那古寺の歓楽街の歴史。内房で珍しい”粋な町づくり”と房州一の山月楼 -那古⑶

那古寺の歓楽街の歴史。内房で珍しい”粋な町づくり”と房州一の山月楼 -那古⑶

那古寺の門前町として古くから栄えた那古。”房州一の旅館”と称されるほどの料理旅館「山月楼」は、多くの文筆家にも愛されていた。

また、花街としての賑わいもあったらしいという情報を聞き、図書館で調べてみると『那古町史』や昭和の住宅地図から那古町がいかに繁栄していたかを知る事ができました。

山月楼~映画館、門前町の様子についてまとめます。

門前町として栄えた町

今回は主に『那古町史』から引用させていただきます。

江戸時代~参拝客で賑わった町

まず、「門前町として栄えた町」として那古町についてまとめられている。

那古寺は、観音霊場であると共に岩船地蔵尊もあり、海上安全の霊験あらたかなほとけ様として、多くの海運業者・海産物商・漁業関係者の信仰が篤かったことは、境内にある多くの石造物からも推測出来る。
また、この寺は、安房国観音霊場第一番札所として、近郷の村々から多くの参拝客で賑わい、その帰途には、阿伽井下(赤井の下)・寺町・芝崎・宿町の歓楽街で、楽しい一時を過したことであろう。

老中・松平定信や東海道中膝栗毛の十返舎一九なども訪れたことがあるらしい。広い境内には時々、芝居小屋や勧進相撲なども開催されたという。

歓楽街の様子については後ほど。

Advertisement

那古寺周辺の町づくり

また、門前町として房州一の繁華街であった那古。明治時代以降、その町づくりも他とは変わった特徴があったようだ。

この頃の町は、内房地方には珍しい、やや粋な町づくりが形成されていた。那古山の麓には加美屋・長井楼・恵比寿屋・山月楼(後の山田屋)・岩崎館・大黒屋・杉田屋・中村旅館等が多くの来町の客の宿となり、松新は、内房地方の芸妓を置く高級料理店の草分けとなり、宮沢酒店直営のカフェー・磯垣元吉経営のビリヤード・英楼や梅月(三味線指南の家)等があり、人力車の詰め所も出来た。

多くの旅館が並び、特に「松新」という料理屋は「内房地方の芸妓を置く高級料理店の草分け」となったほど。

花街としての賑わいがあった、という地元の方からの意見は松新を筆頭とした旅館の賑わい、そして宮沢酒店のカフェーが該当するものだと考えられる。

これらの多くの客を相手とする旅館や飲食店の多くは、徐々に衰退をし廃業をしていったものの、戦争激化の時期を除いて、ほぼ昭和20年代前半まで営業を続けた。

手元にある昭和35年の住宅地図にも、長井旅館(長井楼)、山田屋旅館、大黒屋旅館といった老舗旅館が描かれているので戦後20年近く経っても営業していたことが分かる。

 

那古の花街について、ネットで検索しても情報は見つからない。昔のことを覚えている方も少なくなる中、今少しでも分かる範囲で記録に残しておかなければと思う。

Advertisement

那古クラブ

次に、那古寺の境内にあった映画館について。那古寺の表門入口右手に存在したという。

境内にあったこの建物は、多分、大正十二年(1923)の関東大地震後、阿伽井下ノ下・寺町・中浜・芝崎周辺の旅館経営者等が株仲間となり、設立したものと思われる。このトタン葺き木造の建物は、那古の人達にとって、戦前から戦後少しの間、大衆演劇・浪曲・映画等を提供する楽しみの場所となった。

当初は「岩城館」、後に「那古倶楽部」へ。

戦後は、館山駅近くの北条キネマ通りにあった竹沢興行社が介在していたとのこと。

興行日になると、クラブの前には色鮮やかな織り旗が何本も立ち並び、興行が行われない日は、無声映画の活動館に。

戦争が激化すると、戦意高揚の目的で、小学生が陸軍将校の話を聞いた後、映画を見る機会が多かったそうだ。

戦後、建物は取り壊され、しばらくしてから「浅見屋旅館」が建てられた。昭和35年の住宅地図に載っている。現在は那古寺の駐車場となっている。

Advertisement

山月楼(山田旅館)の話

那古観音前にあった旅館「山月楼」について。当時、”房州一の大きな旅館”といわれた山月楼は、那古寺の表参道の階段のすぐ近くに存在した。

料理店を兼ねていたため、昼間から芸者をあげ、賑やかに騒いでいる客もあり、かなり繫昌していたそうだ。写真は見たことがないが、当時の絵図が明治期の『日本博覧図』に「旅人宿兼料理屋 山月楼 山田屋新平」として描かれている。

小栗風葉は、山田屋に二か月半滞在して小説『恋ざめ』を執筆。多くの文筆家が仕事を携えたり、仕事の合間の静養に訪れたという。他には、風葉の先生である尾崎紅葉・徳田秋声・佐藤紅緑・広津柳浪など…旅館とのエピソードが多数残っている。

山田屋とは、小説家向きで、しかも、気さくで文学を解する女将のいる旅館であったのである。

山田屋旅館、現在は姿形を想像することしかできない。

 

那古町の旅館の様子については次のとおり。

那古観音の門前町と港町として栄えた那古には10軒近くの宿屋があり、那古寺の参詣人、港町として江戸(東京)や諸国への出入りする人の宿泊、行商人等の商人宿、明治以降は夏の避暑客で大変なにぎわいであった。

夏の臨海学校として各旅館が満員の時もあったそうでびっくり。

料理、飲食店について。

江戸時代から明治・大正にかけて那古は多くの人々が集まって来る様になり料理屋が四軒、飲食店が七軒、街道筋の正木、亀ヶ原にも数軒あった。中でも上総屋の「朝日寿司」は那古の名物として有名であった。芸者の置屋迄もあり歓楽街としても房州一の時もあったので、人力車屋が九軒もあって、現在のタクシーの役目をしていた。

芸者の置屋もあり、人力車が九軒…!恐るべし那古町の賑わい。

賑わいの中心は、那古寺の門前の「寺町通り」を中心に、裏通りの「中浜通り」、東には那古町役場も存在したので広範囲に商店が並んでいたようだ。
『那古町史』には大正時代初期の店名が描かれた地図が資料として載っており、今回大変参考にした。

Advertisement

寺町通り

那古観音の表参道から那古観音前の交差点までの南北の道が「寺町通り」。山田屋旅館、那古クラブなどがあり、一番賑わっていたと思われる。那古町道路元標も存在!

大正時代初期と比べて、現在も残っているのは「那古郵便局」(建物は新しい)、「釜屋呉服店」くらいだろうか。

釜屋呉服店(廃業)

大正時代初期には、那古観音側から南にかけて、
甘酒屋・山田屋旅館・稲本蕎麦屋・すしや上総屋・栄楼・質屋・玩具屋・薬屋・宿屋大黒屋・郵便局・釜屋呉服店。
向かいに那古クラブ・薬屋・料理屋松新・雑貨屋中村・銀行丸屋など。

そして、雑貨屋中村屋の辺りに現在木造2階建ての「大和屋商店」の建物が残っている。

大和屋商店と思われる

青い文字で描かれた大和屋商店の文字は見えなくなっている。

大和屋商店
反対側

ピンク色の下見板張りの洋風な建物。最近まで不動産「那古屋開発」として使われていたようだ。

洋風で可愛い
正面

隣の空き地に、気になるものが…これは庭園の名残?もしかして、ここに存在した料理屋「松新」のものだろうか、と勝手に淡い期待を抱く。

庭園の名残?

現在、寺町通りには旅館は一軒も残っていない。ここに、盛者必衰の理あり…

寺町通り
Advertisement

中浜通り

メイン通りの寺町通りの一本西側の裏通りが「中浜通り」。前回紹介した酒屋「喜寿屋酒店」の店舗横にある道である。現在は閑静な住宅街だったので歩かなかったが、この通りにもいくつかお店が並んでいた。

北側から、芸者屋・箱や・菓子屋・米屋山本(現役)・髪結い・電気屋・料理屋中松・仕立て屋・宿屋坂本…

あんこや、風船屋といったお店も気になる。

裏通りにある山田医院
Advertisement

那古町役場周辺

そして、那古寺の交差点から東に伸びる道にも商店街が広がっていた。というのも、現在は無くなっているが、館山バイパスが通っている千葉県館山市那古414の辺りに「那古町役場」が存在。

さらに北側には「那古尋常高等小学校」も存在していたことから、人の往来が活発だったのだろう。

大正時代から変わらずに営業しているお店はほとんどないが、大正時代には道の両側にびっしり商店が並んでいた。その中で特に気になったのが、醤油屋!3軒もあった。

醤油醸造を那古で営んでいたということも初めて聞いたし、醤油だけでなく酒蔵もあったようだ…

現在は、交差点の角にスーパーUEDAがあったが閉業していた。

スーパーUEDA

つい最近まで営業してような雰囲気。この町の人々はどこに買い物へ行っているのだろう…

閉店していた
焼きたてパン

 

元、篠瀬商店?

ここからさらに東へ商店街が続いていたのも昔の話。現在は古い建物も取り壊され、商店街の雰囲気はない。

現在周辺の地図

館山バイパスが全線開通したのが1993年。那古町役場の周辺は開発され、跡形も無く大正の面影は消え去った。

Advertisement

明治30年頃の那古地区

明治30年頃の那古地区(庄司熊夫氏略図より抜粋)

旅館業 8軒
加美屋
山月楼(山田屋)
岩城館
大黒屋
中橋
大和屋
大阪屋

呉服商 6軒

醸造業 4軒
長谷川醤油醸造
関酒醤油醸造
加藤醤油醸造
加藤半蔵麹味噌

雑貨 8軒
鍛冶屋 2軒
造船 2軒
理髪 2軒
材木商 5軒
書籍、薬屋、硝子、建具、金物、米屋、豆腐、茶、シャツ、瀬戸物、ちょうちん、三味線教授、病院

銭湯 亀ノ湯
料理店 井筒屋

那古の門前町としての賑わい。

山田屋旅館など、検索をしてもネットにはほぼ情報が無い。こんな情報をまとめて読む方がいるのか、不安になる気持ちもあったが、少しでも地域の歴史に興味を持ってくださる方が増えると嬉しいです。

 

(訪問日:2021年9月)

error: このコンテンツのコピーは禁止されています。