大網下宿「旧石野医院」と蔵元「石野商店」。老舗醸造所は廃業 -大網⑷
大網の探索、北側の街並みも忘れずに記録…今回は「旧石野医院」という昭和初期頃に建てられた病院建築が目的地です。
大網白里市消防団の火の見櫓
千葉県大網白里市大網714。前回の記事から引き続き北へ歩いていると、大網白里市消防団の建物前に大きな火の見櫓が建っていた。
なかなかこのサイズの火の見櫓が現在も残っていることは珍しい。老朽化で取り壊しになっているところが多いのに、この街は防災に関して意識が高いのかな…素晴らしいことだなと思った。
さらに2014年のストリートビューでは消防団の隣にレトロな平屋の建物が映っていた。
この辺りは商店街ではなく、住宅が立ち並んでいる街並みだが立派な個人宅が多いこと…
カーブ沿いに建っている「鍋屋商店」は米販売店。
バス停「大網下宿」。本宿の北側に位置する下宿まで歩いて来た。
一時停止の看板、人型のタイプは初めて見たな~
裏通りに入ると、江戸時代にタイムスリップしそうな古民家が残っていた。大網は古い建物がまだ多く残っている。下の民家も空き家になっているようだったが、保存への道は模索できないものか…
昭和の病院建築「旧石野医院」
そしてこちらが、旧石野医院。
ネットにも結構情報が載っていて有名な病院建築。
「千葉県の近代産業遺跡」のページによると、昭和初期に建造されたもの?とクエスチョンマークがついている。はっきりとした年代は分からないらしい。
建設当時は似た建物がもう一棟ありましたが、現在では残った一棟で 鍼灸をおこなっています。
旧石野医院の後は、石野鍼灸治療院として営業をしていたようだが、その看板も2015年頃に撤去され、現在は個人宅に。もう一棟はどこにあったのだろう…
右側にある自宅は現代の建物なので、左にある旧石野医院の建物だけ令和の現在も残っていることに驚く。建物内も見てみたい…
ただ、屋根にはビニールシートがかかっていて自然災害による被害が気になるところ。この建物も放置をしておくには勿体ない気がする。
蔵元・石野商店(廃業)
2015年のストリートビューを眺めていたら、旧石野医院の隣の蔵のような建物のブロック塀にホーロー看板が残っていたので拡大してみると…
「清酒優良 ふさ正宗 石野商店吟醸」見たこと無い銘柄だ!と思って調べると、ここに蔵元「石野商店」が存在したことを知る。
現在、店舗跡の建物は残っているが完全に道路側に壁がつくられているので蔵元だと気付かなかった…
2014年時点で既に廃業されている様子。
1997年に発行された『ちばの酒ものがたり』(鈴木久仁直著)には 在りし日の写真が掲載されており、歴史もまとめられているので引用させていただきます。
創業は、江戸時代末期の文政2年(1819)年。
「ふさ正宗」は下総の国(現大網白里町)で創業以来、きまじめな酒造りをモットーにしている。大正末期には他に先駆けて防腐剤等の添加物を一切使用しない純粋優良酒「特製ふさ正宗」を醸造。
無添加のお酒の先駆者…いつ頃廃業されたのだろうか。
酒造り蔵や煙突なども撤去され、現在は面影が無い。
また、大網白里市デジタル博物館の「大網白里町史」に九十九里浜平野の広大な水田地による米の産地として、醸造業も盛んだったと伝えている。
清酒の醸造も当町域の旧町村で各家々で工夫をこらし、品質の良いものが生産されつつあった。大網町の石野芳氏は自家醸造の清酒「ふさ正宗」に改良工夫を加え、大正三年と四年にかけて千葉県の品評会や、山武郡内の品評会などに出品し高い評価を得ている。
明治20年、『日本博覧図』には”大網町の酒造家石野家”として当時の様子が描かれている。
また、醤油醸造についての記述も興味深い。
山辺村では中田家の銘酒「正元」、瑞穂村では永田の川島家の銘酒「天馬」、増穂村清名幸谷の中村家の銘酒「総の誉」などの商品が、広く近辺にも知れわたっていた。
醬油というと当時は各村に一軒ぐらい「醬油屋」という店があり、村単位で醬油は供給されていた。しかし日清、日露の戦役が終ったころから、そのような経営では醸造家は成りたたなくなり、合併をするようになった。
しかし販路を広く把握していたり、周辺の人びとに信頼されている業者はかなり後までもずっと醸造を続けた。写真にある大網町の醬油、酢醸造元三島家もそうした事例のひとつであった。
他にも今は無くなってしまった蔵元が多数あり、醤油屋は各村に一軒は存在したほど数があったとは…今では考えられない!こういう歴史も各地ごとにまとめていきたいな~
そういえば、蔵元の石野商店と隣にある旧石野医院はご親戚とかなのだろうか?名前が同じなので気になった。
洋風な大網犬猫病院の隣には、廃業したコスモ石油のガソリンスタンド。
今回は病院建築をメインに扱う予定だったのに、記事を書いている途中で蔵元を見つけてしまい、そちらがメインになってしまった。だが、こういう蔵元の歴史って残す人も少ないだろうから気づいたら残していきたい。
(訪問日:2021年9月)
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大網駅が旧駅から離れた場所に作られたから、この昭和レトロな雰囲気が残されたのですね。もし、旧駅と同じ場所に新駅が作られていたら、周りも一斉に区画整理が行われて、昔の雰囲気が無くなっていたと思えます。考えてみると、かなり離れた別の場所に駅が移動するなんてこと滅多にないですね。
本当に大網旧駅前あたりの眺めは奇跡的な風景なのかもしれませんね。
コメントありがとうございます!確かに、遠い場所に移転したからこその今の風景ですよね…見ることが出来て嬉しいです。
もっこり公爵です。
今回リポートの下宿近辺は旧市街地の北端にあたりますね。当方、この辺りは通学の範囲からも外れていたせいか、コメントできるようなネタはございません。
ただ、人型の交通安全看板は、この通りだけでなく町内に数多くあった気がします。日が落ちた夕方目にするとかなり不気味なんですよね。
趣味亭様
明里様
再びもっこり公爵です。失礼いたします。
駅の移転は(その5)で紹介されている、スイッチバックの解消による列車所要時間の短縮が目的であったようです。千葉方面から茂原・勝浦方面へ直通しやすい位置として、現在の場所が選ばれたのだと思います。移転当時はおそらく周囲は田んぼばかりであったのだと推測されます。
移転後は思ったほど新駅周辺の開発が進まず、駅前に高層のマンション2棟が建設されたくらいで、周囲は駐車場だらけのまま現在に至っています(グーグルマップを見ても、当方が大網に住み始めた昭和55年頃とほとんど変わりはありません)。
昭和60年頃以降、役場(現市役所)周辺や国道128号線沿いの新市街地に、所謂郊外型ロードサイド店舗が進出し始めたのですが、それまでは、駅の移転以降も旧市街地の商店がある程度機能しており、結果として趣味亭様の仰るとおり、当時の商店街の痕跡が現在に至るまで残存しているものと考えられます。ただ、いずれも後継者不足などにより、既に大半が閉業しており、解体は時間の問題かと思われます。近隣の東金市のような保存・利活用に向けた動きも、残念ながら耳にしたことはありません。
大網で流通していた看板なのでしょうか。他の地域ではあまり見たことが無いタイプでしたね~