「勝生病院」京成大久保、商店街裏に眠る病院建築の片割れ -京成大久保⑵

「勝生病院」京成大久保、商店街裏に眠る病院建築の片割れ -京成大久保⑵

「病院建築」って意識して見たことはあるだろうか?廃墟のカテゴリーでも病院は独特な雰囲気を醸し出しており、人気のカテゴリー。私はそんな昭和の病院の名残を探索するのが好きだ。

 

「京成大久保駅」は、東京の大久保とは違って千葉県習志野市にある京成線の駅。よっぽどの用事がないと降りないと思うが、調べたいことがあり、探索することにした。

 

大久保商店街

現在は日本大学生産工学部や、東邦大付属高校の最寄り駅ということもあり、学生のまちとして知られる京成大久保。しかし、歴史を調べてみると、軍隊と非常に大きな関わりがあったことがわかる。

 

硫黄島で亡くなった悲劇の金メダリスト、とも言われるバロン西も大久保にいた。軍隊と関係が何かと深い赤線、青線。近場でいうと、千葉市や船橋市の海神新地が赤線だったと言われているが、習志野、大久保ではそのような噂は聞いたことがない。

 

と思ったが、調べるうちにそうとも言えなくなってきた。この話についてはまた別の記事で書くとしよう。今回は気になったある病院建築について書くのだ!

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勝生医院

大久保駅前から日本大学生産工学部に向けて伸びる長い商店街の途中に、「習雲山薬師寺」というお寺がある。このあたりがちょっと怪しいと踏んでいるのだが、その裏の道を散歩していた時のこと。

明らかに住宅街に馴染んでいない木造建築が残っていた。

古い木造建築

不思議に思い、調べてみると、昭和33年の住宅地図では「勝生医院」と書かれていた。開業したのは果たしていつなのだろう?昭和43年の住宅地図では「勝生内科医院」となり以前よりも少し規模が拡大している。昭和64年(1989年)の住宅地図では建物には名前がなく、隣に「明林塾」と繋がっているようにも見える。

現在は一軒家になっている角まで、病院の敷地が広がっていたと思われる。一歩遅かったか…

手前から敷地だった
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病院の渡り廊下

新しい一軒家と木造建築を繋ぐような、赤い屋根屋根がついた廊下が残っていた。行き来できる廊下だったのだろう。あまり高さはない廊下ではあるため、スタッフ専用だったのかもしれない。

渡り廊下が残っている

渡り廊下の繋ぎ部分は、無理やりカットしたような痕跡が残っていた。でも壊さずに残っているだけありがたいか…

無理やりカットされている

また、手前にはコンクリート製の小屋がある。

コンクリート製の小屋

たぶん、風呂だったのだろう。離れに風呂が備えつけられていたということで、残っている部分は住居スペースかも。

ガラスがとても綺麗
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病院の勝手口

柱には、「勝生医院 勝手口」との表示。勝手口だったということで、質素なつくりではあるものの、門柱はデザイン性がある。

勝手口

赤い線が入っていて、門柱の上部はなんとも言えないもにょもにょ。もしかしたら、解体された表口には古い看板があったんじゃないかなと。

勝手口と門柱
門柱の上部
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勝手口付近の建物

覗いてみたら、井戸があった。現在は使われていないみたいだけど、そのまま残っているなんて珍しい。

奥にも続いて木造建築がある。

2階建ての木造建築
窓が少し水色みたい

 

住宅地図を見ると、昭和64年にはすでに廃業してしまったのか…

現在、この建物に住んでいる方は院長さんの娘の方だそうで、その方のお父さんが一代で経営をしていた病院のようだ。病院建築の片割れ、表の建築も見てみたかったなあ。

 

(訪問日:2020年7月)

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