茨城「潮来遊廓」かつて”三大遊廓”として賑わった遊廓跡を訪ねて -潮来⑴

関東三大遊廓として知られる、茨城県の「潮来遊廓」。昨年、茨城県の「大洗遊廓」を調べた時に潮来遊郭の存在を知り、訪れてみたいと思っていた。
「潮来遊廓」とはどんな場所だったのか。
現在も残る、建物や資料、街の人々の想いを取材してきた。
潮来遊廓について
潮来(いたこ)遊廓について、歴史や情報をまとめました!
潮来遊廓の歴史
茨城県潮来市潮来(いたこ)。千葉県香取市と接する、茨城県南端の水郷地域は古くから陸路・水路の要衝として、さらに鹿島神宮参道の板来駅も置かれていたため、栄えていた宿場町だった。

江戸時代になると、「東廻り航路」の要所として栄え、東北地方から江戸へ米、木材、海産物など東北の物資を中継する役割を果たす。そして、陸奥仙台藩や南部藩の蔵屋敷、旅籠や遊廓が建ち並ぶようになった。
遊郭が設置される前の経緯、歴史については「近現代における地方小都市の盛り場の復原」に詳しい。
潮来に関わらず、河岸が賑わうと売春業を営む女性が出現する。
ここでは「船女房」と呼ばれる、船の中で男性の身の回りの世話をするのと同時に売春業を営む女性が増え、風紀上の問題が懸念されていたという。
そして、その後、天和元年(1681)に水戸藩は条件付きで潮来に遊廓を設置することを許可し、貞享元(1684)に遊廓一部が開業。
潮来遊廓は、江戸の吉原を模してつくられ、多くの人で賑わったという。
『全国遊廓案内』より
『全国遊廓案内』(昭和5年、1930発行)
水戸領となつて水戸下市藤柄の娼家が移されてからは益々殷盛を極め舊幕の頃は妓樓九軒娼妓百餘名居つたさうであるが、元冶甲子の亂に偶ひ過半數を灰燼に歸し、さらに明治になつて常磐線の開通と共に幾分は淋れ、現在では妓樓三軒、娼妓約二十名位となつた。
本が発行された、昭和5年で既に廃れており、妓楼は3軒だったことがわかる。
『全国女性街ガイド』より
『全国女性街ガイド』(昭和30年、1955年発行)
その潮来も、昨今はぐんと衰微し、芸妓十七名、酌婦二十四名。名物のあやめ踊もだんだん下手になった。下手ついでに芸者を呼ばず、酌婦と呼んで歌を歌って貰い、そのあやめ情緒の中でおねんねするのもイキなものである。
昭和30年で、芸妓17名。伝統は廃れ、名物のあやめ踊りさえ下手になってしまったと嘆いている。
繁栄から衰退へ
潮来遊廓は天保期がピークとなり、18世紀初頭頃から潮来の河岸としての役割が薄れてきたため、遊廓も客層が変わっていったという。
昭和7年前後には貸座敷は廃業、娼妓は一人もいなくなった。だが、その後も無許可で売春行為を営むお店や「カフェー地帯」が形成された。
戦後になると、芸者置屋、料亭、ホテル、旅館、バースナックなどが並び、賑わいを取り戻す。昭和30年代以降も、鹿島臨海工業地帯の開発に伴って、花街として繁盛した。その後は次第に芸者の数も減り、現在は面影がほとんどない。
潮来のカフェー地帯
潮来のカフェー地帯が形成されたのは、遊廓から南、河岸の方。潮来98。現在、居酒屋「みつのや」がある辺りだという。
2014年のストリートビューを見ると、スナックや居酒屋の建物が少し残っている。
潮来出島、潮来節
江戸時代に「潮来節」と呼ばれる船頭歌が流行ったという。1855年発行の「利根川図志」によると「潮来出島の十二の橋を、行きつ戻りつ思案橋」など載っており、その後は替え歌が増えて花街でも歌われるようになったという。
出島と称されるのは、遊廓を囲むように川が通っていたから。浜丁通りの一本南側は「園部川通り」と地名にあるように、昔は川だった。
潮来遊廓近く、浜丁通りを探索
茨城県潮来市潮来。JR鹿島線「潮来駅」から西側、思案橋を渡ると「浜丁通り」がある。
潮来遊廓が存在したのは、浜丁通りの西側、150mほどなので東側は普通に商店街のような雰囲気。

現在は名前が無い街灯に変わっているが、2014年のストリートビューをみると「潮来下町通り 潮来町商工会」と街灯に書いてあった。

しかも、オレンジ色と白のレトロな街灯!見たかったな~
古そうな商家。既に閉店しているが、遊廓の時代も生きてきた建物なのでは?

2階の戸袋は青銅だったが、最近茶色に塗り替えられたのかもしれない。

軒下を見たら「若槙商店」と右読みの看板が。戦前から営業していたんだろうな。

向かい側のお店はショーウインドウが特徴的だけど、何のお店だったんだろう?

2014年のストリートビューでは、ラーメンと美容室の「かのしん」の看板が残っていた。

向かい側も「かのしん」と見えるが、スナックやパブのような雰囲気。

独特な外観が、カフェー建築を思い出させる…が既に廃業している。


浜丁通りの交差点、堂々たる構えが「成井酒店」。

店名の看板が外されているので閉店してしまったのかな~

黄桜の河童が小さく描かれている看板。意外とレアなデザインかも。

向かい側にも気になる建物が。

タイル張りの円柱…シンプルなタイルだけど、どことなくカフェー建築っぽい雰囲気。

よく見たら下にもデザインが。もしかしたら昔は違うお店だったのかもな~なんて。

もはや商店街としての面影はほとんどない。遊廓が賑わっていた頃は、人通りも多かったのだろう。

2008年の記事「潮来遊廓跡」によれば、ここが目抜き通りだったという。「朝起きると酔客が道端で寝込んでいたりしたという。」と記載されている。
また、酒屋の左側、新しく民家になっているのが気になったが、元は旅館だったようだ。

記事に写真があるので見てほしい。旅館「角菱」、3階建ての建物が立派。

遠くから見て建物の状態が気になって仕方がない建物。

「旧敬文館書店」。

古そうな書店なので貴重なものが眠っていそうだけど…
左の更地になっている場所も気になる。

茶色の建物は「ほていや青果店」。

向かい側には総合ギフト、化粧品の「飯島陶器」。ここは営業しているように見える。

建物の奥に蔵のような建物が見える。

潮来の商店街は完全に衰退している…ここが遊廓の目ぬき通りだったなんて誰が信じるだろう。

潮来遊廓跡地の現在
商店街を抜けると、いよいよ潮来遊廓跡地へ。美容室の辺りから先が潮来遊廓跡地。

遊郭の黒門
片側に残る黒門の複製。そう、ここが潮来遊廓の入り口だった。

昔は両サイドに大きな門が建っていて、観光として盛り上げようとして復元したものだというが、老朽化で半分になったという。
菓子店「おざわ」の目の前に建っていたのでお店の方は詳しいだろうな。

旧あやめ楼
黒門近くにある木造の立派な門構えの場所が、旧あやめ楼と呼ばれていた。

電話59番の看板もバッチリ残っている。

門の奥にある建物は新しい。かつてここには、築150年を超える妓楼の建物が存在したが、2007年、10月頃に漏電による火災で焼失してしまったという。

2階には9部屋、資料もすべて焼けてしまったというので残念。柳の木?らしい大きな建物が当時の面影そ少し残している。

2006年の写真がYouTube動画にまとめられている。とても貴重な記録だ。
2階建ての妓楼。
他にも今は無い建物が映っている。
遊郭のメインストリート
寿司屋や割烹料理屋らしき建物はいくつか残っている。だが、空き地が多いので残っている建物もいつまであるかわからないな。

角に佇む商店らしき建物も営業していない…

壁に埋め込まれているタイプの、たばこの自動販売機。珍しい。

ごはん処・酒処の「甚」は営業しているのかな?

同じ並びにある、「新柳」という料理屋?奥に長い建物と店名がいかにも花街の雰囲気。

看板も外観もボロボロで営業している雰囲気は無し。

ここは元料亭で芸妓置屋もあり、芸娼妓混合のお店だったそうな。

店内を覗いたが、それほど荒れてなく、時が止まっているようだった。情報が無いがいつから閉店しているのだろう。

裏側、園部川通りにも入り口が面している。2014年の時点で既に閉業している。
料亭の前には普通に商店のような建物が並んでいる。


大久保診療所は、婦人科・内科・皮膚科と書いてあるが、この病院は古くからあるのかな~

建物の間の細い路地。ここにも居酒屋の看板が隠れている。雰囲気があるな~

カフェー建築のような建物
潮来遊廓で今や一番目立っているのが、まるでカフェー建築のような建物!

表側は窓がなく、妖艶なピンク色が彩られており、裏は木造2階建ての建物。

知っている人が見たら、一瞬で分かってしまうような、花街としての面影を強く残している。

現在は既に営業していないが、入り口の取っ手や窓のデザインがオシャレ。明らかに怪しい…赤線の時代に改装されたのかもしれない。

門と衣紋坂
カフェー建築のような建物がある辺りで潮来遊廓は終わり、この辺りにも門が建っていたらしい。

向かい側は綺麗に駐車場になっているが、2014年のストリートビューを見ると…

2階建ての和風建築。元割烹。一度見たかったなあ…
潮来遊廓の北側、良く見ると道が曲線を描いているのがわかるだろうか?

吉原の唯一の出入口だった「大門」までの道「五十間道」もS字カーブになっているのだが、外から遊廓が見えないように配慮されている。
また、この道を右折すると「衣紋坂」と呼ばれる坂がある。これも吉原遊廓にも存在する地名で、遊客が着物の衿を正した(身なりを整えた)ことに由来する。
吉原遊廓を模したという潮来遊廓は、カーブや坂に現在も名残が見られた。
遊女の供養塔
潮来遊廓から東側、西円寺に遊女の供養塔があるというので立ち寄った。

入り口に遊女の墓と案内があが、墓があるのは中央あたり。ちょっとわかりづらい。

昭和52年建立。この墓は、遊廓に関係する方によると勝手に作られたものだという。

墓というよりも供養塔の方が近いのかもしれない。本来の遊女らの墓は各地にあるため、把握ができていないらしい。


「あやめ旅館」に保存されている資料
焼失してしまった「旧あやめ楼」の親戚の方が経営しているのが、「あやめ旅館」。現在も営業中。

焼失してしまったので、ほとんど資料は残っていないという。

在りし日の「旧あやめ楼」の写真。

遊郭と並行して、この旅館を経営していたが、昭和30年代に遊廓は自然消滅。お金がかかる遊廓の経営はやめたらしい。

また、大門は全部で3か所あり、もう一つは山の方にあったという。黒門を復元した時は大変苦労したようで、地元の人からは無視。遊廓の悪いイメージが根付いているのを嘆いていた。
「遊廓のことを知らない人が嫌な顔をする」
遊郭の経営に携わっていたからこそ、遊廓の負のイメージが強いことを残念に思っているようだった。潮来遊廓で働く女性は厳しく管理されており、身元や戸籍の管理はもちろん、吉原で修行するなど、他の遊廓よりも秩序が保たれていたそうな。
結婚や死後も面倒を見るという手厚いサポートがあったという話には驚いた。
最近は筑波大学の学生も遊廓を調べに訪れるとか…
潮来遊廓の歴史を後世にも正しく伝えていきたい。
(訪問日:2021年5月)
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