九十九里町片貝「幻の本土決戦」/戦後米軍「キャンプ片貝」が設置された歴史 -片貝⑶

九十九里町片貝。「幻の本土決戦」を免れたイワシの町に、戦後米軍のキャンプ場「キャンプ片貝」が設置され、およそ10年におよぶ住民たちと米軍との苦闘が存在した。しかし、この歴史を知っている方は多くは無いのではないでしょうか。
戦前~戦後にかけて、小さな町で起こった片貝の激動の歴史をまとめたいと思います。
『永遠の平和』より片貝
今回主に参考にした本は『永遠の平和(崙書房出版 (2015/12/1))』。
他にも『千葉県の戦争遺跡をあるく(国書刊行会 (2004/8/1))』なども参考にさせていただきます。
『永遠の平和』より「九十九里町の『赤とんぼ』 米軍におびえた漁師町」に幻の本土決戦~戦後の米軍キャンプの悲惨な状況が詳しくまとめられている。今回は抜粋してご紹介するので興味がある方は是非ご一読を。
《『永遠の平和』見出し》
幻の本土決戦
米軍基地「キャンプ片貝」
相次ぐ無人機事故
深刻な漁業被害
智恵子が愛した砂浜
幻の本土決戦より
戦中戦後の九十九里浜の変遷を見つめてきた鈴木さんの証言とともに戦中~戦後の話がまとめられている。
四四年五月、陸軍は米軍の本土決戦を想定し、九十九里をはじめとする沿岸部の防衛を強化する。十月には九十九里浜の基地建設作業が始まり、潜伏場所や武器を配備するための穴を掘った。
九十九里一帯はイワシ漁が盛んな漁師町だったが、戦争で漁に出られなくなった納屋に部隊が駐留するなど、戦争一色に。1945年になり、東京大空襲や千葉空襲など戦局が悪化する中で、「いよいよ米軍が来る」と緊張感を持つ中で、終戦を迎えた。
「幻の本土決戦」となったが、九十九里への上陸はこれで終わりではなかった。
米軍基地「キャンプ片貝」
終戦から3年後の1948年、米軍基地が九十九里町片貝に。
『九十九里町史』によると、四八年四月九日夜、豊海町の真亀海岸に十数台の大型ブルドーザーが持ち込まれ、北から南へ整備を始めた。夜を徹して続けられた作業で翌朝には平らな空き地ができ、真亀側の岸には土手も造られていた。
周囲には鉄条網が張り巡らされ、「日本人立ち入り禁止」の立て札。民有地を含む九十ヘクタールが高射砲の演習場として米軍に接収され、約一カ月で「キャンプ片貝」と呼ばれた基地が完成。ゲートには星条旗がはためいた。
周辺住民は基地内に入ることは許されず、基地について詳しい資料は残っていないという。九十九里浜の南北約1㎞が突如基地に。実際に置かれたのは豊海町であったが、九十九里町の中心である片貝と名付けられた。
場所は現在のサンライズ九十九里がある辺り。
相次ぐ無人機事故
米軍による事故が相次ぎ、一般人が多く犠牲となっている。
米軍が高射砲演習の標的にする無人機「赤とんぼ」が、住宅に墜落して炎上。夫婦二人が全身やけどを負って死亡し、隣り合う三軒も燃えた。
墜落事故だけでなく、高射砲を牽引する大型車両やトラックが行き交う中で、青果店に突っ込む事故では幼い6歳の命が失われている。猛スピードでの房総や飲酒運転など酷い事故が多数あったという。
こうした米軍による被害がまさか千葉県内で起こっていたとは…占領下にあった沖縄だけかと思っていた。もっと身近な歴史だったこと、学校の教育で習いたかった。
深刻な漁業被害
イワシ漁が盛んな漁師町だったが、戦前から戦後の労働力不足や潮の流れの変化で10年間で水揚げ量は34分の一に。その中でさらなる高射砲演習により追い打ちが…
おもな漁場を覆うように演習が行われる。ごう音や振動でイワシが寄り付かなくなり、弾丸や無人機「赤とんぼ」の破片で網が傷つくことも多かった。
そして、政府に対する漁業被害の補償を求める声、基地反対運動がおこり、1955年にようやく県からの補償金額がまとめられた。
智恵子が愛した砂浜
高村光太郎の詩集「智恵子抄」の一説に登場する九十九里。智恵子が小鳥と戯れ心を癒した砂浜が、14年後にキャンプ片貝に姿を変えてしまったのだった。
自宅からキャンプ片貝まで300mの場所で暮らしていた女性によると、子どもたちがたばこを吸い、化粧をし、夜道を歩いていると米兵に声を掛けられることもあり、不穏な中で青春時代を過ごしたという。
1957年、10年間住民を苦しめたキャンプ片貝は突如姿を消した。「永久に射撃演習を中止する」と県に通告し、敷地が返還となった。
片貝の女性
本書では米兵による売春行為については触れられていないが、米兵相手の売春を行っていた女性はいたのではないかと思う。同じく米軍基地があった埼玉県の朝霞でのパンパンの様子を紙芝居で紹介している「金ちゃんの紙芝居」が当時の様子を詳しく語っている。
「県内軍政と米軍基地と九十九里射撃場問題」によると、片貝でも売春を行っていた女性が存在したことが垣間見える。
九十九里射撃場問題は周辺の農・漁民の生活が脅かされ、生活破壊は一層深刻化していく。生活崩壊はこれに続く風紀問題を生み、女性・子ども達に対する暴行問題は繰り返し続発した。生活できえない現実から、若い女性達の中には米軍兵士と特殊な関係をもち“春をひさぐ”生活に堕おち入る人びとが多数生じた。
イワシの町が一変し、10年もの間米軍によって怯えながらの生活…こうした歴史こそ後世に伝えたい。
つきみそう公園と慰霊碑
最後に、現在の片貝に残る史跡を訪ねる。
千葉県山武郡九十九里町片貝3879。県道25号沿い、東金警察署九十九里交番向かいに「つきみそう公園」という一角がある。

手前にある碑に「つきみそう公園」と刻まれているが、その上に古写真がプリントされており、史跡であることが分かる。
公園の奥に2001年に九十九里町によって設置された説明看板があった。

ここは、昭和二十年二月十六日に於ける米艦載機の来襲監視活動等、第二次世界大戦下に活躍した、四番片貝民間防空監視哨の跡地である。
この対戦をふかく省み、町は昭和六十三年非核平和都市を宣言し、二千年に当り、永却の平和と町の発展を祈念し、哨碑をつつむ花と緑の公園として再生することとした。
プリントされている写真は「四番片貝民間防空監視哨」だろう。2階建ての建物の上に望楼のような見晴台が設けられている様子。

検索してもネット上には情報がほぼない。
だが、町としてこうした戦跡を公園として残していることは感銘を受けた。
また、Googleマップには記載が無いが「つきみそう公園」から少し東金よりの県道25号沿いに慰霊碑が保存された一角がある。

入り口の門柱、そして奥には「殉国之碑」が堂々たる姿で現存。


(訪問日:2022年2月)
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戦後米軍が九十九里浜で射撃訓練をしてイワシが取れなくなった話は、父が九十九里の出身だったので、子供の頃から聞かされてきた話です。
米軍のトラックが民家に飛び込んで泣き寝入りした話はどは、昔新聞に地元の人の回顧録としてよく載ってましたね。でも今は知ってる人は恐らく90歳以上になると思うので、段々と直接話を聞くのは難しくなりますね。
戦争は終わってるのに何故九十九里浜で射撃訓練をしたのか、その理由が分からなかったのですが、調べてみたら朝鮮戦争が近かったからでした。
南房総市の白浜は終戦間際に軍艦から艦砲射撃を食らって民間人が六人も死んでいて、当時は軍事機密だったので、殆ど知られてない状態が長く続いてましたね。
全国の港町は似たり寄ったりで、清水、釜石など大きな港湾都市は艦砲射撃を受けたそうです。
終戦間際に撃った理由は戦争経験のない兵隊に手柄を与える為だったとする説があります。
爆弾は飛行機による空襲だけでは無かった様です。
たまたま先程、友人と地元の建物の話をしていて、こちらの記事にたどり着きました。
子供の頃から、この建物がレトロでお洒落だと見るたびに親に話していましたが、老朽化して危ないしということで取り壊すんだってと聞いて非常に残念だと思ったのを覚えています。
確か、あせてはいたんでしょうけど、薄ピンク色をしていた様な気がします。それがレトロでイイ!と言って、親があれは戦争のときの物見櫓みたいなものだよと教えてたような。もう子供の頃記憶です。