【蓮池通り】かつての一大花街「蓮池」の過去と現在、そして不思議な料亭 -千葉⑵

【蓮池通り】かつての一大花街「蓮池」の過去と現在、そして不思議な料亭 -千葉⑵

「蓮池」と呼ばれる花街が千葉県千葉市にあったのを知っている方はどれくらいいるだろうか。かつて千葉県の中心部、県庁の周辺は料亭や芸妓置屋が多数あり、賑わっていたそうだ。

花街として栄えた蓮池の歴史を知り、現在の蓮池の姿から千葉県の中心部の歴史を紐解こう。

 

蓮池の歴史

「蓮池」にはどのような歴史があるのだろうか。花街として栄えた歴史を振り返る。

蓮池の地名

花街として知られるようになった「蓮池」は、名前の通り、蓮の池があったことから、蓮池と呼ばれていたそうだ。その蓮池は、現在の「勉強堂」の北側にあったものと見られる。

 

千葉県庁と花街

蓮池は、千葉県千葉市中央区の吾妻通りの一角。蓮池通りと切っても切れないのは、「千葉県庁」の存在だ。現在も蓮池通りのほど近くにある千葉県庁の歴史を紐解くことで、蓮池通りの成り立ちも見えてくる。

明治4年(1871年)、明治政府によって廃藩置県が行われた。多くの県庁所在地は、城下町が発展して出来上がった都市だったが、千葉市は例外だった。同じような例として、北海道札幌市や、新潟県新潟市などがある。他の都市と比べて街として未完成だった千葉市は、人口も3950人ほど。当時最も多い人口だったのが、銚子の約1万7千人、船橋9400人と比べるとかなりの差があることがわかる。

そうした千葉市に県庁が設置され、裁判所をはじめとして国や県の関連施設が置かれることになった。そして、こうした経緯からこの場所でのビジネスチャンスを見込んだ人たちが、蓮池に次第に集まってきたのである。最初は食べる、泊まるといった目的から、料理屋、芸者へと花街の形になっていった。

「議員は毎晩料理屋に居続けていて、芸者もあれは誰、あれはどの議員と決まっていた。」と言われるように、政党により旅館、料理屋、芸者まで細かく分けられていたようだ。千葉県庁と蓮池はその歴史だけでなく、実質的にも一番密接な関係性だったのだろう。

 

千葉県会議事場

千葉県庁の建物として使われていた千葉県会議事場。明治13年(1880年)に建てられた、和洋折衷の建物は、千葉県立房総のむらの入り口に再現されている。

 

千葉県会議事場の復元

蓮池と空襲

栄えていた蓮池だったが、昭和20年7月7日の空襲(俗に言う七夕空襲)によって焼野原となってしまった。その後の復興で道幅も大きく変わってしまったため、細い路地や抜け道があった当時の面影は残っていない。

蓮池碑の存在

蓮池碑

地元の有志によって昭和42年(1976年)につくられた「蓮池碑」から蓮池の様子を窺うことができる。

 

表には、蓮池が舞台の小説『縮図』の一文。そして裏には、蓮池碑の由来が書かれている。その由来を知りたい方は↓

蓮池碑由来

蓮池とは千葉市花街の代名詞であり現在大千葉市の中心吾妻町商店街として榮ております その昔は廣い蓮田を次次と埋立て料亭待合芸妓置屋等が建ちここのみが三業許可の地として年を逐うて繁榮を極めるに至りました 併し町の名の蓮池は今は跡かたもなく転た一松の郷愁を感ずるとともに時勢の移り変わりには驚く次第であります このたび明治百年の昔を忍び絃歌敲喝の夢の跡の思出を永久に残すべく大方諸賢の御賛同を得て蓮池逐の信仰の中心であった吾妻町不動尊一条天皇勅願所北斗山光明寺境内に記念の碑を建てることとなり永く遺跡として保存致したき所存であります

昭和四十二年五月 鈴木潤一郎謹記

 

制作者の熱い想いが伝わってくる言葉。石碑として残すことは、原始的ではあるものの、紙やデータよりも信憑性も耐久性もあるのかもしれない。現代の人は石碑に残すことを重視しないが、歴史を保存する上で石碑は偉大だと感じた。

蓮池碑の近くには、写真の展示も見ることが出来た。

写真

現在の蓮池の姿

お待たせしました。蓮池の歴史を踏まえた上で、現在の蓮池を散策してみよう。吾妻通りから衣料品店「̪シノミヤ」の傍を西側へと進むと、蓮池通りへ出る。

右手の建物が衣料品店「̪シノミヤ」

蓮池通りでも有名な「丸万寿司」の看板が見えてきた。

丸万寿司
丸万寿司の建物

今まで見てきた花街の場所と比べても、かなり綺麗に整備されており、清潔感を感じる蓮池。看板やポスター、提灯がしっかりと飾ってあり、街全体で蓮池を盛り上げようとしていることがわかる。

蓮池通り
蓮池

 

ミタカ寿司の隣の廃墟…?

蓮池通りで、とても気になる場所があった。どうしても脳裏から離れない…トラウマになっている。

それはミタカ寿司と書かれた看板の向こう側。そしてこの通りだけ異様な空間なのだ。

ミタカ寿司

ミタカ寿司から廃墟になている建物の間の路地に、傘を広げ、おばあさんが横たわっていた。細かく描写するのは避けるが鳥肌が立った。足早に立ち去ろうと思った時、

隣の家の異様さに気づいたのだ。それは建築としての美しさ。よく建物の方に目を凝らしてもらうとわかるのだが、普通の民家ではない。

どんな建物だったのだろう

周りが木製の壁で囲まれ、欄間や窓には凝った意匠。建物の全貌を見ることができないのが残念だが、これはきっと立派な建物に違いない。

 

そして奥へと建物は続いており、全貌が気になる建物。正直、蓮池で一番衝撃的な場所だった。

 

 

追記:住宅地図から読み解く

昭和10年、30年代の住宅地図から先ほどの不思議な建物の過去を調べることにした。

どうやら、割烹だったようで、昭和10年の地図では「山本」「春月」と書かれた二軒の料亭がある。その後、昭和30年代には「割烹梅松」、「割烹一力」と屋号を変えている。隣にあるミタカ寿司は変わらずその場所で営業を続けているようだが、一体この料亭がいつまで営業していたのか…調べてもなかなかわからない。しかし、確かにこの廃墟と化した建物は格式のあるお店だったことが判明した。

千葉の中心部で鬱蒼と残る料亭の建物。その本来の姿を一度見てみたい。

 

イラスト地図

 

蓮池からちょっと足を延ばしてディープな街へ↓

ビジネスマンション「大老」、廃墟の城「英国館」は千葉栄町にあり。

近く、千葉新地の遊廓については↓

【千葉新地遊廓】千葉新地と呼ばれた千葉の遊郭、新町~登戸周辺の妖艶な姿を聞き取り調査

 

(訪問日:2020年6月)