市川に存在した三業組合について。市川の花街の歴史を紐解く(前編) -市川真間⑾
市川市はかつて「東京に接する軍隊と旦那と美女の町」と称されるほど、花街として有名な街であった。国府台に置かれた連隊と三業組合が3つあり、料亭とみられる店舗の数が数えきれないほど多く存在した。
その市川に存在した花街の歴史について紐解いていこう。今回は京成市川真間駅北側を中心に見る。
市川三業組合、花街について
「三業」というのは料理屋・待合茶屋・芸妓置屋の3つのことを指すことが多い。市川には料理屋、待合茶屋、貸席、芸妓置屋、見番が存在した。そして市川に存在した三業組合は3つ。
国府台にあった市川三業組合(国府台三業組合)は大正10年(1921)に創立され、最も古いとされている。料理屋が10軒ほどあったという。
真間三業組合は大正16年(1927)の創立で、置屋17軒、料理旅館が12軒存在した。そして中山にあった中山三業組合。
名妓の碑
まず真間川沿いにある「名妓の碑」から市川花街の探索をスタートする。
芸妓の神にゆかりのある真間浮島弁財天境内に残る昭和60年(1986)に建立された石碑。市川の花柳界を支えてきた名妓たちに思いを馳せ、妓芸を通じて地域文化の発展に繋げたいという地元の有志の方によってつくられた。
現在も営業している駅前の料亭栃木屋の書家でもある女将が揮毫した石碑となっている。
真間川沿い、市立真間小学校の近くにある。
名妓の碑。「にほどりの葛飾野ハ 万葉の美女手児奈を生めり~」
裏面には24名の芸妓の名が連なっている。
裏面の文字は、上から赤く塗られておりとても見やすい。地元の方に大事にされている石碑であることがわかる。
名妓の碑を建てた蓜島正嗣(はいじままさつぐ)さんは大正11年(1922)生まれで、市川市名誉市民である。そして彼の父親は現在の里見公園にあった「里見八景園」を創設した人。
また、里見八景園の事業の一環で市川三業組合にも属している割烹旅館「鴻月(こうげつ)」も営業していたらしい。
今回は行けなかったが、京成市川真間駅とJR市川駅の間にある八幡神社の玉垣に「市川二業組合」があるので、今度行かなければと思う。
追記:2021年3月訪問
市川二業組合、北邑の文字。
市川二業組合検番は、京成本線の踏切から商店街を北に進んだ場所にあった。昭和43年(1956)の住宅地図でも確認でき、2010年頃まで木造建築物が残っていたらしい。
気になった建物たち
京成市川真間駅の北側で見つけた、気になる建物たち。
京成本線の踏切を東側に伸びる市川真間通りを歩いていると、北側に細い舗装されていない路地があった。奥に進むと見えた古そうな建物…
一見、料亭の跡地かな?と思うほど、周囲の建物とは違う。
この建物以外は周辺も新しい建物が建っている。そして敷地内にいるネコがずっとこちらを見ていた。
裏口にある門には「勝手口」との表示。かなり立派な邸宅であることがわかる。
表に回ってみると、、大きな門があるのだが荒れている。しかし過去の住宅地図を見ても個人宅のようだ。
同じく道路に建っている石碑。よく見ると青面金剛。よくこの場所に残っていたなと思うほど…
文政というと江戸時代か…
石碑の向かい側にあるおいどん。ここも古そう。
鹿児島料理がメインの割烹だそうだが、ランチ営業、テイクアウトも対応しているみたい。
塀が高くて建物内を見ることができないのは元々料亭だったためだという。料亭の建物、敷地をそのまま利用し、庭の景色も良いらしい…今度は行ってみたいな。料亭名はわからない。
芸妓に関する建物?
同じ並びで見つけた丸窓のある建物。怪しい…
木造建築物がそのまま残っている。
そして入り口。現在は何も営業していないようだが、どんなお店だったのだろう。
調べたが個人名が載っており、よくわからない。
その隣の建物も和風建築。
看板には「坂東流舞踊教授」とある。さすが花街の町市川…
質屋・亀田屋
交差点付近には商店とみられる古い建物が残っていた。が、看板と営業している雰囲気が違う。
昭和43年(1968)の住宅地図では角の建物が「間部商店」。手前にはバーなどもあったようだ。
交差点の北側にある質屋の看板。矢印が指す方向へ。
質屋亀田屋。歓楽街だった場所には質屋がつきもの。この場所以外にも質屋があったのではないかと思うが…
割烹旅館・北邑
京成市川真間駅から北側に広がる真間銀座通り。その一角に大きな松が残っている不思議な場所があった。
なぜ松の木がこんなにも傾いているのに残されているのか…不思議だなあと思っていたら、「割烹旅館北邑」があったことがわかった。
昭和3年(1928)に描かれた松井天山の『千葉県市川町鳥瞰』には京成真間駅北側に、黒松に囲まれた一帯がある。その中心に「割烹北邑」の姿が。その隣には旅館の建物、北側には「一の湯」と銭湯もあるのが見える。
黒松は総武線の北側に現在も点在しており、往時の市川の風情を感じることができる。現在の真間銀座通りは割烹北邑の敷地を分断するようにつくられているため、残っている松の木も当時からのものであると考えられる。傾きながら残っているのが凄い。
市川真間駅北側の料亭
『市川町鳥瞰図』(昭和3年)
・割烹北邑
・割烹小松園・旅館 中じま
里帰りカップ資料館
おまけの「里帰りカップ資料館」。京成本線の踏切近くで見つけた素敵な雰囲気。
でも、2020年3月で閉館……半年前に!一足遅かったなあ。
以前成田街道を歩いた時に市川駅周辺の黒松についても調べたことがあったが、現在のように花街の視点から見ると残っている松の木の偉大さがよくわかる。
老朽化で古い建物も取り壊されていく中、松の木は昔の市川の歴史を私たちに伝えてくれる。
(訪問日:2020年9月)
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そうなんですよ、うわさの市川真間(笑)。別に、市川は「里見八犬伝」とか「手児奈(てこな←これを「てじな」と読んだ人がいます、「てじな」ってMrマリックかいな?)」だけではないのです。
ちょっと補足すると、真間の亀田質店は、かのさだまさしさんが(生活に困って)バイオリンを質に入れたところ。さだまさしさんは、14か15歳ぐらいの時に長崎から出て来て、市川市内に長くお住まいでした。市川市も、もっとさだまさし記念館作るとか、誠意を見せて欲しいものです。
あとは、浅草の侠客、百瀬梅太郎さんが(戦火を逃れるために疎開で)市川に移って来たのではなかったでしたか…。百瀬梅太郎さんは、ウェブで検索すると出て来ます。その息子さんが百瀬博教(1940~2008)さん。博教さんは立教大学相撲部かどこかの出身で、若い時に石原裕次郎(1934~1987)さんのボディガードも務めていた人です。
最近まで、わたしは勘ちがいしていて、博教さんのことを、どうして裕次郎さんがボディガードとして雇ったかと言うと、別に博教さんの「がたい(体格)」がいいから…ではないのですね…実は。
なぜ雇ったかと言うと、お父さんのビッグネームだったようです(←ちょっとびっくり)。つまり、何かアブナイ場面で、裕次郎さんは博教さんのことを指さして、「こいつは梅太郎親分の息子だぞ」と言うと、相手は…「えっ、あの梅太郎親分?」と言って引き下がってしまったらしいです。←スゴ過ぎる、梅太郎親分て…どれだけスゴかったのか、って話です。
その博教さんの妹さんは、まだ市川真間在住で、お元気です。
いやいや…市川真間だけに限らず、全国各地、何気ない路地裏に、そういう史跡…と言うか、秘密のエピソードが隠れているわけです。
どうぞ、みなさんも、それぞれの住まいの場所でのディープな秘話を発掘してみてください。