幕張町、房総往還沿いの歴史ある商店街を探索。馬加康胤首塚も
今回は、幕張町の旧道、房総往還沿いを歩いてみようと思い立ち、母と探索へ。今まで京成幕張駅前の昭和な商店街は紹介しましたが、かつての旧道沿いにも面影が残っていました。
「幕張銀座通り商栄会」レトロな商店街”銀座”、昭和にタイムスリップ! -幕張⑷
房総往還沿いの幕張町
千葉県千葉市花見川区幕張町3丁目。京成本線「京成幕張駅」から西側の住宅街を通る旧道を目指して歩く。下の写真、右手に伸びる道が房総往還である。
かつてはこの道の南側にある国道14号線から南は海で、今回歩く房総往還は海沿いに船橋~館山まで伸びる旧道。かつての面影を辿りつつ、西へ歩いてみることにした。
「日の丸堂たか子記念館」(下宿)
京成幕張駅に近い辺りは「下宿」と呼ばれていた。
なぜか現在は撤去されているが、房総往還沿いの民家の塀に石碑が3つ設置されていた。2014年頃まで存在。
「日の丸堂たか子記念館」と上にあり、左手前から「昆陽神社 小路通り」「千束山小学校校歌」の石碑がある。かつてはこの細い道を進むと昆陽神社にたどり着き、その道沿いには「幕張町役場」や「青果市場」が存在したという。
現在は区画整理されていて面影は無。「日の丸堂たか子記念館」はどんな記念館だったのだろう?この辺りには、かつて信用金庫もあり、町の中心だったことが窺える。
2010年頃に確認できる古い建物。井戸も。
左手に見える青い屋根がついた建物は4店舗ほど連なった商店群。
2010年のストリートビューを見ると、居酒屋が営業していたことが分かる。
商店街(中宿)
令和4年で150周年を迎える、千葉市立幕張小学校。そこから西側の辺りが「中宿」である。下の写真、右手の建物は元鮮魚店。横道を行くと小学校に着く。
昭和20年代までは隣に塩屋も存在したようで、海が近かった生活が感じられる。
緑のテント屋根が残る建物は、元時計店。2010年時点で閉まっている。
幕張町3丁目公園、かつてこの辺りには巡査駐在所や火番所が存在。
ふと空き地を見たら貝殻がたくさん。本当に海が近かったんだな…
交差点角の緑のテント屋根の建物は、公衆電話のマーク入り。
「中里菓子店」、2010年頃は営業していたみたいだが…古くから営業している和菓子店だったようなので残念。
隣と斜め向かいには「代官屋敷」も。この辺りには立派な邸宅が多いので代官屋敷が存在したのも納得。
そして向かいには銭湯も存在したようだ。
銭湯はこの界隈だけで3軒。現在は無いが、以前調べた千葉市の銭湯一覧の記事で、「吉の湯」が存在したことはつかめたので、他にも2軒の銭湯が存在したことが分かった。
さらに、中里菓子店から南の、かつての海近く、花見川動物病院の南側には料亭も存在したとか。海沿いの料亭、気になるな~
元鮮魚店(上宿)
そして旧道沿いを西へ進み、上宿へ。中里電器店は現在も営業中。
さらに先に進むと鮮魚店「魚治」。私が行った日が日曜日だったのでお休みだったと思われる。
その隣の古民家に残る牛乳箱。幕張販売所は現在存在するのか…
ここは最近まで営業していた?「井戸屋」とあるが、井戸屋というのは屋号?
さらに鮮魚店の向かいには「寿屋酒店」が2010年頃まで存在したが、現在は新築一軒家に。
横道に置いてあった寺の案内の石碑も無くなっている。
また、現在は面影が全くないが、並びには荒物屋や醤油屋、下駄屋などが存在したらしい。醤油屋だったと思われる場所には現在も広い邸宅が残っており、醤油を醸造していたと考えてもおかしくないほど広い。
また、向かいの邸宅で気になるものを発見。
軒下の白い、小さなうだつのようなもの。左右についているが、他ではあまり見たことがない意匠だと感じた。
房総往還から北へ、幕張総鎮守の子守神社へ寄り道。鳥居への道沿いには珍しい伝書鳩の小屋らしき建物も。
安産子育の社として崇敬される幕張町の総鎮守産土神。この時は地元の方々が集まっていて、境内をよく見ることができなかったのでまた改めて訪れたい。
金比羅神社(幕張1丁目)
幕張1丁目、房総往還を南に行く途中、住宅街に囲まれて異様な雰囲気の神社を見つけた。
細い参道の奥に鳥居が…とても雰囲気がある。
しかも鳥居は歴史を感じる木製。
鳥居から先に階段があり、その上に社があるようだが、階段から見た鳥居もなかなか趣深い…
高台の上にある金比羅神社。鬱蒼と茂る木々、夏だったので虫が多くて困ったなあ。
しかし、肝心の社が無い…基礎のみ現存。
灯篭も倒れてしまったのか土台部分のみ。哀しい…
金比羅神社跡になってしまった。新しく立て直すのもお金がかかってしまうのだろう。
しかし、境内は比較的綺麗に清掃されており、地元の方々が管理されているのだと思う。反対側にも神社の入り口が存在した。
馬加康胤首塚
お次は、西側の大須賀山(堂の山)に存在する馬加康胤首塚へ。
地図を辿っていくと墓の中を抜けていくルートになるが、それで正解らしい。古い墓地を抜けて、小高い大須賀山を登る。
首塚と看板あり。
細い山道を半信半疑で登っていくと、首塚がある。幕張にこんな場所が存在するとは知らなかったので驚いた。
そして、さらに山の上の小高い丘の上に建つ馬加康胤首塚へ。
馬加康胤(まくわりやすたね)は、室町時代前期の武将。
房総往還沿いに建つ案内看板に、大須賀山の自然と文化財という説明がある。
この岡は標高15m程で、南側は埋め立てられるまでは直接東京湾に面していたという。千葉市内では貴重な自然。この丘の中腹には元々独立した「大日堂」があったため、堂の山とも呼ばれているそうだ。
最後に、大須賀山の西側の道が「茶屋坂」と呼ばれているのが気になった。
茶屋坂ということは、旅人が立ち寄る茶屋があったのだろうか…現在は交通量が多く、狭い道なので立ち止まるのは危ない。
追記:地元の方より
茶屋坂について有力な情報を頂きました。茶屋の家が昔あり、茶屋というのが屋号として残っていたそうです。茶屋の由来については分からないらしいです。また、幕張町3丁目にあった銭湯の名前は「吉の湯」だったそうです。
幕張町の探索が意外と充実したものだった。次は検見川町へ。
(訪問日:2021年9月)
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貝殻を撒くのは昔の人の習慣で、壁際の地面が凹んでる所とか外の水道回りなどに貝殻を撒いて水撥ねを防止しました。よく撒いたのはナガラミですね。これは丸いので足を切ったりする心配が少ないからです。
父もよく昔は庭の凹んでる所に撒いてましたよ。あさり、ハマグリも撒きましたね。