【稲毛散策②】埋め立てられた稲毛海岸を思い出させる軍艦、大正11年創業の海の家の現在とは…

【稲毛散策②】埋め立てられた稲毛海岸を思い出させる軍艦、大正11年創業の海の家の現在とは…

かつては海水浴場として都内からも多くの人が訪れた千葉県「稲毛」。京成稲毛駅の裏には、大人向けの映画館や、飲み屋が広がっていた通りや、療養地として多くの文豪が訪れた旅館など、様々な見所がある。

【稲毛散策①】千葉・稲毛浅間神社周辺「京成稲毛うら通り」映画館もあった賑わい

しかし、まだまだ稲毛の魅力は尽きない。かつての海岸線を感じることができるスポットを散策しながら、海の街の雰囲気を感じてみてはいかがでしょうか。
第一期埋立によってできた稲毛海岸のイラストMAP↓

かつての稲毛海岸イラストMAP

 

埋め立てられた稲毛の海

現在も、稲毛海岸には稲毛海浜公園プールがあり、観光客で賑わっているが、かつての海岸線はもっと内陸にあった。現在の稲毛浅間神社まで海で、約2,7キロも移動していることになる。

旧神谷伝兵衛稲毛別荘では、昭和3年に描かれた「千葉懸稲毛海水浴場鳥瞰」を見ることができる。手前が京成稲毛駅。中央にあるのが稲毛浅間神社。かなり海岸線が近くにあったことがわかる。

昭和3年松井天山の鳥瞰図
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楽天府から、千葉トヨペット本社への歴史

稲毛浅間神社から、千葉街道を渡り少し歩くと、大きな和風の建物が見えてくる。千葉トヨペットの本社だ。

千葉トヨペット本社

一見、新しそうなその佇まいからは、想像もできないが、明治時代、東京の麹町(現・千代田区内幸町)にあった日勧業銀行の建物だそうだ。その後も何度も移転を繰り返し、現在、稲毛の地に落ち着くまで色々な歴史が詰まっている建物。

建物の構造は、木造2階建て、唐破風。妻木頼黄氏と武田五一氏の設計。日本橋や法隆寺の修復を手掛けている名建築家である。千葉トヨペット本社に至るまでの歴史をざっとまとめる。

千葉トヨペット本社に至るまで

明治32年(1899年)東京麹町区、日勧業銀行
大正25年(1926年)京成電気軌道株式会社(現:京成電鉄)に売却され、千葉県、谷津遊園「楽天府」
昭和15年(1940年)に千葉市役所
昭和39年(1964年)千葉トヨペット本社へ

 

銀行、遊園地、市役所…と時代の移り変わりとともにその姿を変えてきた建物。谷津遊園の楽天府時代は、1階には各種娯楽場、遊技場、休憩室、食堂…2階には富士山を見ることができる演芸場などもあったようだ。

現在も、千葉トヨペット本社の周りには桜の木が多く植えられており、春になると満開の桜が多くの人を楽しませている。

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埋立と稲毛海岸にできた団地

昭和36年(1961年)に始まった埋め立て工事。第一期埋立によって新しくできた「稲毛海岸」の場所では、数々の団地が出来上がり、当時の憧れであった団地に遠くから移り住む人もいたようだ。

団地内に立つ給水塔

稲毛プールセンター、ゴーカート場、などの遊び場もあった稲毛海岸では、多くの子どもの声が響き渡っていたのだろう。

昭和44年に新しく第二期埋立が始まるまで、団地からは東京湾を眺望することもできたという。

飛行場&機関車がある公園

千葉トヨペット本社近くに、広大な芝の公園がある。ここはかつて第一埋立からある「稲岸公園」。ここにも稲毛の海を感じることができる。

稲岸公園

多くの子どもたちに囲まれている機関車は昭和28年から昭和43年に利用されたいたもの。無造作に設置された機関車は、子どもたちがの遊び場になっている。他の場所では、市によって保存され、見学日程を設けている場所もあるというのに…

説明看板

公園の片隅には、巨大な碑がある。「民間航空発祥之地記念碑」と書かれている。稲毛で民間航空発祥?と疑問に思うが、稲毛が海岸だったことが関係している。

民間航空発祥之地記念碑

稲毛海岸の干潟に設置された民間飛行場明治45年頃(1912年)の話だ。奈良原三次によって開設され、1917年の高潮によって飛行場が壊滅するまで日本の民間航空の拠点が稲毛に存在していた。

またしても、こちらも子どもたちの遊び場となっており、所々剥げているのが気になる。

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陸に浮かぶ船「こじま」からプールへ

千葉トヨペット本社の建物と並んで、注目されていたのが団地の一角に浮かぶ巨大な船「こじま」

こじまのイラスト

こじまの歴史

現在はスポーツセンターとなり、整備されているが、「海洋公民館こじま」がああった。「こじま」は、昭和20年に長崎で海防艦(軍艦)として製造され、様々な役割を果たしてきた。その後、昭和40年に千葉市によって払下げられ、昭和41年(1966年)に「海洋公民館こじま」としてオープン。

かつて海洋公民館こじまがあった場所

近所に本物の軍艦に入ることができる場所があったら、大盛況だろう。展示や映写室だけでなく、実際に船に泊まったりすることもできたという。しかし、昭和42年に行われた第二期埋立によってこじまの周囲が埋め立てられ、こじまだけが陸に残る形となってしまった。そして平成5年には建築基準法に適さないことから閉館、解体となってしまった。水の上に浮かぶ船というのは保存が特に難しいのだろう。

当時を知る人のお話

こじまが存在していた当時を知る人から話を伺った。

・近隣の子どもは、小学生の校外学習で行くことが多かった。
・船内は写真などパネルが並べられていた。
・船内はグルグル回って見学することが出来た。

校外学習で軍艦へ行けるというのはとても羨ましい話だが、それほど地域に根差した場所だったことがわかる。

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海の家の名残

第一埋立によってできた海稲毛岸には、海の家が多く並んでいた。その名残を現在も感じることができる場所がある。稲岸公園から南、「つばさ記念ロード」と名付けられた道に、海鮮の飲食店が並んでいる。

海の家が並ぶ通り

さかえ寿司、ちどり…ちどりは現在営業していないようだが、宴会場もあるかなり大きな建物がそのまま残っている。

海鮮レストランちどり

手前の建物がたぶん「稲毛亭」という海の家。道路からはただの建物にしか見えないが、入り口は海側と道路側の二カ所にあり、海側には海から上がってくる人がそのまま入れるような広い入り口があったとか。私はそこまで気づくことができず、狭い入り口に疑問を抱いていた。

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大正11年創業、海の家「ちどり」

まるで時が止まってしまったかのような海鮮レストランちどり。千葉県千葉市美浜区高洲一丁目にあるレストランとして賑わっていたそうだが、現在はとても静かだ。

廃墟…?

稲毛新聞1997年11月号」にてちどりの歴史や様子が記述されていたので引用する。

美浜区高洲一丁目にある和風レストラン「ちどり本店」は昭和三十八年頃まで現在の国道沿い浅間神社一の鳥居のすぐ手前にあった。当時は、遠浅が広がる稲毛海岸に潮干狩りや海水浴のために、県内はもちろん東京、関東、全国から列車や観光バスでたくさん訪れた。観光客の休憩や食事するための大きな海の家の一軒が「ちどり」であり、大正十一年に創業以来、移り行く稲毛海岸の歴史を七十五年間にわたり見続けてきた。

ちどり本店の創業が大正11年ということに驚きを隠せない。現在も営業していたとしたら、2022年で100周年を迎える超老舗…

そして、昔の稲毛海岸が列車や観光バスで多くの人が訪れる場所だったなんて、想像もつかない。1997年当時、三代目の方が経営をしており、現在も残っている建物は平成5年のものだということがわかった。

現在残る店内はフローリングの床が輝いており、天井から壁に至るまできめ細やかな日本の伝統建築様式を取り入れていたらしい。一階は広いお座敷、二階は十人から八十名収容の大小宴会場、カラオケルームもあり、和風から洋風、中華に至るまで百三十種類のメニューがあったという。

凄い…想像していた以上に、ちどり本店は活気があふれるレストランだったようだ。なのになぜ…?閉店してしまった時期や理由が気になる。

そのまま時が止まっている

中は、そのまま荷物などが残っていた。

高洲一丁目の看板

陸に浮かぶ軍艦「こじま」の隣には、つい最近まで「高洲市民プール」があった。私もその姿を見たことがある。海岸線が遠くなっても、プールに訪れた客で賑わっていた海の家。しかし、高須市民プールも2011年の震災の影響で陥没。跡形もなく、更地になってしまった。その影響か、海の家もひっそりとその歴史を閉じている。

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かつての漁師町

最後に、稲毛が漁師町だったことがわかる道を散策し、稲毛散策を終わりにする。千葉街道から、稲毛2丁目の住宅地へと足を踏み入れると、漁師町だった頃の面影を残した路地が残っている。

漁師町の雰囲気
角に残る石碑

かつての海岸線を辿り、稲毛の過去から現在を楽しむ散策はいかがだったでしょうか。時代とともに移り行く街の姿を、記録として記事に残していきたいと更に思う。

稲毛に残る療養地としての名残は↓

「旧神谷伝兵衛稲毛別荘」神谷バー創設者が夢見た稲毛の大正ロマンを感じる別荘とは

 

(訪問日:2020年6月)

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