小見川の花街について。割烹料理店が残る水郷・小見川の繁栄 -小見川⑹
今回は、小見川の花柳界について。元々は城下町として発展した小見川は、黒部川沿いの銀座通りを中心に花街も形成されていました。小見川の花街について知名度も低く、知っている方も少ないのでは?と思います。
隣の佐原に負けないくらい、濃い歴史が詰まった小見川の魅力を伝えたいです。
水郷・小見川の歴史
千葉県香取市小見川。小見川駅の北側にある香取市商工会の外観に展示されていたポスターに「舟運で栄えた街 水郷黒部川」と書いてあった。
「東京⇔香取の舟運があった。」
なかなか印象的な言葉。小見川の町にとって黒部川は動脈であり、物資が行き来する幹線道路であった。明治10年代から始まった銚子・東京間の高速バスともいうべき、外輸船の定期便、小見川~東京の直行便を出すほどの町勢だったという。
利根川の河港として発展した小見川の町。東京間の航路は、昭和16年の台風による利根運河の閉鎖まで継続した。
現在、鉄道の開通、交通機関の変化によって舟運は廃止されているが、川沿いにはダシと呼ばれる船着き場が現在も残っている。
香取市だと佐原の方が、歴史的景観も残っており観光地として有名だが、小見川も歴史を感じる建物がまだまだ残っている。ぜひ、歴史や建物が好きな方に訪れてほしい。
そして、小見川の発展とともに花柳界も発展を遂げたのである。
小見川花街に関する資料
初版大正4年10月発行『小見川案内』に小見川の花街についての記述がある。
尚、この本を出版したのは、小見川町本町通りの「高寺書店」。復刻版が平成24年に出版されており、小見川の図書館で閲覧した。旧字体については適宜変換している。
花柳界について
小見川の花柳界についてのページより抜粋、要約する。
「町の盛衰と伴ふ」
小見川の名を聞く者は必ず花柳界の発展を連想する。交通至便の所にして後方の村落から年々産出する米が集まり、さらに他の地へ輸出する関係上、常に多数の人が商用の為小見川町に集まっている。其の人達の懐具合が良い時には一夜の興をやるのがそもそも花柳界発展の原因。明治28年頃までは芸者の数も68名程あったが、総武鉄道が開通して以来は小見川へ米を出していた村落は鉄道便で送るようになり、商業不振になり花柳界も衰えていった。
明治35年頃には芸者の数は14、5名に減ったが、その後米価も回復し、近在から遊興に来るようになったため、再び挽回した。芸者家も、角隅、玉壽司、立川、新壽、杵家、吉野家、木屋と7軒。その他料理店の酌婦などを含むと80余人ほど。
料理旅館兼業は、林屋、錦盛館(きんせいかん)、新發田屋(しばたや)、丸山等。料理専門にて、魚吉、新發田屋、角隅、結城屋、岡野、喜重など。また、酌婦を抱えて営む料理店は、楠本、寿司屋、神田、梅本、成田屋、松屋、お濱屋、稲弁、加賀屋、田村屋…
このうち現在も残っているのは、丸山旅館のみかな?!明治創業の丸山旅館、今度しっかりと取材せねば。
小見川芸妓家組合
玉寿司、新壽、立川、杵家、角隅、木屋、吉野家
存在した料亭・旅館
広告より↓
・「錦盛館」
千葉県小見川町、電話12番、御料理・御旅館、須賀神社裏にして風景殊に好し
・「新發田屋(しばたや)」
小見川堂の前、電話23番、御料理・御仕出し
劇場と宴会場より↓
・「魚吉宴会場」
小見川市街の中央須賀神社境内の一隅新築の総2階建て、本店は魚問屋を川端町で営んでおり、本支店両方とも電話の設備があり、料理の新鮮と懇切
・「新發田屋」
須賀神社前、宴会場として多数を収容できる、風景が良い
・「角隅楼」
新發田屋と並び、堂の前花柳街にある三階建ての高楼で異彩を放っている
・「錦盛館」
須賀神社の風景を眼前に眺め、魚吉と並んで花柳街堂の前、旧吉野屋跡を買収し二階建ての料理旅館に、美観
これらの情報の中で度々出てくる、須賀神社。その周辺が花柳街だったことは間違いないのだが、肝心の須賀神社が2か所ある…善光寺の西と東。川沿いに近いのは、小見川352だが、現在は旅館などの古い建物は見当たらず、当時の面影はない。
追記:地元の方より
「堂の前」は、正福寺の事で、須賀神社は、正福寺の手前の神社です。須賀神社周辺が、かつての花町です。
かつての花街のエリアが明確になりました!ありがとうございます。
劇場「三栄館」
また、劇場「三栄館」についても写真付きで紹介されている。現在、小見川には映画館は無いが、かつての賑わいをうかがい知ることができる。
三栄館は、北端外浜にあり、大正元年10月に創立。94坪、間口7間半、奥行き13間の西洋建て。地方民唯一の娯楽場として賑わったとある。尚、北下宿町にある「鶴壽亭」は当時休業中であったと書いてある。
大正10年は1923年。「消えた映画館の記憶」によると、「小見川宮本座」として1960年代まで営業していたようだ。場所はよくわからず。
また、小見川には「大黒座」「小見川劇場」という映画館も存在したようだ。
小見川駅南側の飲み屋街の現在
上記の資料は主に戦前の話で、戦後はどうなったのだろうか。赤線時代には特飲街が形成されたのではないかと想像する。
昭和の住宅地図を見ると、小見川駅の周辺の飲み屋街があり、現在は何もない南側にも飲み屋街があったというので辿ってみた。
「小見川ピンクレディー1号店」があった場所は完全に更地になっていた。
しかし、石畳が残っている…
また、店内と思われる場所にはタイルも。和風な佇まいだったのかな。
2012年のストリートビューには、廃屋になった2軒の建物が映っていた。
線路沿い、南口は無いので、北側から回ってこないとたどり着けないひっそりとした場所。ピンクレディー1号店ってことは他にも支店が?名前のインパクトが凄い。
この辺り、病院などが多かったみたいだが、ピンクレディー1号店の斜め向かいには割烹「高千穂」も存在したようだ。
2012年のストリートビュー
10年前まで残っていたのか~…
小見川駅北口
今度は小見川駅北口。最近開発されて駅前のロータリーが新設されているので、昔の建物は残っていないかなと思ったが、ロータリーの西側はそのままだった。
昭和の住宅地図を見ると、広い駐車場の真ん中あたりに飲み屋が連なっていたようだ。
美容室の1階にある、雰囲気があるスナックのような入り口。
そして、その横の細い道を裏へ…
狭い裏道。かつてはここが飲み屋街だったのだ。
ロータリーの整備によって一部解体されているが、ギリギリ古い建物が残っていた。良かった。
傷痍軍人会員のホーロー看板。初めて見た。
調べると「日本傷痍軍人会」という、日中戦争や太平洋戦争などで負傷した元軍人らでつくる財団法人が存在したらしい。が、2013年に会員数の減少と高齢化で組織活動が困難になり、解散。
調べても同じ看板見当たらないが、貴重なものを見ることができたのかもしれない。
また、バーの鑑札も!!これは収穫。
小見川の花街の遺構は何もないと書いている人がいたが、鑑札が残っているだけでここに歓楽街が存在したことがハッキリと分かった。
住宅地図によると、「いこい」というバーだったようで、隣は「牡丹江」、「ハワイ」「恵子」などとお店が続く。
現在はクラブの建物が建っていた。が営業している雰囲気はない。牡丹江も赤色で目立つなあ…
割烹しまむら
裏道を西へ進むと、かつての情緒が蘇るような不思議な空気感に包まれた。
普通の民家なのであまり撮影はしなかったが、右手にも素晴らしい民家の建物が並んでいた。
そして左側に、静かに私を待っていてくれたかのような建物…
正直、何も残っていないと思っていたので、建物を見た時は驚いた。
入り口を見てピンと来た、元割烹の建物だ!
「一品料理 しまむら」と控えめに残る看板。
現在は廃墟なのか、閉業して時間が経っている。
また、電飾看板が残っていたのも嬉しい。こういう電飾看板に凄く惹かれてしまうんですよね~
裏通りに構える割烹しまむら。この一角だけは他の場所と流れている空気が違っているような気がした。
また、割烹しまむらの斜め向かいには、「島村旅館」があったようだが(同系列店?)、現在は「ビジネスホテルかまはる」になっていた。
この建物だけでも見れて良かったと思う。
しかし、かつてはさらに西側の通りにも割烹、そして映画館が存在したようだ。
昭和の住宅地図によれば、現在電器店「ハートフルさとう」の向かいに、新利根割烹、小料理千種、小見川映劇、スナックオールナイト、とあるが今は閑静な住宅街で面影も無し。
小見川映劇は、映画館で「消えた映画館の記憶」にも情報がある。
1950年頃~1977年頃まで存在したというので、この辺りの飲み屋街も同時期に発展、衰退したのだろうか。
小見川の花街は戦後、駅前に移転し、かつての料理旅館などは面影を見ることができなくなった。
黒部川沿いの大橋から中央大橋にかけての西側の通りは「銀座通り」と呼ばれ、その一帯には大きな料亭が建ち並び、大勢の芸者さんが出入りしていた。その頃を覚えている方がいたら、もう少し深くお話を伺ってみたいな…
(訪問日:2021年7月)
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「割烹しまむら」私の祖父母の家でした。現在はすでに取り壊されております。
なんとなしによく通った家について何かないかなと調べているうちに此方へとたどり着きました。良いものを見せていただきましたありがとうございます。