布佐の都。網代場跡と鮮魚街道~旧病院と味噌屋「やまつね食品」 -布佐⑺

布佐の歴史を語る上で欠かせない、網代場跡と鮮魚街道(江戸道)。船着き場が出来て水運の町として栄えた布佐の都地域を中心に今回は探索する。
網代場跡~鮮魚街道
千葉県我孫子市都。利根川沿いの成田街道を西から東へ歩いてきて、分岐から網代場跡へ向かう。

出入口のガラスを見たら「米殻」と見えたので元米屋さんかな?

利根川沿いの布佐馬頭観音堂の近くに「生(鮮魚)街道」の看板が設置されていた。布佐から松戸に至道で、銚子や鹿島灘で水揚げされた鮮魚が江戸日本橋の魚市まで送られていた。

網代場跡から南西方向へ伸びる道。慶安3年(1650)頃から始まり、鉄道が普及するとその役割を終えた。
そして下が現在の網代場跡。

網代場跡については、「我孫子市の景観を育てる会」の「― 我孫子の歴史景観を探る ― その(3)
元”川港町”布佐 と ”緑”の布佐台の散策」が詳しい。
(3)網代場跡
●ここは急流箇所である布佐・布川間の狭窄部下流にあたり、海から昇る魚が一旦留まるため、網、投げ網の漁場となった。天保二年には仕掛けられた”網代”で川が滞流し、村々が水害を受け、幕府が網代を禁止した程といわれる。後に水運の発達と共に船着場も出来て栄えた。●「なま街道」の出発点で,後に水運の発達と共に船着場も出来て栄え、「刀寧帰帆」と詠われた。その様は、赤松宗旦の表現で示すと「人声喧雑肩摩りあし接し、傾くる魚は銀の刀のように輝き、桃の花が咲き、若葉が芽吹いている。」 その後、高瀬船や、蒸気船も接岸し賑わった。
今は、そんな網代跡の昔を偲ぶ面影も無いまま、いつも浚渫船が左岸で作業をしている。
その後船着き場が出来、高瀬船や、蒸気船も接岸し賑わったそうで赤松宗旦画による布川魚市の絵などから当時の様子をうかがえる。
鮮魚街道=江戸道。その道筋は、白井町平塚、沼南町藤が谷、松戸市金ケ作陣屋を経て松戸宿の河岸まで約30㎞。いつか鮮魚街道を歩いてみたいなとも思っている。
また、現在は埋め立てられているが鮮魚街道の東側には明治3年の洪水で出来た「切れ所沼」という細長い沼もあった。現在は利根川沿いの県道4号を車が颯爽と走り去っていく。
布佐馬頭観音堂
網代場近くにある布佐馬頭観音堂。


(2)布佐馬頭観音堂
●相馬霊場五十八番縁起によると、文永10年(1273)手賀浦を開墾するため高台から築留まで利根川に新堤を作った。そのため銚子から松戸に通じていた水上輸送は布佐手賀浦川口を通過することが出来なくなり、七里の陸路を馬で運ぶようになった。
17世紀末の元禄年間になって、問屋と馬主が馬の慰霊にと馬頭観音堂を建てたという。「我孫子市の景観を育てる会」の「― 我孫子の歴史景観を探る ― その(3)元”川港町”布佐 と ”緑”の布佐台の散策」
手水鉢には「東京魚がし」の文字。





馬頭観音堂の周り、大型車の進入禁止のためか大きなコンクリート製の柱がいくつか存在する風景が印象的だった。
我孫子市都と東日本大震災
そして網代場跡、かつての河岸の中心として栄えた利根川沿いのエリアが、我孫子市都(みやこ)と言う地名が残っている。まさに布佐の都。

しかし、2011年に発生した東日本大震災では、液状化現象による多大な被害を受けたそうだ。

そして今後の防災拠点として都交差点近くに「ふさ復興会館」が開館。震災の歴史を忘れないためにも、震災後の状況と液状化の背景についての説明看板が設置されていた。

液状化が発生した場所の中心は、切れ所沼跡。
明治3年の利根川堤防決壊により流れ込んだ大量の水によって出来た切れ所沼(幅100m、長さ500m)や湿地帯が広がっていたが、利根川の河川改修工事に伴って昭和27年に埋め立てられ、昭和30年代に宅地化。
沼の西側に面する道が鮮魚街道。旧道を中心に東側一体、都築に存在した商店街や古民家は倒壊してしまった。

当時の現地ルポに、我孫子市の液状化で118棟が全壊という記事がある。→旭市に次ぐ住宅被害 我孫子市の液状化で118棟全壊
浦安や千葉市の埋め立て地で被害が大きかったイメージがあったが我孫子市でも大きな被害があったとは知らなかった。歴史を知ることは自分の身を守ることにもなるなと思う。

都交差点から南西側、県道4号沿いに広がっていた商店街は傾いた建物も取り壊され、綺麗に舗装されている。ちなみに鮮魚街道は一本西側の裏道。

先ほどの交差点近くの民家の塀の脇に古い街灯が残っているのが気になる。店舗の面影は既に無い。

油店?油を扱っていた専門店なのだろうか?現在は民家となっているが、港町として栄えた布佐で古くから営んでいたお店なのかもしれない。
やまつね食品 味噌醸造
そして都交差点から南東へ、国道356号沿いを歩く。

左手に残る花形の街灯。こちらは文字が読めない。

住宅設備機器専門店の松島甚五郎商店。名前からして老舗!


その並びには古い洋館?いや、病院建築っぽい。これは事前に調べても情報が無かったので嬉しいサプライズ!

坂巻歯科医院。旧字体の醫院の表札が残る門柱。

手前の病棟?部分が洋風で奥の住居は和風建築。うーん、惹かれる。が現在は営業はしていない。

小さな歯科医院のようで出入口は小さめ。町の歯医者さん。2012年のストリートビューを見ると、下見板張りの外壁は茶色ではなく水色だったようだ。最近塗り替えられたんだな~

また、斜め向かい辺りには布佐に残る貴重な商家建築。


こちらは、現在も営業している「やまつね食品㈱」。新店舗が左手奥にある。

二つの旧店舗?が国道に面している。
麦みそで健康生活。やまつねの甘酒と糀についての看板は車窓から目に留まりそうだ。
やまつねみそ。http://www5b.biglobe.ne.jp/~yamatune/
安政二年(1855)の創業。江戸末期から現在に至るまで、昔ながらの製法で「我孫子市ふるさと産品」と「千葉県優良産品」に推奨されている。オンラインストアもあり、地方発送も◎。

ただ、営業時間が平日9時~17時。土日に訪れてしまったので店舗で購入できず残念。
それにしてもよく建物も液状化の影響を受けずに残っていたなあ…布佐には醸造所がいくつか存在したが、残っているのはやまつねが唯一なのでは。

その後も国道を南東へ進むと廃業した商店がいくつか見えた。

こちらは、中澤氷店。氷のお店って時代を感じるな~




何度見ても美しい病衣建築。和洋折衷、門柱とシェロの木なのか、国道沿いには同じような木が点在。古くからの町だなと実感する。
やまつね味噌も気になるが、素敵な近代建築に出会えて予想外の嬉しさだった。
(訪問日:2022年3月)
-
前の記事
布佐”日本近代気象学の父”「岡田松武邸跡・松岡邸・松嶋邸跡」 -布佐⑹ 2023.06.13
-
次の記事
我孫子市都地区~布佐駅まで探索。震災で液状化被害が大きかった街の現在 -布佐⑻ 2023.06.15