我孫子市布佐。利根川水運で栄えた河岸の商業都市の街並み -布佐⑷
我孫子市布佐。江戸時代より利根川水運で栄えた河岸の商業都市であり、利根川沿いの成田街道沿いに古くから街並みが形成されていた。
柳田國男や岡田武松など文化人との関わりについてはまた別の記事にてまとめる予定だが、今回は成田街道沿いの街並みについて注目した記事を書きます!
布佐の歴史と街並み 『我孫子市史研究』より
まず、布佐の街並みをご紹介する前にざっくりと歴史をインプット。
我孫子市教育委員会刊『我孫子市史研究5』より多数引用させていただきます。(古本屋で偶然見かけた本だったが布佐について詳しく面白い一冊!)
旧布佐町のあゆみ 懐郷
昭和56年(1981)年発行時点で80才の地元の方の回顧録。そこに「布佐八景巡り」とともに布佐の様子が記録されている。
私が物心ついた頃は、水運が次第に陸運に変りつつあった時期なので、往時の殷賑は伝え聞く所が多かったが、それでも河岸には回船問屋の浮舟が行交い、汽船を利用する旅人の宿屋(蒸気宿といった)や中食宿も商売繁盛で…
北側の茨城の布川との交通は専ら渡し船(町有)。川岸に民家が密集し、商家は自家用の船着き場を持っていたそう。
この渡船場は、水底は深くとも水流が緩やかなので、屢々、騎兵隊の水馬演習、砲兵隊の渡河訓練に利用され、時に水難の事故を起した事もあった。
そもそも、屢(しばしば)という漢字も初めて見たが、軍隊の演習で利用されていたことに驚いた。騎兵隊だと習志野から布佐まで演習に訪れていたということか。
この大利根河岸の姿が消え去ったのは、明治末から大正初期に(明治43年大洪水の後)大々的な河川改修工事が行われ、川岸の人家は取払いになり、街道筋も新しく付換えられ、従来の表街道が裏街道になったからである。
幕末~明治の布佐河岸
幕末、利根川の堤防の上には両側に家がびっしり並んでいたようだ。絵図も本には掲載されている。
貨物の荷上場であれば、船頭始め生魚のつみおろしでよごれた身体を洗う湯屋、湯船、また髪結、酒屋、女郎屋があったことがうかがわれる。
湯屋、女郎屋…気になる。明治3年に出来た「切れ所沼」の辺りに女郎屋があったらしいが、我孫子市都の馬頭観音堂がある辺りだろうか。今は埋め立てられ沼の面影も無い。
布佐の女郎屋について
明治37年の布佐町勢によると、川魚の収穫が多く、その他の気になるところをピックアップ。旅宿5、料理店2、行商2、飲食店3、湯屋4、理髪6、酒造500石。料理屋のひとつは「柳屋」だそうだ。
布佐の女郎屋は初めて耳にした。非公認というか公に知られていない千葉県の女郎屋を調べたらキリが無さそうだが…
「鹿島女のいる村」と題して柳屋で働いている女性が記録されている。
「お茶屋女が人ならば 蝶やとんぼも鳥のうち」
子どもたちの間でしつこくはやし立てていたという。
この女の子は本町・柳屋にやとわれて働いている通称”鹿島女”といわれている女性のひとりである。そして年齢は現代でいえば13歳ほど。常時3人から5人、彼女たちの相手は旅人ではなく遊びに来る地元の職人たちというのも意外だった。
この村には、鹿島女の存在以前にも明治五年までは女郎屋が三軒ほどあった。女郎屋は布佐があじろ場(一般には荷物の中継地)として栄えた時代の名ごりで、利根川の大洪水を期に姿を消した。
3軒の女郎屋。それほど栄えていた布佐も時代とともに静かな町となり、最近になり地代が安いため宅地に転用、網代場跡も周辺の都地域も一変している。
布佐上町の街並み
そして利根川沿いの国道356号(成田街道)沿いの現在の街並みを探索する。詳しい地図付きの解説が「― 我孫子の歴史景観を探る ― その(3) 元”川港町”布佐 と ”緑”の布佐台の散策」にあって面白い。「我孫子の景観を育てる会」は現在も街歩き活動を継続中のようだ。
そして利根川沿い、西側から上町・中町・下町と地名があり、今回は上町から歩いていく。上町の地名は上町自治会館などに残る。
ビジネス旅館布佐
布佐城跡から勝蔵院の前を通って成田街道へ出る。利根川沿いには延命寺。
延命寺の向かいにあるビジネス旅館「布佐」。港町の名残かな?と淡い期待。
Googleマップに上がっている旅館パンフレットを見ると、平成3年6月に現在の建物に。客室11部屋、24時間入浴できる大風呂やボリュームのあるお食事が人気だそう。
泊まってみたいな~と思っていたが情報が少なく躊躇していた。しかし、2023年4月現在、以前よりも口コミ数が増えて返信もあり、旅館のホームページも(以前あったかな?!)あって情報が充実していて泊まりやすくなった気がする。
ホームページを見ると、100年以上前から歴史がある旅館のようだ。
ご挨拶 GREETING
ゆとりとふれあい くつろぎの宿
当館の歴史は古く100年以上前から千葉県我孫子市にて旅館を構えております。規模は小さくとも「おもてなし」の心を大きく持ち。「泊まってよかった」「この次もまた泊まりたい」と言われる旅館を目指しております。どうぞ一度お越しくださいませ。心よりお待ち申し上げます。
店主敬白
しかも、コンセプトムービーまで…
これで、1泊2食付き7千円ほど。安い。今度宿泊して歴史を伺いたいな。
現在の建物の手前、街道沿いに木造建築があるがこちらは旅館の旧館だったりするのかな?今度聞いてみよう。
布佐中町の街並み
そして中町の街並みを見ながら歩く。
クリーニング店の隣にはかつて羽毛布団の製造工場が存在したが、斜め向かいにあったふとんのシノザキの店舗自体更地になっている。
教科書等も扱っていた書店。今は閉業している。
田島輪業の隣の木造平屋。ここも商店だったのだろうか。
お店として営業している店舗は無く面影のみ。
石井商店、店舗の裏手の川沿いに蔵が隣接していた。
布佐下町の街並み
栄橋の辺りに位置する下町。橋の脇には「利根文庫」の大きな看板がある建物がある。以前は古本屋だったそうだ。
築100年以上の建物で、奥には陶芸教室も?布佐文庫の歴史と合わせて今度の記事にてまとめます。
そして布佐駅近くの丁字路。
丁字路正面の旧商店はリノベされていて綺麗。
駅前通りの角には木造二階建ての古い建物が鬱蒼としていたが最近道路拡幅の為に更地に。
暫く空き家のようだったので仕方がないが…ここから先は一気に更地が増える。
2012年のストリートビュー
両側にあった古い建物は解体され…
木造二階建ての旅館建築も存在したがこちらは横を通り過ぎてしまい撮影し忘れた。岡田松武邸跡の隣。
岡田邸跡については後程の記事にて。
向かいには松岡(柳田)邸。こちらも後ほど。最近まで凌雲堂医院だった。
広々とした駐車場のショッピングセンターナリタヤ。休憩のために少し立ち寄った。
巨大な椎茸をお土産に購入。向かいには創業五代、歴史を感じる大塚石材。
その隣のお屋敷が気になる。松嶋重右衛門呉服屋屋敷だそうだ。こちらも明治の資料に載っている邸宅。
また後程まとめます。
布佐 網代場
そして下町から網代場跡へ。国道から分岐した細い道を通って向かう。
(3)網代場跡
●ここは急流箇所である布佐・布川間の狭窄部下流にあたり、海から昇る魚が一旦留まるため、網、投げ網の漁場となった。天保二年には仕掛けられた”網代”で川が滞流し、村々が水害を受け、幕府が網代を禁止した程といわれる。後に水運の発達と共に船着場も出来て栄えた。(元”川港町”布佐 と ”緑”の布佐台の散策より)
「なま街道」の出発点であり、船着き場も出来てから栄えた場所だが、現在は網代場の面影は全然ない。そして網代場跡である川沿いは国道4号を渡る必要があり危険だったので跡地さえ見ずに他のエリアへ向かった。
布佐の旅、まだまだ続きます。
(訪問日:2022年3月)
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