前に豆腐店があったことが分かる。
先ほどの横長の建物は「京葉剥製」剥製店だそうです。※地元の方から教えて頂きました
大網の本宿の街並み、いかがだったでしょうか。建物から感じる歴史を楽しむのは良いのですが、あまりにも衰退していて複雑な気持ちになります。このまま商店街は衰退していってしまうのでしょうか。
追記:2022年7月1日
本日、23歳の誕生日を迎えました~
最近、自分の趣味の範囲が広くて、自分は一体何者なのかと悩んでいたのですが、「銭湯好き郷土史オタク」と捉えるとしっくりくるので、これからは郷土史オタクということで引き続きブログ更新していきます!
誕生日プレゼントもお待ちしております笑
ブログのコメントもたくさん書いてくださってありがとうございます!時間を確保して、しっかりとご返信する予定ですので少々お待ちください。
(訪問日:2021年9月)
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お誕生日おめでとうございます。
もっこり公爵です。(その1)のコメントご承認いただきありがとうございます。また、お誕生日を迎えたとの由、僭越ながらお祝い申し上げます。
今日は(その2)に掲載されている写真を中心に今から40~30年くらい前の記憶を辿りながら、コメントを記したいと思います。本日も長文となりますが何卒ご容赦ください。
檀林につきまして。三つの檀林のうち、最も有名?出会ったのが小西檀林で、全国から優秀な坊さんが修行・勉学に勤しんでいたとか(小学校三年生時の地域の学習で学びました)。たしか、山門だかの瓦に、徳川家の葵の御紋があったように記憶しています。また、地下工場は、大網中学校の裏あたりに、多数の洞穴があり、中学生当時の当方は、友人らと懐中電灯片手に、しばしば侵入しました。今から考えると、これらは地下工場だったのですね。どうでもよいことですが、懐中電灯で洞穴の天井を照らすと、ゲジゲジ虫がびっしり張り付いていて、肝を冷やしたものです。水没していて侵入ができなかった洞窟もありました。グーグルの画像で見ると、道路整備などに伴い、多くの洞穴の入り口が塞がれてしまったようです。
それにしましても、通りの画像を拝見する限り、車両や人の往来がほとんど見えないのに驚きです。少なくとも昭和末期までは、この通りは国道128号線の旧道であり、東金・茂原・白子・九十九里センター(国民宿舎。現在のサンライズ九十九里)方面のバスが行き来しており、リポートにありました旧大網小学校(昭和61年当時で各学年4クラス。全校児童は約1,000名在籍していました)の通学路でもあり、かなりの往来がありましたので、まったく隔世の感を覚えずにはいられません。野口理髪店の隣の空き地は「吉野輪業」という自転車の販売と、自動車などの整備工場。成戸屋は寝具などを扱う商店で、その右側には「旧キデ商店」があり、年末にはSVC加盟店の福引会場になっていました。また、成戸屋から旧大網駅へ向かう坂道を挟んだ左側には、「旧衣屋呉服店」の建物があり、確か2階建ての木造ながらモルタル風の外壁を要した、かなりモダーンな建物がありました。既に商売はやめていましたが、建物は残っていました。建物所有者は昭和62年の統一地方選挙で千葉県議会選挙に当選し、議員を1期務めたのですが、その後落選し、気が付くと建物も解体されてしまいました。以前、インターネット上に画像が掲載されていたのを見たことありますので、是非ご覧になってください。
改めて往来を見ますと、薬局の多さに気付きます。ただ、平成初期頃には、すべて閉店していたように思います(ただし、「石井薬局」は市役所周辺の新市街地に支店を出していました。)
赤い車が写っている画像の左手にある、凝った窓のある2階建ての商店跡は、「しのざき」という書籍・文房具店で、こちらも新市街地に店舗を移転しており、更にその後、拡張した店舗に再移転しましたが、現在は閉業しています。なお、再移転先は「ルッツェルン」という、パンの販売店になり、こちらは大変賑わっています。
「つうがくどうろ」の看板が建っている後ろの商店跡は、菓子パンや飲み物などを売る商店で、お婆さんが一人で営業していました。土曜日の午後に部活動に参加していた小学校の児童がよく利用していました。靴店はご多分に漏れず、小学校指定の上履きなどを販売していたと記憶しています。
平成初期以降、新市街地への出店が相次いだうえに、小学校の移転が最後の打撃となり、この周辺は全く衰退し、”兵どもが夢のあと”の感に堪えません。本日はこのあたりで失礼いたします。
いつもコメントありがとうございます!!
まったく隔世の感を覚えずにはいられません。”兵どもが夢のあと”の感に堪えません。
→私は地元ではないですが、訴えられるものがありました。素敵なコメントを頂けて嬉しいです。ブログを執筆していて良かったと心から思います。
誇張ではなく本当に車も人も見かけず、ここが中心街だったことが信じられないほどでした。今後が気になります。
こんにちは。元地元民です。
「京葉製菓」ではなくて「京葉剥製」という剥製店でした。
昔は父親の実家も父親の店舗も商店街内にありました。
僕が小学生の頃はまだまだ賑わっていたんですけどね。
剝製店、通学路でしたので覚えています。白い鳥の剥製が飾られていたような記憶があります。鷺或いは鶴?朱鷺ではないと思います。
この通り沿いの商店の電話番号は、総じて00✖✖番という若い番号が多かったです。町内でも早い時期に電話が敷かれたのだと思います。そういったところからも、かつてこのあたりが中心地だったことが伺えます。
なおさん、コメントありがとうございます!
地元の方から情報をいただけて嬉しいです!!
いえいえ。
うちの一番古い戸籍の本籍地は千葉縣山邊郡大網宿ってなってるぐらいの古株です。苗字を聞くとほぼほぼ素性がばれるぐらいです。(笑)
商店街の写真をたくさん撮ってくださってありがとうございます。昔は賑わっていたんですけどね。
スーパーマーケットが一時期、乱立したのですが、そのあたりからおかしくなっていったような気がします。
私の父親の店も商店街にありましたが、今はありません。祖父の時代ぐらいまでは和菓子屋をしていたそうです。昭和30年代後半までのことらしいので、そのことを知っている人は70歳以上の人になりますけどね。
今は大網から離れてしまいましたが、心はいつまでも大網人です。
和菓子屋の菊屋さん、閉店してしまったようです。残念です・・・。