【成田・赤線】成田は表参道より新道通りの歴史が濃ゆい?!赤線が存在した花崎町 -成田⑵
成田と赤線。特殊飲食店として売春行為を半ば公認されていた地域を赤線などと呼び、全国各地に形成されていた。そんな赤線は、成田山新勝寺へ参詣に訪れる人々も虜にしたのだろう。表参道からちょっと外れた脇道、成田市花崎町の新道通りを中心に現在もその面影が残っている。
成田山新勝寺、表参道の裏ディープスポットの旅へ。
成田の赤線について
『全国女性街ガイド』で見る成田の花街
『全国女性街ガイド』(昭和30年、渡邊寛)
参拝客専門で芸妓は置屋五軒に二十一名。代表芸妓は団子、金太郎など。花代は一時間三百円。次時から二百五十円。赤線は花咲町に八軒、二十九名。泊まり八百円。
昭和30年の時点で、八軒。29名の女性がいたことから成田に花街が存在したことがわかる。他の地域と比べると、それほど多い数ではない。が、成田街道途中にある船橋の宿泊が700円であることを比べると、門前とあって少し割高なのかもしれない。成田参詣の最後はパッとお金を使いたい気持ちもわかる。
花咲町の火災
花咲町から花崎町へと、町名も変わっている。赤線があった地域名をそのまま残したくなかったのかもしれない。花咲町について調べていると、成田市が発行している「広報なりた」にて興味深い記事があった。
市内最大の火災「花咲町の火災」
表参道・新道通りの商店街や民家を焼き尽くす太平洋戦争の末期、昭和20年5月9日の午後11時から午前0時前後に町の中心部から失火による火災が発生しました。「当日は風もなく穏やかで、家事は局所的なもので収まるかのように思えた」(体験者の話)のですが、しばらくするとまたたく間に燃え広がり、朝方に鎮火したときには、花咲町(現花崎町)の表参道・新道通りの商店街や民家などをほとんど焼き尽くす大火災となってしまいました。
火災の範囲は現在のJR成田駅東口前から滝澤酒蔵までで、184世帯が家を消失する市内最大の火災となりました。
昭和20年に発生した火災によって、花咲町の建物はほとんど全焼。ということは、赤線が存在した昭和30年、そして現在も残っている建物は少なくても昭和20年以降のものとなる。全焼したということを頭に入れて建物を見てみよう。
JR成田駅東口から
赤線があった花咲町は、JR成田駅東口を出て北側にある、沿線と表参道の間に挟まれる一帯。目印は交番の裏。赤線地帯として有名な玉の井、立石なども交番が入り口の付近に存在した。
「成田山近道」と看板がある。しかし、近道を利用している観光客は少ないようだ。
交番を挟んで右側が、「新道通り」。左側の道は坂の下、標高が低くなっている通りが「新新道」。軽便鉄道の線路跡に作られたという新々道。
まずは新新道から散策しよう。
花咲町周辺の地図が飾られていた。
3パターンの地図が飾られている。現代の大まかな地図がわかるのは有難い。
花崎町、新新道を散策
花崎町の中では西側、沿線沿いに北側に伸びる道を探索しよう。新新道と呼ばれている通り。
無料案内所
まず飛び込んできたのが「地域密着 無料案内所」。でもひっくり返っている様子から、今は営業していないのだろう。このあたりが、大人の街であることを示している。
無料案内所の看板が吊るされている後ろには、怪しいビル。クラブなどが入店している。
表参道を普段は探索しているため、駅のすぐそばに堂々と構える風景に驚いた。
古そうな商店なども並ぶ
途中で見つけた折れたコンクリート。これは何だろう?
2階建てのアパートのような建物は、表面が灰色になりちょっと不気味。住宅地図から「よつやアパート」かもしれない。手前は駐車場になっているが、建物は取り壊されたのだろう。
沿線とは反対側の丘の上にも、建物が密集している。かなりの高さがある。後で探索しよう。
「まつきや」は、質屋のようなお店だろうか?売買と書いてあるのがかろうじて見える。
旅館福一
「旅館福一」。入り口が見えなくなっているつくりから、大人のホテルかと思ってしまうが、ビジネスホテルだ。低価格で女性でも安心して泊まれるらしい。
遠くから見ても、「福一旅館」の存在感はある。夜になるとネオンが光ったりするのかな。
隣には、「麺や福一」がある。口コミを見ると、「日本一のラーメン屋」と書いている人も。この日も、開店前から数人が並んでいた。いつか食べてみたいなあ。
クラブ
旅館福一を越え、さらに奥へ進むと人通りが少なくなってきた。クラブなどが多数入店しているビルが左手に。
左手には「全国の地酒が300銘柄 安い!うまい!安心な店」と堂々と謳っている「さわらや」。成田山新勝寺がお参りのシーズンの時は盛り上がるのだろうか、とても広そうなお店。
沿線ギリギリのところに、石碑が建っていた。三界供養塔。イラストも描かれている。以前、この場所は地下の階段ではなく踏切があったらしい。
花埼町、階段を抜けて丘へ
来た道を戻り、先ほど見かけた丘の上へ。
古い建物
お、旅館のような佇まいの建物。と思ったら「一成食堂」らしい。昭和64年の住宅地図には掲載されているから、最近まで営業していたのかもしれない。
階段は細く、こんな場所登っていいの?と不安になるくらい心細い。
コンクリートゴミ箱と階段
コンクリート製のゴミ箱を発見。地味に収集しているので見つかると嬉しい。
またしても階段。
階段を登ると、開けた場所に住宅街が広がっているようだ。
傾いている祠などもある。
またしても、コンクリート製ゴミ箱!東京オリンピックを境に姿を消したごみ箱であったが、花崎町では現役だったのかもしれない。
住宅地図を見ても、名前がわからない神社。整備されていて、大事に守られていることがわかる。
住宅地図には、「モノオキ」、「ソーコ」と書かれている建物。
なぜか、ショッピングカート…
透かしブロックを発見。一つだけ違うダイヤのデザインが素敵。
どの建物を撮影したのか忘れてしまったが、窓から見えるカーテンとダイヤの窓が、それっぽい。この辺りにも赤線があったのだろうか。成田は正確なお店の場所がわかっていない。
権現山の玉垣
権現山=神様が現れる山のこと。成田さんの境外地であるこの辺りは、権現山と呼ばれている。かわいらしい猫に誘われて、玉垣が並ぶ方へ。
ずらーっと並ぶ玉垣。玉垣はどうやら土塁で、その上に石碑が建っているつくりなのだが、かなりの大きさ。
玉垣と遊里関係者
よく見ると、遊里関係者も多そうなので、一つ一つ紹介。時間があったら、玉垣の名前とそれがどこの場所なのかを突き詰めたい。
玉垣を今までは注目したことは無かったのだが、遊郭の調査を始めてから資料的価値の高さを知った。一つ一つじっくりと解読することで、関係者が見えてくる。
玉垣の周辺
玉垣の周辺は、かなり崖っぷち。柵などは一切ないので、崖には近づかないようにしよう。
上から歳ほど歩いてきた通り、新新道を眺める。
玉垣の近くには、コンクリート製ゴミ箱3つ目!さらに、ゴミ箱の後ろにあるコンクリートで埋められた壁が気になった。もしかして空洞なのでは?
赤坂日花惣講中の石碑
江戸赤坂のお花講が成田山新勝寺のご本尊の献花用に1819年に畑を購入して奉納した時の記念碑。高さが2メートルは確実にある高い石碑だが、折れずに綺麗な状態であることに驚いた。
歌舞伎役者奉納記念碑
玉垣の土台の上にある石碑は、「歌舞伎役者奉納記念碑」。明治42年(1909年)に建てられた。様々な女形で有名な歌舞伎役者の方の名前と、置屋・茶屋などの名前が刻まれている。
石碑はとても脆いものであるので、むやみに近寄らないように。
捨てられたタイル
玉垣の傍に、捨てられて放置されているピンク色のタイル破片があった。
ピンクと白の組み合わせと、手前は茶色に花柄のタイル。どこで使われていたものなのだろうか?もしかしたら、赤線、カフェー関係だったり?そんな夢を持たせてくれるタイル。
焦げた大木
角にある大木は、根本が焦げていた。火災でもあったのだろうか?と思ったが、調べていたら先ほどの花咲町の火災にたどり着いた。昭和20年前からあるとしたらかなりのご高齢。
玉垣、権現山を後にして新道通りへと向かおう。
新道通りの歴史
権現山と畑
新道通りの一帯は、明治30年に鉄道が開通するまで湯殿権現社が祀られた「権現山」がある山林の一帯だった。その頃は権現町、上一番町と呼ばれていた。
新道通りのエピソード
「成田裏道歩き」というサイトに新道の記述があったので引用させていただく。
◇エピソード◇
昔は、新道・新々道には映画館、旅館、飲み屋などが集まる歓楽街でした。戦中戦後駅前は露天がたくさんありその後整備撤去され、そこにあった店が新道や新々道へと移っていったそうです。(昭和20年5月このあたりで火災が発生し184戸焼失)
新道通りは歓楽街であったことがわかる記述。遊技場、カフェー、小料理店が軒を並べ、多くの女給で毎夜賑わっていたらしい。
映画館というのは、昭和42年の住宅地図を見ると、「新映」「成田映劇」などがある。その映画館も昭和48年になると「成田ゴールドレーン」に。
『歳月の忘れもの』という文献に、昭和20年5月まであった唯一の映画館が(花咲館)消失し翌年開館した劇場があると記載がある。
また昭和26年には「成田映画劇場」(映劇)と名前を変え、昭和29年12月には隣に用が専門の「成田新映画劇場」(新映)が開館。新作の映画を上映したり、スターが来るなど賑わったが、映画産業の斜陽化に伴ってともに昭和44年(1969年)で閉館した。その後は、ゴールドレーンといったボーリング場などになったが、現在は残っていない。
郊外に大型店舗ができたり時代が変わり新道商店街加入店は現在28軒。昔からの店は旭屋商店、大沢時計店、東洋、ワタナベ、さらわやなどあります。ところどころ歯抜けのように駐車場が増えてきたり、空き店舗があったり人どりが少なく商圏がなくなってしまいました。
現在は、駐車場も目立ち、車が猛スピードで通り抜けるため、かなり雰囲気は変わってしまったようだ。
現在の新道通り
現在の新道通りを探索してみよう。交通量が多いため、撮影には十分気を付けたい。
新道商店街の看板の横についている、黒いブドウが気になる。
飲食店が並ぶ
ゆるやかな坂とカーブが続く新道商店街は、飲食店がちらほら。もともとは違うお店だったのだろう。昭和64年の住宅地図では、「マルベリー」などと書いてある。
飲食店の入り口近くには、古そうな稲荷が。狐が飾られているだけでなく、油揚げもお供えしてある。この建物のあたりは、「桑原駅弁」というお店があった。
カフェー建築を様々見ていると、下の建物はついつい怪しんでしまう。2階のバルコニーと、入り口が2か所。赤線の名残かなと勝手な想像を膨らますが、「川口食堂」から「三徳」へ住宅地図を見ると移り変わっているのがわかる。
ニューおおのやから裏路地へ
「ニューおおのや 」の建物の左横に細い路地が続いている。これは好奇心がそそられる!
ニューおおのやの建物を正面から撮るのを忘れてしまったが、かなり良い雰囲気。昭和42年から変わらず同じ場所で営業していた。2階には、麻雀東があったらしく、最近まで2階を指す看板があったのだとか。物件情報が出ていたため、確認すると2階は和室。
路地の傍らには、木造の2階建ての建物。民家のようだ。この建物の奥、現在は駐車場になっている辺りには「朝日湯」という銭湯があった。昭和42年、48年の住宅地図では確認できるが、昭和60年には駐車場に。どんな建物だったのだろう。
ハイカラなアパート
路地の角に、カラフルな動物などが飾られている建物がある。
調べて煮たら、シェアハウス「NOBOTAN」として利用されているらしい。朝日新聞のホーロー看板が設置されているのも雰囲気があって良い。
小料理 七五三
成田の赤線探索で欠かせない場所がこちらの「小料理 七五三」。
昭和42年の住宅地図では「七五三」が「マージャンポン」、昭和48年の住宅地図だと「七五三酒場」に。マージャンのお店から転業したのだろう。
既に廃業してからかなりの時が経っているのか、看板は塗りつぶされている。
この建物の醍醐味である丸窓は健在。黄色と水色のバランスが良い。
かなり薄くなっているものの、「小料理 七五三」の文字。
チェーンが残っているが、提灯でもかかっていたのだろうか。
建物は奥に長い平屋づくり。入口はこちらの路地のみ。赤線だったのか?詳しくはわからない。
しかし、2020年8月。
突然解体中との情報が入ってきた。隣の一軒家も含めて解体していた。成田の赤線探索の代表ともいえる建築だったために、残念である。7月に訪問した際に撮影をたくさんしておいて良かった。
隣の空き地も、五月荘というアパートが建っていたらしい。アパートが賑わっていた時は、小料理屋も繁盛したのかも。ちなみに、七五三の向かい側の角にも、「小料理トキ」という比較的大きな小料理屋があったらしい。現在は新しい一軒家になっているが、赤線の名残かもしれない。
小料理いけだ
七五三からさらに奥へ進むと、木造2階建ての建物が見える。こんな住宅街に、ラスボスのような存在感。勝手な予想だが、赤線の匂いがする。2階には大きな窓と、出っ張った洗面所だろうか?広い座敷があったのかも。
小料理いけだ、とわかる看板。遠くからでも目立つような看板だ。
入り口には、昭和のランプ。古い建築ではよく見かける。欄間もシンプルだが良い。
お、コンクリート製ゴミ箱4つ目!成田の花崎町ではコンクリート製ゴミ箱が多数残っている。昭和の風景が保存されているかのよう。
正面から見ると、かなり大きな建物であることがわかる。新々道にあった旅館福一の看板も矢印を指している。以前は旅館福一へと向かう近道があったのかも。
これだけ大きな店舗であったら、赤線としての歴史も持っていそうな。昭和42年の住宅地図を見ても、池田としか書いてないので詳細はかわらないが。
壱番館
小料理いけだの隣にあるのは、「壱番館」という喫茶店のような建物。しかし、よく見ると、小料理いけだの建物と一体であることがわかるだろうか?昭和48年の住宅地図では、壱番館も含めていけだの建物であるので、表だけを改装したのかもしれない。
小料理いけだの店舗前に、壱番館の看板が放置されている。コーヒー200円、チモトコーヒーとある。
昼は壱番館。夜は小料理いけだという風に時間帯で営業を分けていたとか?
壱番館は、私がとても好みの建物。装飾に注目してみてほしい。
壱番館、というフォントが独特すぎて、異世界のようなお店。営業していた時を見てみたかった。
今にも、押して店内へと吸い込まれそうな。情報が無いのが残念。
新道通りへ
壱番館を後にし、再び新道通りへ。壱番館の隣にある「ワタナベ」は昭和42年では「バーセキネ」、その後48年に「ワタナベかばん店」に。
ワタナベの奥にある、飲食店が並んでいる場所。昭和42年~昭和60年の住宅地図では、「角海老」が建っている。角海老というと、関東ではチェーン展開をしている風俗店。まさか、成田にもあったとか?それとも角にあるから、角海老なのか?
新道通りを、駅の方面へと戻る形で歩く。
クラブ「ジュネ」は、昭和60年の住宅地図で確認。白いネオンが夜はどのように光るのか、楽しみ。
建物と駐車場の間から、先ほどの七五三の建物が見える。抜けられますの世界のようだ。しかし、これも次に行ったら見れないのか。
富婦㐂と書いて「ふぶき」と呼ぶお好み焼き屋。なんてハイカラネーム…しかし、過去の地図には載っていないため、最近できたお店。
東洋
成田の赤線探索の女王と言える名スポット「東洋」。なんと表参道からすぐ裏にある建物。
お食事処東洋と、パブスナック東洋が営業している。お食事処東洋の2階部分の窓は簾がかかっているが、彫り物が綺麗なのだ。
パブスナック東洋は、口コミでもかなりの高評価。色とりどりのカクテルが楽しめると人気。1959年にオープン。
入り口は、斜めの手摺。これはカフェー建築でもよく見られる特徴。
ボトルが飾られたショーケース。昭和レトロな雰囲気が漂っている。
表参道のすぐそば
表参道のすぐそばの道に、東洋などこんなにも昭和感あふれる風景が広がっていたとは。この通りには、「まさき食堂」「高野肉店」「とん珍肝」というお店があった。とん珍肝ってどんなお店だろう?
「鈴木仏具店」は、渋い赤色の建物。
「いらっしゃいませ」の文字が達筆で美しい。
再び新道通り
再び新道通りを戻り、成田山新勝寺の方面へ。赤線探索でよく出てくる透かしブロックがある場所。
ひょうたんが2か所あるので、探してみてね。
何度も重ね書きされている「三福」は食堂だった模様。なぜ、ここまで塗りなおしされているのかは疑問。
美容室、商店が立ち並んでいた通り。現在新しい民家になっている場所には「旅行案内所」もあったらしい。
通りを出ると一気に開ける。左手には映画館があったが、道路の整備によって、元の道路とは異なってしまった。
8軒、29名。果たしてどこで花を咲かせていたのだろうか。詳しい場所などはわかっておらず、曖昧なまま、小料理屋の建物も取り壊しになっている。
成田の赤線は特に情報量が少なく、本当に存在したのかわからないくらいだが、現在も残る怪しい妖艶な雰囲気の建物たちが、大人の街であったことを教えてくれる気がする。
追記:成田山新勝寺鳥瞰図
成田駅東口を中心とした昭和13年に松井天山によって描かれた成田山新勝寺鳥瞰図を見ていて、気になったことがある。
黄色が今回扱った場所。よつや食堂、駅弁飯塚、銭湯、花崎会館、魚料理一成、角海老。花崎会館は昭和20年の火災で焼失したが、周りの建物とは雰囲気が違う3階建てのコンクリート製のようなビル。燃えてしまったのが残念だが、鳥瞰図で姿を確認できるとは。
角海老は昭和20年の火災で焼失してもなお、その後再建したのか…一体どんなお店なんだ。なんて強い生命力。角海老が吉原以外に支店を構えていた可能性も含めて調査したい。そのほかにも、カフェーが何軒も並び、賑わっていたことがわかる。
昭和20年の大火災から復興し、映画館、カフェー、麻雀、大人の街として栄えた裏道が成田山新勝寺の表参道から一本裏に広がっていたということに、少し目を向けるといつもの景色が違って見えるかもしれない。歴史は簡単に作ることはできない、積み重ねていくもの。記事を通して町の小さな歴史を受け継いでいきたい。
(訪問日:2020年7月)
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富婦㐂はいまから35年前にはすでに存在しており、かなり年季の入ったお好み焼き屋さんだったと記憶しています。
そして、とん珍肝は中華料理(中国)屋さんでした。中華といいっても街中華といった雰囲気でもなく。横浜中華街にある中華料理屋さんでした。最近は牛のお尻を看板にしている焼肉屋さんになってしまいました。