神栖町と赤線。鹿島臨海工業地帯として栄えた色町 -鹿島⑾

茨城県・神栖市。鹿島臨海工業地帯として栄えたこの街には、色街としての歴史も残っている。
現在はキャバクラがメインになっているが、興味深い、神栖町の歴史を辿ってみようと思う。
神栖の歴史
茨城県神栖市。まず読み方が難しい。
「神栖(かみす)」と読む。

隣接する鹿島市とともに、「鹿島臨海工業地帯」を形成する街。
1960年に始まった鹿島開発によって、鉄鋼・石油を中心とした重化学コンビナートが形成、企業からの税収によって財政が支えられているといっても過言ではない。現在も、住民税が安いなどの理由で住みやすい街として知られているそうだ。
開発される前の神栖町は、農業と漁業が中心で「陸の孤島」とさえ呼ばれる非常に貧しい地域だったという。
その様子が映画『さらば愛しき大地』(1982年)に当時のリアルな神栖町が描かれている。
農業と工業。新旧が混然一体となりぶつかり合う様子を、地元住民の視点で描いており、とても勉強になった。映画には、お金を稼ぐために体を張って働く女性の姿が生生しく描かれており、今回の記事ともとてもマッチしていた。
その映画で登場する、広大な面積の池「神之池(ごうのいけ)」があったが、現在は開発によって一部を残して埋め立てられている。
神栖町と赤線
木村聡の『消えた赤線放浪記 その色町の今は…』に神栖町の紹介があり、以前から気になっていた。
労働力の流入と平行して風俗産業も進出し、現在はサウナとファッション・ヘルス、合わせて二十軒ほどが営業しており、新興の風俗街を形成している。
この本が書かれた1995年時点では20軒ほど風俗店があったようだが、現在は摘発によって無くなっている。その代わりにキャバクラ街として発展した。
1995年、当時は「サウナ」の看板がソープランドを指す看板だったこと、国道沿いの交差点に目立つサウナの看板が並んでいたという。
「平泉」というバス停の近くに看板があり、左折するとお店があったと書いてあり、探してみると、確かに廃墟にはなっているが「入浴料4000 ペントハウス」という看板が残っていた。
また、国道124号の「木崎」交差点は大型ホテルなどがあり街の中心地で、牛丼屋の裏にピンク色の看板が見えたと書いてある。
牛丼屋は現在の「吉野屋124号線神栖店」のことだろうか。
確かにストリートビューで探索すると、居酒屋やマッサージ店などが異様に立ち並んでいる。
本からの内容を辿っていくのは大変で、さらに今は開発されているところが多いため、廃墟すら残っていない場合も。面影はなくなってきている。
神栖の風俗店の摘発
摘発され、今は一軒もないというのが気になったので調べてみた。
かつて神栖は「DC(本番系違法風俗店)」のメッカだったそうで、2009年頃に摘発されて表向きは無いとされている。だが、調べてみると、ホテル業に転換して裏サウナとしてまだ…
さらに太平洋側、知手の方はビジネスホテルもたくさんあり、出張に訪れた人を癒しているのだろう。摘発しても人間の欲望が消えるわけではないのにね…
また、神栖に「銀映」の映画館があったことも知った。
「消えた映画館の記憶」さんに「神栖銀映( 茨城県鹿島郡神栖町平泉30-8)」が載っており、2005年に閉館したとあるので意外と最近まで存在したんだな。
現在のキャバクラ通り
「知の冒険」さんの記事「茨城県の無法地帯!鹿島臨海工業地帯の恩恵を受けている神栖市の荒れた色街事情を調査した!」に現在の神栖町のキャバクラについて詳しく書かれている。

現在、キャバクラ通りと呼ばれる通りは、「神栖中央公園」の北側、ローソンの向かい側に一直線に伸びている。
中にはキャバクラの店舗だけでなく、普通の飲食店も。

現在はどのような様子になっているのか、現状を知りたかったので車に乗りながら探索。

以前、鹿島で見かけた飲み屋街と同様、ここも平屋の建物。茨城はどこも似たような外観なのだろうか。


ゴールデンウイーク期間の昼間。誰もいない。

建物はよく見ると、裏側にある建物がトタン板で覆われているだけで古そう。

新型コロナウイルスの影響で、ここのキャバクラ通りは閉店しているお店も多いかなと思ったが、
休業の貼り紙や荒廃している建物もそんなに無かった気がする。

いつも通りの風景という感じがするので夜になったら人通りが多いのかも。


キャバクラ通りは20店舗ほどのお店が建ち並んでおり、どれも個性的。
スナックやバーなどのお店はなく、すべてキャバクラ。今まで見たことが無い風景に驚く。
ただ、このキャバクラ通りのすぐ近くは家族連れでにぎわう公園…

神栖がどのような街だったのか、知らない人も増えていくんだろうなと考えると何だか複雑な気持ちになった。
新しくできたキャバクラ地帯
こちらは、神栖中央公園の東隣。先ほどの記事では新しくできた「新興キャバクラ」と書かれている。

近くには、廃墟になった雀荘「まこと」の建物が。

キャバクラばかりかと思ったら、雀荘も存在したんだ。

アパートのすぐ隣がキャバクラの店舗。ここには5軒ほど並んでいた。

さらに北へ行くと、広大な自然の真ん中にポツンと佇むキャバクラ街。

真ん中の広い駐車場を囲むように、2つの建物が並んでいる。

2012年のストリートビューを見たら、何もない更地だった。
2012年~2015年の間に設置されたことがわかる。


神栖の赤線の歴史、そして現在のキャバクラ通り…
家族連れで賑わう新しい公園を見て、神栖の歴史をまとめておこうと改めて思った。
(訪問日:2021年5月)
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神栖も来られたのですね!
知の冒険をチェックされていたとはさすがでございます。
神栖を題材にした映画では、石原プロの「甦える大地」が秀逸で、砂地で貧しかったこのエリアが
工業開発で一躍地元民が大金を掴み、農工両全の理想を掲げた大地に、欲望渦巻くスナック街が出来上がってしまう、、、というシーンがあります。
映画の終盤でこれらのバラックスナックや、今はなきサウナ「鹿島パラダイス」もちらっと出てきます。今の神栖防災公園のあたりであったそうですが、跡形もありません。
甦える大地は、家に父と私で集めたポスターや台本、チケット、パンフレットなどがあったので、
おととし、神栖市歴史民俗資料館に展示依頼のうえ寄贈しました。
神栖の飲み屋街ですが、亡くなった私の父が現職だったとき、昭和40年代~50年代前半は開発で荒くれ者が全国から集まり、警察力は全然足りず、夕方以降は女性の一人歩きは出来なかったと申してました。
また、鹿島パラダイスは夕方になると店に入るでもなく(金もなく)、なんとなく皆が集まってきて
小競り合いから暴動になるが、警察が来ても取り囲むだけで精いっぱいであった、と聞いています。
神栖の悪所として、当時は週刊誌にも幾度も出たとか。
いまはだいぶ落ち着いてきたものの、やはり当時の後遺症はゼロではないようで、
知の冒険さんに記載されるような状況は今も至る、、という事ですね。
(私は鹿嶋市在住ですが、近所の大工さんたちも神栖は『若い元気がいい子が多い』ので飲みに行かず、鹿嶋の飲み屋街で飲むことが多いと申してました)