野田の花街の歴史と新道通り。かつての「野田一番街」は現在… -野田⑸
千葉県野田市にも赤線、花街としての歴史が存在したのではないか?
インターネットにはあまり情報が無いが、醤油醸造で繁栄した野田市駅周辺にかつてそのような歴史が存在したと考えてもおかしくはないはずである。
今回は、情報がまだ全然収集できていないので現時点でわかっている情報だけ記述している。
旧茂木邸から
前回のキッコーマン創業者の邸宅である旧茂木邸からスタート。分岐を西の道に進む。
駐車場が多い通りだが、その一角に何やら不思議な壁を発見。丸い樽?瓶?何かが壁に埋もれている。
一般の住宅の境界に煉瓦壁が一部残っているのも印象的だった。もしかしたら、防火壁の「うだつ」かもしれない。
古い町並みならではの発見があって面白い。
下の大きな通りは「本町通り」。かつて各醤油醸造業からの物流経路として、線路の引き込み線が各蔵に繋がっていたのだとか。野田市のメイン通りである。
本町通りの千葉銀行野田支店の向かい側にある細い道。ここが今回目を付けたところである。GoogleEarthで事前に探索をしていたところ、この裏道にある商店街が怪しいと感じた。
それにしても両隣が大型マンション…
赤線?新道通り
この通りには少し変わった街灯が軒を連ねており、小さな商店街のようになっている。
今まで他の場所では見たことが無い、独特な街灯。夕陽に照らされて、キラキラと光っていた。
商店街手前にあるのは「(旧)萬街(新道)」と書かれた碑。
あまりにも文字が薄くなっているのだが…
嘉永二年(1849)中町亀甲萬本蔵と上河岸間の醤油駄送の便を計るため、また水戸木内家から茂木佐平治家に「黄門光圀公の真筆」と持参するということで、町民の協力で開通し、商標の一字をとって命名。新道(しんみち)とも称され繁華街として賑わった。
新道が繁華街として賑わったことがわかった。メイン通りから一本裏道の繁華街、なんだか怪しい。
上河岸というのは新道通りを真っ直ぐ進むと見えてくる江戸川のことだろう。江戸川を挟んだ埼玉県側からも人の往来があったに違いない。
結論から言うと、野田市駅周辺の住宅地図をまだ手に入れてないのでどこにどんなお店があったのかはわからない。早く手に入れなければと思っている。
野田市の映画館について
昭和の映画館を調べると周辺の賑わいも見えてくることが多いので、調べてみた。すると、野田市には3館の映画館が存在したことがわかった。
その一つがこの商店街の近くの共楽館(上花輪1546)である。他の場所は野田銀映(中野台182)、野田東映(中野台440)などがある。
「タイムスリップ・アルバム―白木睦」の記事にて昭和30年の共楽館の写真や、賑わいが記述されているので参考にした。
香取神社から出発した上花輪神輿が街を練り歩く様子。
旧NTT角の交差点で千葉興銀方向から昔の共楽館通りに曲がろうとしているところです。
わかりずらいですが、中央の電柱の後ろに「○○遊技場」と見える看板は、「永楽」というパチンコ屋で、現在は「居酒屋一代」がある場所です。
右手のパチンコ「中央」はその後昭和40年代には、パチンコ「野田会館」となりましたが、現在は駐車場になっています。
千葉興銀というのが、現在は「旧野田商誘銀行」として残っている建物。昭和45年まで千葉興銀野田支店として利用されていた。その向かいにある通りから共楽館に入るとパチンコ屋などが並んでいたというのか…今回の新道とは違う道だ。
昔の共楽館通り(現在の幸会通り)の「坂本屋酒店」さんの前に白木のみこしが写っており、昭和三十年代の共楽館通りといえば、野田で一番の繁華街でした。
写真中央の電柱左手奥に共楽館(食堂、映画館)らしき二階建ての建物の屋根も写っています。
坂本屋酒店の店舗は現在も残っている。その北側の場所に共楽館が存在したということになるが、現在は広い駐車場になっている。
赤線については記述が無いが、これだけ栄えていたのであれば曖昧屋のようなお店、料理屋は存在したと思う。
これらの記述をもとに、現在の商店街を辿ってみよう。
現在の新道通り
現在の新道通りは、とても静かな商店街になっている。
電柱の傍にある武徳と書かれた像。パワーを感じる。その歌ににあるのは武神館。SPや格闘家など世界中から集まるらしい。
赤い屋根の大きなお店は、営業しているようだ。銘茶・海苔の「おおみや」。
丸い窓や家紋が描かれたこの建物も、かつては飲食店だったのでは?
その隣も「〇森家具店」と残っている。
通りはマンションや住宅が並び、商店の姿があまり見えなくなっている。
夕陽に照らされて商店街が輝きを放つ。通りは誰もいない。
正華楼と飯塚生花店
正華楼と飯塚生花店が営業中。この通りで一番賑やかな場所かなと思うくらい、2店舗が営業しているのは珍しい。
正華楼は、地元で人気の町中華屋らしい。昭和23年創業で、外観は昭和レトロそのもの。この時は時間がなくて入れず。
2店舗の間に古そうなアーケードがかかっていた。
昔の写真を見ていると、この通りは「野田一番街」と呼ばれていた、というか街灯に書いてあったのだが…現在は無い。
アーケードを抜けると、普通の住宅街のようだ。
なぜここだけアーケードがかかっているのだろうか?
そして花屋の前にあった錆びた何かに土台。
野田一番街
気を取り直して野田一番街と呼ばれた通りを歩く。
清々しいほどにお店が営業していない。
街灯には何も表示が無い。野田一番街の表示は2015年の写真では確認できるのだが…
その隣のスペイン瓦の屋根の建物も、喫茶店だったりしたのだろうか?
道路は舗装されていて綺麗。この通りだけがこのようにデザインのある道路だった。
野田名物太郎焼き
古そうな屋根に書かれた「野田名物太郎焼き本舗 キタカワ」の文字。
野田名物太郎焼きってなんだ?ガラス越しに太郎焼きを焼く大きな機械が置かれている。しかし、稼働してない…とても気になるので購入することに。
いくつ購入するかと聞かれ、1つと答えると、なんと冷蔵庫のような場所から1個取り出してくれた。1個110円。冷蔵庫ではなく、常温のようだったが、出来立てでははなく、お土産に購入する方が多いのかもしれない。
太郎焼き本舗は川口と越谷で知られた大判焼。昭和28年創業らしい。もしかしたら、江戸川から渡って、ここに支店を構えたのかも?
野田名物太郎焼き、あんこがたっぷり入っていて美味しい。
※2021年10月現在、閉店していました
野田一番街は名称はなくなったものの、名物が残っている。このあたりの商店街は複雑に分岐しているので一つ一つ紹介していこう。
(訪問日:2020年9月)
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野田には、間違いなく赤線(特殊飲食店)がありました。野田の赤線の情報は、ほとんどないので、興味をもって拝見したしました。
自分が知る限りの野田の赤線の存在を示す資料は、千葉新聞昭和21年8月20日の記事だけです。この記事は、県警察が県下の特殊飲食店に廃業命令を指示した。その指示された地域に野田の地名があるだけです。たった1行です。もしかしたら野田市史にそのあたりの記載があるのかもしれませんが、まだ調査中です。