京成津田沼駅の南側を歴史散歩。大六天神社(たぬき山)~旧津田沼小学校を辿る

京成津田沼駅の南側を歴史散歩。大六天神社(たぬき山)~旧津田沼小学校を辿る

今回は、京成津田沼駅周辺の歴史散歩へ。以前も歩いたことがあるので、だんだんとマニアックな史跡巡りになりますが…!お付き合いください~

マンションの一角に残る神社(へび神社)

前回は、京成本線「京成津田沼駅」周辺の「御大典記念道」を記事にまとめたので、さらに裏道を歩いてみる。

千葉県習志野市津田沼2丁目4−26。習志野郵便局近くのマンション「コスモヒルズ津田沼」の細い裏道に出た。

コスモヒルズ津田沼

マンションの南西角の一角に鳥居が建っていた。Googleマップを見ても神社の名称が無いのだが、1年前の自分はなぜここに辿り着いたのだろう。

小さな神社

境内に入ると小さな社が。境内は綺麗に整備されており、屋根に覆われた社が守れている様子。開発が行われて周辺は高層マンションが建っているが、ここだけ自然と歴史が残っている。

小さいながらも落ち着く

手水鉢に「昭和廿五年一月吉日」とあった。

ネットで軽く検索しただけでは、情報が出てこない。気になる神社だった。

追記:地元の方より

習志野郵便局近くの「小さな神社」は、地元は「へび神社」と呼んでいるようです。別にへびが棲んでいるわけではなく、なぜこう呼んでいるのかわかりません。窪地なので、昔は池でもあって、弁天様だったのかなとも思いますが、鳥居はあるのに社号の石標などなく、さりとてどなたか管理している様子もあって、不思議な神社ではあります。

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大六天神社(たぬき山)

千葉県習志野市津田沼4丁目5。次は、習志野市立津田沼小学校の南側にある神社へ。

津田沼小学校の南側

津田沼幼稚園の隣に、背の高い松林が並んでいる。こちらも開発から免れた一角だろう。

松の木が悠々と

小高い丘の上に建つ神社、こちらは「大六天神社(たぬき山)」と呼ばれているそう。

大六天神社(たぬき山)

2013年に撮影された「神社散歩」というブログにて詳しく紹介されている。

【由緒】
幼稚園に隣接した小さな小山、通称“たぬき山”にある神社。
このたぬき山、大正のころまでは「大六天さまの山」と呼ばれて長い階段があり、その下の町(当時、浜宿といわれていた地帯)の海で働く人々に信仰されて、毎月賑やかな市が開かれるようなとても盛んな神社だった…
埋め立てが進み、海が遠くなるとともに、海で働く人がいなくなったことで、神社もひっそりとしたものとなった。
ここから500mほど海側にくだった先に、この“たぬき山の大六天神社”から分社されたと言われている神社があったが、社殿がかなり老朽化した末、2010〜11の頃に撤去されたらしい。

由緒の出典が書いていないので真偽は不明だが、長い階段があったという記述からも今よりも高さのある丘だったのだろうか。

国道14号から南側が海だった時代に人々からの信仰が篤かった神社。分社は10年ほど前に撤去というが、どこにあったのだろう?

大六天神社 現在

社の手前に並ぶ二対の小さな狛犬。長年の風化からか顔の表面が…

狛犬
明治28年建造

追記:地元の方より

「大六天」の分社というのは、徳山外科の前あたりです。津田沼7丁目3番26号

赤丸したあたり、図書館で20年前ぐらいの「住宅地図」を閲覧してみてください。これまた、羽目板が外れてボロボロの社がありました。

「大六天」とか「第六天神社」というのは、天神さまが六つあったわけではなくて、「第六天」のいう魔神を祀ったものらしいですね。津田沼のこのあたりでは海坊主のことで、海難に会わないよう祀ったのだと聞いたことがあります。

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菊田公民館(旧津田沼小学校)

大六天神社から東へ進んだ通りにある「習志野市菊田公民館」へ。

菊田公民館

習志野市内最古の公民館だという。確かに古めかしい。また、習志野市は公共施設を集約する方針で、取り壊しの予定があるそうだが…

そして菊田公民館の向かいにある「丸田集会所」の脇に大きな板碑が建っている。

集会所の隣

「日露戦没記念碑」。元帥陸軍大将・山県有朋の筆によるもの。津田沼に彼の書があるとは知らなかったな~

日露戦没記念碑

習志野市の「新ならしの散策 No.77」に詳しく紹介されている。→百年前の戦争1 日露戦争の碑(いしぶみ)

今から100年前、ロシアとの戦争(日露戦争1904年~5年)のため、多くの兵士が大陸の戦場へとむかいました。習志野市域からも多くの兵士が出征し、中には命を落とした者もいました。

旧津田沼町の資料などにより、およそ180名ほどの兵士が、現在の習志野市域から日露戦争に出征していたことが確認されていますが、すべての兵士が明らかになっているわけではありません。その手がかりとなるものに、市内に残された日露戦争を記念した石碑(忠魂碑<ちゅうこんひ>など)があります。

菊田公民館の前には「日露戦役(せんえき)記念碑」があります。その背面には津田沼地区から出征した45名の兵士の氏名が刻(きざ)まれています。ここに書かれた兵士の所属部隊を調べると、大久保の騎兵連隊や佐倉の第2連隊(後水戸に移転)に入隊し、旅順(りょじゅん)・奉天(ほうてん)の激戦地を転戦した者が多いことが分かります。このほか藤崎堀込貝塚の近くや、谷津の丹生神社・実籾の無量寺の境内(けいだい)にも石碑が残されています。

これらの石碑の多くは、戦後地区ごとに建設されたものですが、戦死した兵士個人の慰霊碑も市内にはいくつかあります。「三代川 富五郎(みよかわとみごろう)君碑」(写真)は国道14号線沿いに建っています。明治政府は、夥(おびただ)しい数の慰霊碑が林立する光景が国民の戦意を挫(くじ)くことを懼(おそ)れたため、個人の慰霊碑を墓地に建てることを制限しました。この石碑が民家の敷地内に建てられているのも、このためかもしれません。碑面には明治12年生まれの富五郎氏が明治38年(1905年)4月、26歳で戦死するまでの戦歴やその人柄が刻まれています。温厚で親孝行な富五郎氏は、騎兵第14連隊に属し、奉天近郊の戦闘で勇敢に戦い戦死しました。

碑文の最後には「出征中に一女(いちじょ)が生まれる」という文字があり、富五郎氏の出征中に娘が生まれたことが記されています。愛娘(まなむすめ)の顔を見ぬまま戦死した三代川 富五郎氏と遺族の悲しみが、その碑面からうかがえます。

「三代川 富五郎(みよかわとみごろう)君碑」の碑も今度見に行きたい。

津田沼尋常高等小学校の一文も

菊田公民館は、かつて創立した当初の津田沼小学校の跡地。瀬山とみ著『あしあと』に津田沼小学校についての記述が詳しい。

校庭には日露戦争の忠魂碑が建てられ、銀杏の若木が記念樹として植えてあった。

菊田公民館の建造にともなって、忠魂碑は道を挟んだ向かいに保存されている。

鷺沼の石工 廣瀬

そして裏面には、鷺沼の著名な石膏・廣瀬家の名前入り。各地で廣瀬氏による石造物を見かける。

明治22年製

そして周辺で見かけたいすみ市・大原町の木戸酒造の入れ物など。

植草綿ふとん工場

 

 

(訪問日:2022年2月)

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