市川「郭沫若記念館」須和田ゆかりの文学者旧宅を移築復元、一般公開中
市川市真間の閑静な住宅街に「郭沫若記念館」がある。日本と中国の架け橋となる活躍をした、郭沫若氏の旧宅を記念館として移築保存し、一般に公開されている建物。春にはピンク色の芝桜が一面に咲き誇る、芝桜の名所としても知られています!
市川「郭沫若記念館」
千葉県市川市真間5丁目3−19。最寄り駅は、京成本線「市川真間駅」。駅から北へ徒歩18分ほど歩き、須和田公園の北側に「郭沫若記念館」がある。
「郭沫若記念館」は、真間五丁目公園内に旧宅を移築・復元したもの。
中国楽山出身の郭沫若(かくまつじゃく)氏は、文学者・歴史学者・政治家として日本と中国の架け橋となる活躍をしました。
氏は、昭和3年から10年間を須和田で暮らし、市川市と楽山市の友好都市締結のきっかけにもなりました。
平成16年9月、真間に旧宅を移築・復元し、「郭沫若記念館」として公開しています。(市川市ホームページより)
平成16年(2004)に移築復元される前の邸宅の様子は、看板の右手に映っている。
入館料は無料。
入館時間は15時30分までだが、開館日が金曜日~日曜日の週三日なので今までなかなかタイミングが合わなかった。
訪問したのは1月末。例年4月は、記念館前の一帯が芝桜でピンク色に染まるそうなので、春に再訪したいな…
記念館内には郭沫若氏に関する業績や資料が展示されている。こちらは郭沫若と家族についてのパネル展示。中国では教科書にも載っている有名人。
市川市で暮らしていた1930年~1937年は、中国を追われ約10年にわたって亡命生活を送っていた時期だという。市川市内も3度転々とし、最後に移り住んだのがこの記念館の建物。
憲兵や国府台の軍人から監視されていたという話も。
郭沫若旧宅を移築再現
旧宅は、昭和5年(1930)に建造。昭和8年に和室6畳2部屋を建て増し、6畳間が4部屋と8畳間が1部屋で構成された木造茅葺平屋建ての家屋だそう。
当時の部材を一部利用し、郭沫若旧居として1930年~1937年頃に暮らしていた邸宅を再現。高齢の方が訪れると、「昔の家の一般的な形ですね」と皆さん言うらしい。旧宅でもあり、昔の家屋を体験できる場所でもある。
移築再現される前の郭沫若旧居の平面図。浴室や押し入れは取り払われ、かつての玄関は現在使用されていない。
かつては、裏口に真間川が流れていた。逃亡しやすくするためだろうか?また、周辺は笹薮に囲まれて茂っていた。
六所神社の近くに旧宅は存在したそう。
移築前の古写真。現在の姿と雰囲気が全然違っているのは、生活感があるからだろうか。知らなかったら、郭沫若旧居と分からないなと思った。(亡命しているから当たり前だろうけど)
戦後、旧宅には息子さんが暮らしていたそうでピアノを習ったことがあるという近所の方もいるという。
記念館入り口を入って左手にあるのは元書斎の6畳間。
右手、かつての玄関先がある6畳の和室。
6畳の和室の隣に4畳の和室があり、その隣に昭和12年に逃亡した際の出口が再現されている。
普段は扉があるように見えない隠し扉になっているとのこと。
かつての玄関先にある8畳の和室。床の間の床柱は当時のまま。
左手にある額縁は郭沫若氏直筆で、「1964年 秋 穆如春風 郭沫若」とある。
床の間には長江流域の民芸品。シルクで作成された猫。一本一本の毛並みが美しい…
ガラス戸は建築当初の姿に復元され木製に。
暖かい日差しが入る縁側。スタッフの方も丁寧に説明してくださるので皆さんも気軽に訪れてみてはいかがでしょうか。
須和田遺跡(弥生時代の住居が復元…)
近くには、弥生時代後期の「須和田遺跡」が保存された須和田公園がある。千葉県指定史跡。
昭和8年(1933)から昭和10年(1935)にかけて明治大学の杉原荘介氏らにより発掘調査が実施され、文様が描かれている弥生時代中期の土器が十数点出土した。これらの土器は後年になって、南関東地方最初の弥生土器「須和田式土器」として型式設定された。また、昭和42年(1967)には、この遺跡内から採集された資料である甕形土器の実態も明らかにされ、「須和田式土器」の内容を補完することになった。現在では、「須和田式土器」に先行する弥生土器の存在が明らかになっており、さらに須和田遺跡出土土器群は「須和田式土器」でも後半に位置付けられ、埼玉県の「池上式土器」に並行するとされている。
この遺跡は、上記以外にも幾度も発掘調査が実施され、その結果、弥生時代中期だけでなく弥生時代後期や古墳時代から奈良・平安時代の集落跡もこの須和田遺跡から検出され、この遺跡が長い年月の間人々が生活を営んできた跡であることがわかっている。(千葉県教育委員会のページより)
昭和期に発行された本を見ると、この窪みに弥生時代の住居が復元されたものが展示されていたが…
今は跡地のみ。説明看板によると昭和44年に東京国立文化財研究所によって当時の手法をまねて復元したものだったそう。残っていなくて残念。
(訪問日:2022年1月)
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