市川「栃木家」で鰻ランチを。市川を代表する明治創業の老舗割烹料理店

市川駅北口の老舗料亭「栃木家」。明治創業の老舗で鰻のランチを頂きました!
市川駅からも近く、祝い事、法事や接待等にも思い出深い方も多いのではないでしょうか?
市川の老舗料亭「栃木家」と歴史
千葉県市川市市川1丁目24−5。JR市川駅北口の街道沿いに面している「栃木家」。
黒塗りの壁に古き良き入口。春になると桜が咲いてより一層美しい景観に。昭和を通り越して、明治~大正の市川の面影を今に伝えているような素晴らしい佇まいです。

玄関まで石畳が続く。庭園はどんな様子なのだろう。なかなか入る機会が無かったので、いつも通るたびに気になっていた料亭です。
西側には通用門も。こちらの方が木製の扉でより古そうな入口。

創業は明治17年(1884)。130年以上の歴史がある料亭は、これまでにも政界・財界・文化人など多くの著名人を迎え続けている。
そして、以前まとめた市川の花街の記事にて、今は無くなった料亭の姿も納めているが、市川で老舗料亭は栃木家のみになってしまった…
市川の花街について
余談ですが、以前記事を書いた3年前は「市川 花街」と調べても全然情報が無く、私のブログくらいでしたが今調べるといくつか記事や動画上がっていて驚きました。
そして私のブログが引用元として表記されていない現実が悲しいですが(名前のせい?)、明らかに多くの方に影響を与えているなと日々実感しています。千葉の歴史に興味を持つ方が増えるならそれでよいです。
そして、八幡神社の玉垣に「市川二業組合」に続き、「栃木家」の玉垣も健在。

店名の上に刻まれている文字が読みづらいので分かる方がいたら教えてください。
栃木家でランチ(うなぎ)
この日は真夏、前回に続き著名な方と市川をお散歩していた。
ランチ~と探していたところ、ちょうど料亭のランチが気になっていた私の背中を後押ししてくださり、念願の栃木家へ!ワクワク。

玄関で靴を脱ぎ、赤い絨毯が広がる廊下へ。玄関正面右手に2階へつづく階段があったが、2階は大広間かしら。全体的な部屋数などは今回見ることが出来ず。
特に事前予約はしていなかったので、1階奥にある比較的広い座敷へ。イスとテーブルが設置されており、思っていたよりもカジュアルな雰囲気。その後、家族連れが入ってきた。

他の部屋は個室になっていたり、掘りごたつで正座がきつい方でも配慮されているようで、高級料亭と聞くと身構えてしまうが、お近くの方はぜひ利用してみてはいかがでしょう。
窓からは庭園の緑が美しく。夏なのでエアコンが効いた部屋でとても快適でした~

ランチメニューは弁当と鰻。
料亭のお弁当3300円。うな膳は3300円のと5500円で鰻の大きさによって価格が異なるらしい。
ビールと合わせて3300円のうな膳を注文しました。

お吸い物とあん肝、漬物も美味しい。Googleマップの口コミによると賛否両論とあるらしいが、確かにどちらかというと薄目の味付けかもしれない?私は全く気にならずむしろちょうど良い味付けでした。

市川駅からも近く、外の喧騒からは隔離された和の空間でいただく贅沢なランチを過しました。お手洗いも綺麗で設備に関して何も古さは感じず。果たして昔の建物は残っているのか、古い建物を調べている身としては気になるところですが…

会計は現金かPayPayのみだそう。夜は不定休のため、営業日をお問い合わせくださいとのこと。最近、特にこうした老舗を維持するのも大変なので気になっている方は積極的に…!

(訪問日:2022年7月)
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うわッ!やってくれましたねェ?笑
同じパターンで入ろうと思って、でもコロナが終息しきっていない時期だったので、ご厚意で建物内の様子を拝見させてもらったものの、残念ながらお食事できなかったことがございました。いーな、いーな。
(ま、建物内拝見の目的はほぼ達成できたので充分、満足しましたが(笑))
ところで、この市川の料亭街の一角にあったという、戦後GHQに接収され(いや日本政府が自発的にだったかな?)米軍将校用の娼館になるも、米軍側から待ったがかかったという曰く付きの料亭を確定したくて調べていたのですが、確たる情報が無くて断念したことがございました。
市川のこの一角も、小路を曲がると謎の洋館が忽然と現れたり、ここドコ?と思うような板塀やら竹林やら松をよけて捻じ曲がる道やらが現れる、クラっとするような不思議空間がそこここに残っていて、なかなか侮れませんよね?
レポートお疲れ様です。
市川の栃木屋。もう今年になってバタバタと料亭の取り壊しが続き、まったくさみしい限りです。
栃木屋近くの「白藤」も「大松」も、とってもいい風情だったのに、無残にも取り壊されました。市川市が譲り受けて、文化施設として活用すればいいと思うのですが(→例:葛飾区の「山本亭」)、どうして市川市がそれをしないのか、理解できません(新興住宅地ならともかく、市川市は歴史と文化の街であるはずなのに)。
それから、市川市の古い料亭も、建物は無くなっても、名前だけ今に伝わっているものもありますね。料亭「小松園」は「小松公園」に、そして割烹「双葉」は「マンション双葉」に変わっています。
そういう話は、今も真間に在住の、浅草の親分さんのお嬢さん(70代)から、わたしはよく聞きました。そのお嬢さんは、東京の空襲がひどくて、市川に疎開してきたそうです。
そして、市川真間駅南側には「桃松園」の敷地が広大であったという話も聞いた記憶があります。
そうそう…これは別の人からですが、国道14号沿の浮谷邸には、サーキットがあったそうですよ。車好きのお父さんの影響で、息子の東次郎さんは、レーサーになりましたし、中3で、バイクで大阪までひとり旅をして、その記録を『がむしゃら1500キロ』にまとめたのでした。
24歳でサーキット場で若くして亡くなった東次郎さんの言葉――「人生に助走なんてものは無い、あるのは、いつも本番の、ひたむきな走りだけだ」、これうろ覚えですが、東次郎さんの文庫(「がむしゃら1500キロ」)は、今でもわたしの愛読書です。
玉垣の字、上の方が不鮮明でよく判りませんが、「栃」の字の右上は「理」でしょう。左上は「焼」に見えなくもない。
推測するに、書かれていたのは以下では?
栃木家が栃木屋であった時代があったのか知りたいところです。
料理
栃木屋
蒲焼