山谷「いろは会商店街」山谷の歴史が詰まったアーケードが撤去された商店街の現在の姿

あしたのジョーのふるさとでもある山谷の「いろは会商店街」。一度この商店街の姿を見たことがある方は、アーケードが撤去された商店街の現在の姿に驚くかもしれない。
労働者の町山谷の街並みも徐々に変化していた。
山谷の歴史
「山谷」は東京都台東区と荒川区をまたがる泪橋交差点を中心として広がっている範囲に宿泊所の密集地帯のことを指し、その地名は昭和41年に消滅している。
元々街道沿いであったために、江戸時代から木賃宿が多かったらしい。木賃宿というのは安宿で薪代を払って自炊、相部屋で寝ることも。宿場町の端に木賃宿は存在することが多かった。
さらに、徳川家康は都市政策の一環として山谷に被差別部落民の人々を移住させ、犯罪者の処刑を行う小塚原刑場での片付けなども行っていたようだ。こうした地域性はその後も広く知れ渡り、日雇い労働者の街として山谷が知られるようになった。
戦後、行き場を失った人々のためのテントの仮宿泊施設からバラック、そして簡易旅館へと変化し、高度経済成長期には都内随一の寄せ場として発展した。明治時代から日雇い労働者の街として知られる山谷は、良い印象を持たない方も多いと言われている。偏見、差別、こうした眼差しが向けられてきた街。
現在は高齢化が進み、孤独死が問題になっていると聞く。山谷を歩いていても、すれ違うのは高齢の方ばかりであった。
私は近代化が進む中でこうした街で生きている方がいることを忘れてはならないと思うのです。自己責任論を主張する方、自分とは関係が無いと壁を作っている方も多いと思います。特に私と同年代の若い人は山谷の歴史について、現状について知らない方がほとんどだと思います。社会を支えているのは目立つ有名な方だけでないと思います。だからナイーブな内容でも記録に残したい。
そして山谷に住む人々は、今度の東京オリンピックに再整備に追われていました。
いろは会商店街
山谷の中心でも商店街「いろは会商店街」。大正8年(1919)から続く100年以上もの歴史がある商店街だ。両サイドにお店が並んでいる。

お気づきの方もいるかもしれないが、商店街のアーケードが撤去されている。私はアーケードが撤去されていると知らなかったため、あまりに風景が変わっていて驚いた。
昭和51年(1976)に設置されたアーケードは300mほど続いており、昼間でもちょっと暗い雰囲気。夜は屋根の下で寝ている方も多かったという。アーケードが撤去される前の写真については色々な方が載せている。
あしたのジョーのポスターや看板があり、活気がある様子だった。
気になったので、お店の前で掃除をしていた方に話を伺ってみた。すると去年の12月頃に、東京都が○○億円を出して撤去したとの話だった。オリンピックがあるため、急いで撤去したという。そしてアーケードの屋根の下で寝ていた方もホテルへ入れられたと話していた。実際にアーケードが撤去されたのは2018年2月。
その方の個人的な意見ではあるが、外から見た山谷と住んでいる方から見た山谷は感じ方が違うのだろう。「山谷はもうだめ」の一言から、色々な想いをくみ取った。
いろは会商店街の現在
アーケードは完全に撤去され、アーケードがあった様子など全く感じない。

かつては120店舗以上あったという通りも、現在は営業しているお店の方が少なそう。

日用品や男性向けのお店が多く感じる。


メンズウエアのマツモトヤ。日常福から作業着まで色々と扱っていたらしい。

大唐会館中国物産のお店は、健康食品や中国書籍など。

そして道路も、かつてのタイルは見えなくなり舗装されている。


それにしても日曜日に訪れたからか、人の気配が全くない。
御茶處 前島園
前島園は外観が綺麗だが情報がないので営業してないのかも。


茶と大きく合書かれた看板と、郵便の看板が横に残っていた。

そして横から見ると、立派な看板建築のようだ。正面に大きくそびえ立つ壁。かつてはアーケードまで伸びていたのだろうな…

尾張屋呉服店
尾張屋呉服店、かなり歴史を感じる佇まいだなと思ったら、やはり。いろは会商店街は旧日光街道から吉原遊廓へと向かう道でもあり、夜店の出店が許可されて現在に至るそうだ。そのため、旦那衆が遊女に貢ぐ品物もそろえていたとか。

三河屋呉服店も建物が残っている。
その隣のビル、フレッシュフルーツの果実部の看板がカラフルで素敵。


いろは会商店街の事務所があった。


シャッターが閉まっているお店がほとんど。”ひざ”しか確認できない看板も…
日本堤1丁目交差点
交差点の付近。陶磁器専門店の「やま吉本店」。

クリーニング屋メディアと笹沼たばこ店。

交差点に出る。車通りも無い。昔はアーケードが子の先にも続いていた。

あまり見かけない新聞販売機のニュースくん。

資生堂化粧品を歩かう松田化粧品店。

尾張屋は和菓子店だったが、以前から品数が少なくなっていたようだ。

三河屋呉服店
吉原遊郭との関係性も少し感じられるという「三河屋呉服店」。

ピンク色の外観は周囲と違っていて目立つ。

こちらの道路は完全に舗装されていないみたい。

向かい側にあるディスカウント柴田商店も、百貨センターとあるので品揃えが豊富だったのかな。


静かな商店街
歩けど歩けど、とても静かな商店街が広がっているのみ。

建物はまだほとんどが残っている。小さな看板建築がギュッと並んでいる。

ポエムは喫茶店かな?

ベビー、チャイルドショップもある。



小林屋は窓が少し変わっている。


リカーショップワッツも雰囲気がある。

以前からあった落書きは変わらず残っている。アーケードが撤去されて明るみになった。

小林屋は側面にも日用品が描かれた看板があった。

創業大正7年の平乃屋。いろは会商店街ができた当初からのお店だ。

電話の看板があるが公衆電話は無い。と思ったら右側にあった。

奥にはマンションのような新しい建物もある。


ここがいろは会商店街の吉原川の端。今は商店街ではなく、普通の道に見える。

変わらないのは土手通りにある矢吹ジョー像。

山谷ですれ違った方は親切に街のことを教えてくれた。私も知らず知らずのうちに偏見があったのではないかと反省する。「百聞は一見に如かず」ではないけれど、これからも自分の目で確かめて感じたことを記録に残していきたい。
(訪問日:2020年10月)
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ビォーアフター的に、新旧の写真を見比べて
紹介していった方が分かりやすかったですね!
現在の写真だけだと、イメージがつきにくいかと思います。
小林屋の長男、孝次です。写真の家は1955年ころか、20坪の敷地いっぱいに建てられたものです。ここでの開業は戦後1年を経た1946年のことで、母の実家、沼津の荒物問屋から商品を仕入れたのが始まりです。実は、戦前の数年間、父方の祖父が、ここで帽子店「プリンス」をやっていたことがあり、それが縁でこの地に住み着くのです。開業した金物荒物の小売店は、戦後間もない欠乏社会で順調に発展、末っ子以外、3人の子等らを大学卒業させるまで成功しました。私は家を継がず大卒すると英語ガイドとなってJTBで働きました。1974年、大規模小売店舗法が施行され、ホームセンターも現れると、うちのような個人経営の小売店は売れなくなりました。1979年暮れ、末っ子夫婦が後を継ぎ、親と共に励みます。しかし既にこの頃には売上が伸びず、1990年代に入ると、最盛期の1/4に減っていました。独り頑張ってきた母が倒れ引退、2010年には閉店と相成ります。。そして2021年の秋、あまりに古く住めない家を解体、新築しました。
小林さん、コメントありがとうございます!歴史を知る事が出来て嬉しいです。最後に取り壊し前の姿を記録に残せて良かったです。商店街全体も驚くほどの変貌で衝撃を受けました。