実籾「八幡稲荷神社」二宮金次郎像が保存。歩兵第五十八連隊と出世稲荷 -実籾⑾

習志野市、実籾駅から徒歩10分ほど。市立習志野高校の近くにある小さな「八幡稲荷神社」。
実は、習志野の陸軍との関わりも深く「出世稲荷」として現在も親しまれている。
実籾「八幡稲荷神社」の二宮金次郎像
千葉県習志野市東習志野2丁目6−15。京成本線「実籾駅」から北へ徒歩10分ほど。カーブ沿いに昭和な飲み屋街が広がる一角に「八幡稲荷神社」がある。飲み屋街の記事→「稲荷通り商店街」飲食店街。カラフルな昭和感溢れる建物が並ぶ飲み屋街 -実籾⑵
昭和感のある飲み屋街も最近は建物が取り壊されて空き地が増えている。そんな飲み屋街の向かい側、公園の隣にある八幡稲荷神社。

鳥居も社も綺麗に塗装されている。
右手に公園があるので子どもたちが境内を走り回っていた。なんだかほっこり。
社は正面の小山の上に建つ。周囲には奉納のぼり旗がずらり…地元の企業からの奉納に圧巻される。

そして鳥居の傍に見えるのが、二宮金次郎像。


冬だったので暖かそうな帽子とスカーフ、鞄を身に着けていた。地元の方に大事にされている様子。

地元の方に伺ったが、なぜこの場所に二宮金次郎像があるのか分からないらしい。普通、小学校にいることが多いが、近くの学校から移設されたのだろうか。

各地に残る二宮金次郎像も記録しようと思ったのは、この二宮金次郎像がきっかけだった。あれから1年、どれだけの二宮金次郎像に出会っただろうか。またまとめたい。

八幡稲荷神社と軍隊との歴史
続いて八幡稲荷神社の歴史へ。

大正7年に建立された碑。森川組という建設会社が習志野廠舎を建てた…?

こちらは、道路側にある八幡稲荷神社の説明看板。

創立年月は不詳だが、千葉氏一族が猪鼻城や千葉の町を灰燼にした(西暦1450年)前後に住み着きこの八幡宮を創立し再起戦勝を祈願したと伝えられているという。
その後、実籾一帯は江戸時代には小金牧として放牧用地に。明治天皇行幸時に習志野原と命名された。

さらに明治期には習志野に駐屯した歩兵第五十八連隊第一中隊長の尊崇を受けた。出世稲荷と呼ばれる由来も興味深い。
明治二十三年からは遊猟場となりうさぎ・きじ等を飼育して冬に貴人達が村人と一緒に狩を楽しみ、同三十七・八年の日露戦争役から此の境内地をも含めて俘虜収容所用地として陸軍省に買収さる。其の後第十五師団臨時駐屯し此の神社の丘を平坦にせむと崩し始めるや怪我人続出し工事捗らず。然れども軍の命令は厳しく尚も続行するが遂にその工事長高熱を発して仆る。只事ならずと工事の中止を嘆願すればさすがの陸軍省もその神罰を恐れ現在の塚だけを残し玉垣を囲み境内地となし軍の管轄より除外せり。
師団内の歩兵第五十八連隊第一中隊長信仰心厚くよくよく兵と参拝し射撃大会は三年間連続して師団一となる。後年同連隊越後の高田へ移駐と決定。八幡宮は連隊発祥の地なる故となし守護神として高田連隊に遷宮す。
然るに連隊内に悪疫流行し、連隊長(後の堀内大将)大いに心痛す。或る夜稲荷夢枕に立ち「旧つ御座に還りたき」とのお告げあり、急遽北陸より着剣武装兵警護のもとに還御せり。されば猛威を極めた悪疫もたちまち霧散し一同改めて御神霊の尊きに戦慄したという。
為に五八稲荷の称は今日にも及び又、俗に出世稲荷とも云はれ当たる、栄える神として近郊の信仰を集めている。
明治四十三年四月二十八日政令により土地・立木を本社大原神社に譲与合祀された。
大正七年に建築された本拝殿は昭和六年十二月一日不慮の災いに遇い、一切を烏有に帰したが、軍の絶大なる支援を得て氏子崇敬者一丸となり翌七年今の神殿が竣工した。
さらに、2月11日の「初午祭」が有名だという。かつての歩兵第五十八連隊の方々が集ったそうだが、現在はどうなのだろう。
例年2月11日の「初午祭」が有名です。かつてこの日は58連隊の軍人がお参りをしていました。終戦後は58連隊の方々が毎年この日に集まり、同期会を開催。参拝後は、大久保にある食堂でお酒を酌み交わし、昔話に花を咲かせていたようです。(まいぷれ習志野「赤い鳥居が目印 小さくても愛されている「実籾八幡稲荷神社」」より)

また、「習志野名所」として戦前の絵葉書にもよく登場する。

焼失する前の神殿が映っているが、現在と雰囲気は変わらず…
(訪問日:2022年2月)
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