「千葉市ゆかりの家・いなげ」ラストエンペラーの弟・愛新覚羅溥傑夫妻ゆかりの地(旧武見家住宅)

「ラストエンペラー」は1988年に日本で公開され、現在も多くの人の心に残る名作として知られている。「ラストエンペラー」は中国最後の王朝、清王朝の愛新覚羅溥儀を主人公とした物語であるが、溥儀の弟、愛新覚羅溥傑も歴史的重要人物。
それだけでなく、溥傑夫妻は仲睦まじい夫婦としても知られている。そのお二人が新婚生活を過ごしたのが、千葉県にある稲毛であった。
激動の時代を生きた溥傑夫妻が、新婚生活を過ごした稲毛の邸宅をご紹介する。
愛新覚羅溥傑(あいしんかくらふけつ)夫妻の歴史
愛新覚羅溥傑夫妻はどんな想いで、稲毛で新婚生活を送っていたのだろうか。
激動の時代を生きた溥傑夫妻の歴史を振り返ろう。
愛新覚羅溥傑の幼少期
愛新覚羅溥傑は1907年、次男として生まれている。幼少期から紫禁城を出ることができず、不自由の身であったが、兄・溥儀のことをよく慕っていた。その後、1911年に起きた辛亥革命によって、袁世凱が溥儀の宣統帝の退位を要求。1912年に溥儀は退位することになった。さらに、1924年には北京政変と呼ばれるクーデターが起こり、溥儀らは北京の日本大使館へと身を寄せることに。溥傑は、1929年に来日し、日本語を学習した後、学習院高等科へ留学することになる。
日本への留学、浩との結婚
1923年には、日本軍の支援を受けて満州国が建国。溥儀が満州国皇帝となった。溥傑は、学習院高等科を卒業し、現在の千葉市稲毛区作草部にあった陸軍士官学校本科へと入学した。士官学校入学後、溥傑は日本側からお見合い話を進められることになる。その相手が、昭和天皇の遠戚にあたる嵯峨浩であった。これは様々な思惑がある政略結婚でもあったのだが、お見合いの席でお互い好印象を抱いた二人は、愛でたく結婚することになった。1937年、現在の九段会館にて結婚式が挙げられた。
溥傑が在籍していた陸軍歩兵学校に近いため、稲毛に新居を構えることに。それが現在の「千葉市ゆかりの家」である。その後、半年ほどで満州国へと渡ってしまうが、束の間の新婚生活を稲毛で送ったことになる。
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二人の絆の強さ
その後、満州国が崩壊、社会情勢が大きく変わると、溥儀と溥傑はソ連軍に捕まり、強制収容所へ収監されてしまう。そこから16年もの長い間、会う事が許されなかったが、やり取りをしていた文通から、二人の絆の強さを知ることが出来る。
溥傑夫妻の絆の強さについては、様々なメディアでも取り上げられているが、千葉市ゆかりの家でも二人の仲睦まじい写真が飾られている。
激動の時代を生きた二人の、国境を越えた絆に感銘を受ける。
千葉市ゆかりの家へ
溥傑夫妻が新婚生活を過ごした邸宅は、「千葉市ゆかりの家・いなげ」として保存されている。

千葉市ゆかりの家は、稲毛浅間神社の鳥居の左にある細い道を入っていくと、住宅街に紛れてひっそりと佇んでいる。近所に住む方にお話を伺ったが、千葉市ゆかりの家と距離が近いからか、あまり行くことがないらしい。近所の方にとっては珍しい場所でもなく、風景に溶け込んでいるようだ。電車は京成稲毛駅から徒歩で訪ねることができる。
入館料は無料。閉館時間が16時30分までなので気を付けたい。
溥傑夫妻が新婚生活を過ごした家
溥傑夫妻が新婚生活を過ごしたのは、昭和12年の半年ほど。当時、稲毛が海辺の保養地としても栄えていたことも知ることができる千葉市ゆかりの家は、千葉市地域有形文化財にも登録されている。

和風別荘建築は、主屋と庭、離れから構成されており、様々な意匠が私たちの目を惹きつける。
玄関に飾られている証明も、当時のものだろうか。シンプルながら美しいデザインだ。昭和初期の建物で同じようなものをよく見かける。

居間
玄関を入ると、正面に見えてくるのが、和室二間と洋室。まずは居間から見学するとしよう。

ここは居間として使われていたそうだ。居間には、溥傑夫妻の写真や関連する書籍が展示されている。庭の美しい景色を眺めながら、溥傑夫妻に想いを馳せる。
表の玄関に飾ってあった照明とはまた違い、オシャレな照明。


各部屋の照明がそれぞれ違うのが面白い。昔の照明は趣向を凝らしたものが多く、灯りが暖かく感じる。
欄間が美しいったら…
言葉に表せないくらい、圧巻の意匠。状態もとても良い。大事に保管されているのがわかる。

奥にある洋室はまた雰囲気ががらりと変わる。洋室からは離れも覗くことができる。さらに、丸い傘のついたレトロ電柱の姿も見ることができるので見て欲しい。
【別邸のレトロ電柱】千葉市ゆかりの家の庭に残る一本のレトロ電柱

今年は長引いた梅雨のせいか、洋室では雨漏りが起きていた…自然災害は仕方のないことだが、古い建築を保存するのは難しい。それにしても、入館料無料とのことだが、維持費は市が負担しているのだろうか。これだけ立派な文化財であれば、入館料があっても良い気がするのだが。
客間
客間は、玄関から入り、右手に和室が二間広がっている。
上を見上げると、格天井と亀甲格子の欄間の細工が美しい。まるで京都に来たみたいだ。
…千葉の稲毛にこんなにも美しい場所があるなんてどれだけの人が知っているだろう。こんな穴場スポット、本当は教えたくないくらい素敵。

障子の結露ガラスから眺める庭の新緑がとても美しい。季節によっても庭の景色が変わるのだろうか。

ひとつひとつの照明のデザインもとても凝っている。バラ?のようなデザインが素敵だ。

かつては稲毛浅間神社のすぐそばまで海だったため、この場所からも海が見渡せたのであろう。客間から稲毛浅間神社の赤い鳥居が見える。

写真で美しさが伝わりきらないのが残念だ。古い建築がお好きな方はきっと気に入るであろう場所。私も時間の許す限り浸っていたい。閉館時間は16時30分だが、あまり人もいないため、この空間を贅沢に一人占めできる。

防空壕
さらにさらに!
離れの裏には、防空壕が残っている。

防空壕へは、主屋の入り口から右手に伸びる細い道を進むと、庭に行くことができる。そこからさらに、離れの方へ足を運んで見て欲しい。

夏には、気持ちの良い風が抜ける溥傑夫妻が過ごした家。
都会の喧騒から離れて、稲毛に療養に訪れていた当時の人々の気持ちに浸ってみるのはいかがでしょうか。
徒歩圏内で行ける洋館も足を延ばしてみては?必見です!
「旧神谷伝兵衛稲毛別荘」神谷バー創設者が夢見た稲毛の大正ロマンを感じる別荘
(訪問日:2020年6月)
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稲毛に溥傑の邸宅跡があったんですね。しかもこんなに綺麗な状態である事に驚きました。確かにこれほど見応えがあって、維持のためになるなら、むしろ入館料をとってほしいと思います。
兄である溥儀の生涯、特に結婚生活はかなり悲劇的なだけに、溥傑と嵯峨浩の仲の良さは、より際立っているように感じます。清と満州国という二つの帝国の皇族でありながら、当時は片田舎だった稲毛で過ごしていたなんて、余計親近感が湧きますね。
とても素敵な邸宅ですよね…私も保存状態の良さに驚きました。意外と地元の方にも知られていないみたいで、もっと多くの人にこの建物と歴史を知ってもらいたいですね!
今日訪問してきましたが、素晴らしい保存状態ですね。国道14号からすぐの場所なのに、庭園を挟んでいるせいか、静けさを保っていて不思議な感じです。向かいに駐車場もあるので、車でも問題ありませんでした。
展示されてた資料にも、この稲毛の邸宅は、溥傑と浩の二人が一番幸せに感じた場所だったとありましたが、そのせいかあたたかい雰囲気を感じます。浩の知人への手紙を見ると、縁談が来た時は政略結婚にかなり強い不安があったみたいですが、洋室に飾ってある二人の写真が、それは杞憂だった事を裏付けてますね。
素敵な場所を教えてくださり、ありがとうございます。
こちらこそ、ありがとうございます!本当に嬉しいです。この場所はいつまでも変わらずに残ってほしいですね…