鬼越商工会。激渋理容室の裏路地にはカフェーや銭湯の名残が?鬼越駅から千葉街道 -市川⑹
京成鬼越駅から国道14号線の千葉街道を、東へ東へと探索します。もともと成田山新勝寺へ向かう参詣客で賑わっていた成田街道でもあった道には、どのような建物が残っているのでしょう?
京成中山駅まで一駅。昭和を感じることができる街道を歩きました。
駅近くのコーヒーハウスぽえむ
「京成鬼越駅」。北口に広がる商店街は、想像以上に寂しくなっていた。
今回の記事では南口から、千葉街道へ進む。駅近くにある「コーヒーハウス ぽえむ」。近くの電柱には「ぽえむ」と平仮名で書かれた看板。フォントが可愛い!
現在は、廃墟のようだが、レトロな雰囲気。入ってみたかった。
鬼越店とあるのでチェーン展開しているのかと思って調べてみたら、「日本珈琲販売協同機構」という日本のコーヒー専門商社が、関東を中心に喫茶店を運営していたらしい。「コーヒー専門店ぽえむ」は、1966年に開業した阿佐谷店がはじまり。
高級喫茶店らしい。
鬼越商工会
鬼越駅から千葉街道、木下街道の分岐に至るまでの道は「鬼越商工会」と名付けられた商店街。毎年桜の季節には、約60本の街灯に装飾が飾られるらしい。街灯、今はもう少し少ないかもしれないが、整備されて残っている。
昭和36年の住宅地図でも確認できる「山下商店」は営業している雰囲気はない。残念ながら、駅から千葉街道へと向かう道は空き地が多く見られる。
かろうじて、街灯に店名が残っているので商店街の名残がある。
越後屋食堂
国道14号線(千葉街道)を東へ進む。歩道が狭く、交通量がかなり多いため、探索は慎重に。写真撮影は迷惑ならないようにしよう。
最初に目に留まったのは、「越後屋食堂」。反対側にいたのが悔やまれるくらい、立ち寄りたくなる雰囲気。口コミを見ると、昔ながらの中華料理屋で絶品とのこと。今度はランチの時間に寄りたい!!
昭和36年の住宅地図を見ると、越後屋食堂の東京側には「共楽寿司」というお寿司屋もあった。現在は駐車場に…
隣の五月堂も、昭和36年の住宅地図から確認できる老舗。営業している雰囲気はない…昭和3年に松井天山が描いた「千葉県中山町及葛飾村鳥瞰図」でも載っているだけにもったいない。
「電話」という表示が時代を感じる。公衆電話でも設置されていたのだろう。
相川理容室と銭湯
さらに進むと、「ヘアーサロンアイカワ」の建物。遠くからでも異彩を放っている、昭和の匂いがプンプンする建物だ。調べてみたら、SNSなどでも載せている人が多かった。
正面から見るヘアーサロンアイカワ。うっすら緑色の建物。絵に描きたくなるような佇まい。
なんと、明治47・48年創業とのこと!初代はちょんまげを結う床屋だったとの話もあり、とても時代を感じる。成田街道として賑わっていたこの道で変わらず同じ場所で営業している。
昭和3年に松井天山が描いた「千葉県中山町及葛飾村鳥瞰図」でも「相川理髪店」として描かれている。その頃から現在も営業しているお店は数少ない。
そして、その奥へと続く道が気になった。お店のような建物が見える。交通量が多かったため、反対側から渡ることは断念してしまったが、この時遠回りしても渡れば良かったと後悔。
実は、昭和3年の松井天山の鳥瞰図には、「カフェーオリエント」と「亀の湯」が描かれている。カフェーと銭湯。まさかこんな路地にあるとは思わなかったが、自分の勘には素直に従うべきだった。
亀の湯という銭湯ではなく、最近まで存在したのは「栄浴場」。2007年に廃業している。千鳥破風、銭湯の煙突、が目立つ建物で、地元ではかなり熱いお湯だったとの噂。
しかし、コインランドリーは現在も営業しているという。もしかしたら、路地の奥にある建物がコインランドリーなのかもしれない。銭湯は解体されてしまったが、その名残が今も理容室の路地に隠れているのは嬉しい。
商店街の今
私の手違いで、商店街の過去の住宅地図を手に入れるのを忘れてしまった。現在の商店街の様子を観察しよう。
既に街灯から店名が無くなっている商店だったと思われる建物。
その名の通り真っ青な建物はスナックの「ブルーハウス」。
壁には青いお城のようなイラストも?ブルーハウスという店名も、建物も、時代に合わないなんて言わずに、令和の時代も残ってほしいなと思った。
どうやら、懐かしいピンクの公衆電話が店内に残っているらしい。レトロ好きな方にはおススメ。
国道14号線から、千葉街道へと伸びる路地。今回は探索しなかったが、この先にも素敵な出会いがありそうだ。
鬼屋刃物店の鬼
鬼越を象徴するかのような「鬼屋刃物店」。ハサミ、包丁などを扱っているらしい。
あなたには見えるだろうか…?
鬼!うっすらと鬼の姿が見えた時は驚いた。鬼越で初めて鬼を感じた瞬間。だいぶ前からシャッターが降りているらしい。どのようなお店だったのか気になる。
木下街道と煉瓦蔵
北側が開けたなと思ったら、「木下街道」だ。木下街道も一度歩いてみたい。江戸時代、銚子から鮮魚を運ぶための道だったそうだ。
開けた場所は、道幅を広げるのだろうか…
鬼越に丁目にある有名な建物がこちら。「中村家住宅煉瓦蔵」である。
登録有形文化財に指定された明治の建物。これについては、また次の記事で写真をたくさん紹介しようと思う。
高石神勉強会
鬼越商工会は、木下街道まで。ここから先は「高石神勉強会」。
なんだか強そうな名前だと思っていたが、由来は違うらしい。高石神は、近くにある高石神神社から。そして勉強会というのは、買い物の際のおまけや値引きを「勉強します」と言うことに由来するらしい。
高石神勉強会から少し歩くと、市川市から船橋市に。看板も出ている東山魁夷記念館は、今度行きたいなあ…
(訪問日:2020年7月)
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鬼越2丁目で育ちました。子供の頃はいつも相川さんへ行って髪の毛を切ってもらっていました。毎年お正月になると相川さんがうちへ日本手拭を持って挨拶に来ていました。優しいお兄さんでした。相川さんは境川のそばにある別の家に住んでいてこの建物には住んでいませんでした。千葉街道を隔てて道路の反対側には確か深緑色の「火のみやぐら」があり、髪の毛を切ってもらう順番待ちをしているときにいつも窓から「火のみやぐら」を見て登ってみたいなと思ってたのを覚えています。横の細道を降りて行くと(なだらかな坂道)ほんの10~20メートルぐらい行ったところにお風呂屋さんがありました。お風呂屋さんのよこの家(周辺には古い木造の民家がいくつか立ち並んでいましたが)にヒョウタンの木があり、大きなヒョウタンがいくつかぶら下がっていて子供心に欲しいなと思ったことがありました。相川さんの直ぐ隣り(木下街道方向)に(ケースに入った総菜をカウンター越しに量り売りする)「いなばや」という名前の小さなお店がありここの売り物は「ポテトサラダ」なのですが、どうやったらあんなにおいしいポテトサラダが作れるのかというほどのスゴイものでした。今だかつて「いなばや」のポテトサラダよりもおいしいものには出会ったことがありません。「いなばや」の隣は小さな肉屋だったと思います。揚げたてのコロッケやメンチを買いに多くの人が並んでいました。その2~3軒となり(下総中山方向)あたりに「行徳屋」という古いスーパーマーケットがあり野菜や卵やお菓子などが売られていました。この辺りでは一番大きなお店でした。五月堂(文具店)にはしょっちゅう買いに行っていましたが、ガラガラと扉を開けて中に入ると家族の誰かが出てきて対応してくれました。自宅とつながっていて中でご飯を食べる音とかも聞こえたことがありました。狭い店内ですが、一応一通り何でも手に入るお店で、いつも「わら半紙」を買っていました。わら半紙20枚くださいというと取り出して枚数を数えて売ってくれました。音楽の五線紙のノートや方眼紙なども良く買いました。後はいろいろな色のラッションペンが陳列されていたのを覚えています。
鬼越の昔の情報を教えてくださってありがとうございます!火の見櫓に銭湯、今は面影が無いので助かります。スーパーマーケットもあったとは知らなかったです。
3年前の明里さんのレポート、わたしも「相川」や栄浴場は覚えています(両方とも行ったことはありませんが)。あの界隈は、よい風情がありました。
「いつでも行ける」と思っていて…ふと気づくと、お店が無くなっているというのが、街歩きではよくあることで、行ける時に行っておくべきだと常々感じています。
国道14号線、消防署近くの「越後屋」さん、最近おもしろい話を聞いて、近々再訪しようと思っています。越後屋さんて、ポツンと一軒建っているように見えますが、あの場所は成田から江戸(東京)に向かう時の要衝だったらしいですね。いまの店主さんが3代目だそうですから、もうかれこれ70、80年ぐらい営業されているのではないでしょうか。←と言うことは、戦前、昭和初期からの営業?
平成から令和にかけて、そういう個人商店がバタバタと店じまいしているのは、本当に悲しむべきことです。それは、ずばり後継者の問題ですよね、「店舗」はあるのに、子どもが継ごうとしない。それはなぜかと言えば、小規模のお店が、大手資本に太刀打ちできないような社会の仕組みになっているからです。大企業優遇の税制、その他のしくみを変えない限り、いまのような“雪崩”現象は、食い止められないでしょう、残念です。