本行徳「行徳新栄会」。製塩と舟運で栄えた歴史深い行徳街道を散歩する -行徳⑷

今回は、行徳駅から妙典駅の間の「行徳街道」を散歩。
江戸時代に整備された街道。船に乗った人が行徳で降り、陸路で行徳街道を通って成田参詣に向かっていたこともあり、大変賑わった街道だったことが窺える道。今もその面影が少しだけ残っている。
行徳街道の歴史
行徳街道は、千葉県市川市から浦安市に至る街道で、現在の県道6号線。バイパスあるため、旧道を通る車の量は少ないがバスは旧道を通っている。
宮本武蔵、松尾芭蕉、十返舎一九、永井荷風、三島由紀夫など様々な文人墨客が通ったとされる歴史深い行徳街道。大正時代の行徳街道の様子が展示されていたが、今と道路の幅はあまり変わっていないようだ。

市川市のホームページに、「行徳街道界隈発見マップ」が無料配布されているのでぜひ。

今回は、南から北上する形で行徳街道を辿る。
以前、中学生の頃に成田街道を歩いた際、水路で成田参詣をする人のコースである行徳街道も歩いたことがあるので久しぶりの探索だ。江戸時代の旅人の気分で行徳を歩いてみよう。
東西線「行徳駅」から行徳駅前通りを通って、行徳街道へ。

今回は、西の道は行かなかったが見た感じ西にもお店がありそう。
栃木屋は米販売店だそうだ。

旧道は歩道が本当に狭いので歩くときは注意。
田中幸之助翁誕生の地
少し歩くと、整備された一角が見えてきた。

ここは、県議会議員を務めた「田中幸之助翁誕生の地」。

明治以降、総武線が市川や本八幡を通ったことにより、沿線から離れた行徳地域は発展から取り残されてしまった。
そこで開発が遅れた行徳地域のため、東西線を誘致、区画整理事業に尽力をされた方が田中氏らしく、今の行徳の発展はこの方がいなかったら成しえなかったのかもしれない。

しかし、彼は東西線が開通する前に他界してしまったのだとか。「先見の明」を讃え、一画が整備されているのは素晴らしいなと思った。
また、「ぽっくり蛙」は長寿を願うものらしい。

旧街道を散歩する(行徳新栄会)
それでは、行徳街道を歩いていこう。行徳街道沿いには商店が並んでおり、「行徳新栄会」という商店街だそうだ。

以前と比べると、古い建物が少なくなっていて驚いた。

2009年のストリートビューに映っている、左手前と右奥の古い建物は新築に。文化財登録されていないので保存が難しいのかもしれない。
こちらは理容室と思われるレトロな建物。

「理容シバタ」と入り口に書いてある。今は閉業しているようだが、往時の雰囲気が残っている。

サインポールもデザイン性のあるレトロなタイプ。こういうの好き。

お、しかもコンクリートゴミ箱も。

建物と建物の間の裏路地が旧江戸川へ伸びている。

後藤神輿店
街道沿いにある「後藤神輿店」の建物は必見。行徳は神輿の産地としても有名で、3店舗の神輿の老舗店が存在した。
しかし、2007年に「浅子神輿店」が後継者不在で廃業、後藤神輿店も既に廃業しているため、中台製作所のみとなっている。

神輿の技術も素晴らしいものだが、建物にも美しい彫刻が残っている。1階と2階の間には波の彫刻が。

しかし、私はここである変化に気づいた。
あれ、楽しみにしていた彫刻が無い…!!

ここで2013年の写真と比較してみよう。左の2階戸袋脇に彫刻があったのだ。

ちょっと見えづらいが、桃太郎の彫刻。右には高砂の彫刻があったとされるが2013年時点で無い。
2018年頃に桃太郎の彫刻が無くなっているのだが、どこへ行ってしまったのか。

電話番号20番のホーロー看板。

ふと建物の横を見たら、持ち送りが渦巻のデザインで素敵。

桃太郎の彫刻、行方が気になる…博物館などで保存されていると良いのだが。
行徳街道沿いの気になる建物
少し歩いたところに、またしても古い建物が。マンションや庭の手入れをする「格三造園」という会社の建物のようだ。

シャッターが入り口が覆われていてよく見えないが、元々は商店として建物が使われていたのではないだろうか。

そしてカーブを道沿いに進んでいく。

カーブのところには「藤井畳店」の建物。

調べても建物の年代がわからなかったが、こういう名もなき建物はいつか壊されてしまうんだろうなあ。

浅子神輿店
国登録有形文化財に登録された「浅子神輿店」の建物がこちら。

登録されたのは、「旧浅子神輿店店舗兼主屋」。平成22年に登録された。

近世中期から近代にかけて製塩と舟運で栄えた本行徳において、神輿造りは一つの地場産業でした。この中にあって、室町時代末期に初代浅子周慶が創業したとされる浅子神輿店は独特な神輿造りで広く受け入れられた老舗でした。
浅子神輿店が室町時代創業と知ってびっくり!歴史ある神輿店は、後継者不足で平成19年に16代で途絶えるまで全国にその名を知られた。

昭和四年に上棟した店舗は、木太く豪快な正面の造り、粋を凝らした二階南側の窓縁や庇屋根の造りなどが特徴です。
建物は、昭和4年(1929)に建てられたことがわかる。

現在は、「市川市行徳ふれあい伝承館」として一般に開放されている。残念ながら私は月曜日だったので休館日だったが、無料で見学できるのでぜひ。

下は2013年の写真。この時はまだ見学ができなかったが気がするので、機会があったら見学したい。

向かい側には休憩所が新しくつくられていた。

こちらも月曜日は休みのようだが、軽食や甘味メニューが揃っているので休憩に良さそう。

休憩所の外には、浅子神輿店の展示も。


富岡八幡宮のお祭りでも浅子神輿店の神輿が使われている様子が残っている。

行徳街道周辺の観光案内図。観光に力を入れているようなので、もっと若い人にも知ってもらいたいなと思った。

常夜燈
行徳街道から常夜燈へ向かう道は他の道よりも広く、整備されている。

市川市指定有形文化財第一号である「常夜燈」。

市川市のホームページに詳しく記載されているので引用する。
市川市指定有形文化財第1号である常夜灯は、文化9年(1812)に、江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の成田山にお参りする講中の人々が航路安全を祈願して建てたものです。
高さ4.31メートルの石造りで、側面には協力した人々の名前が刻まれています。昭和45年、旧江戸川堤防拡張工事のため、位置の移動を余議なくされたり、袴腰の上に設置されたこともありましたが、平成21年12月12日、常夜灯公園のオープンに伴い、常夜灯は免震装置を施しリニューアルして公園内に設置され、より安全に皆様に親しんでいただけるようになりました。
常夜燈は江戸時代に建てられたものである。

江戸と行徳を行き交う船の運航が始まったのは、寛永9年(1632)。
この船は一般的に「行徳船」と呼ばれ、当初10隻だった船が江戸末期になると62隻に増え、往来が盛んになったという。

「江戸名所図会」に描かれた行徳の景観。今と違って堤防は無く、船から階段を上がって陸地へ。

現在は常夜燈の周辺は住宅街となっており、かつての面影はないが、広い道に沿ってお店が並んでいたのだろう。

また、この場所は「行徳新河岸(しんかし)」と呼ばれ、人や物資などで賑わう場所だったという。明治時代に入ってからは蒸気船が運航され、「蒸気河岸」とも呼ばれるように。

行徳街道に関する興味深い内容が書いてあったので、引用する。
この道筋には、まず番人が詰める施設と掟などが記された高札場や、旅人などが休憩をした信楽などの旅館がありました。旅館信楽は、近江国信楽出身者が行徳に移住したことにちなむ呼称です。信楽から道(旧行徳街道)を挟んだ向かいの建物が「笹屋」と言われるうどん屋です。「笹屋」は、江戸時代の文学作品にも記され、源頼朝が訪れた伝承を残しています。
行徳街道の様子が浮かんでくる説明。
信楽旅館は既に無いけど、どんな旅館だったのか気になるな~
笹屋うどん跡
行徳街道に戻り、先ほど説明のあった「笹屋うどん跡」へ。

近世、行徳で最も有名だったという「笹屋のうどん」。源頼朝伝説があり十返舎一九も紹介しており、「旅人の立ち寄らざるはなし」と言われるほど。

当時の行徳名物に「笹屋うどん」と「中山こんにゃく」がありました。
笹屋うどんは江戸から明治にかけて、広く京浜地方にまでしられた行徳の名物です。笹屋の屋号については、源頼朝が源氏の家紋にちなんで名づけたという伝説もあります。「快晴の時をえらんで干し、味はすばらしくよく、実に長くてほめ賞すること限りなし」とまで宣伝されました。また川柳には「音のない滝は笹屋の門にあり」「さあ船がでますとうどんやへ知らせ」「行徳を下る小舟に干しうどん」などとあり、当時の旅人が船を待つ間に笹屋でひと休みし、土産に干しうどんを持ち帰る姿が生き生きと感じれます。
石橋山の合戦に敗れた源頼朝が安房に逃れる途中、行徳に流されうどんを食べたという伝説が残っています。そしてそのことを描いた屏風も残されています。安政元年(1854)に建てたという店笹屋うどん跡は今も行徳街道に残っています。屏風と太田蜀山人が書いたというケヤキの大看板看板は歴史博物館に展示されています。
そして、「中山こんにゃく」は中山の法華経寺周辺で売られたものですが、その製造元が行徳で、1丁目から街道筋にかけて「中山こんにゃく処」の看板を軒並に出して製造していたようです。
笹屋のうどんは、いつまで営業されていたんだろう。どんな味だったのかとても気になる。
加藤家住宅主屋
笹屋のうどん跡の向かいにある「加藤家住宅」に向かう前に、横にあるわき道の奥に気になる廃墟が。

たぶん元風呂場だと思う。独立した風呂場なので古い家だったと思われるのだが…

新緑に包まれた裸電球がなんだか、胸に訴えるものがある。

木々に覆われた家。元々はどんな姿だったのだろう。

街道に戻って、国登録有形文化財に登録されている「加藤家住宅」へ。平成22年に主屋とレンガ塀が登録された。

千葉県のホームページによると、
有力塩問屋の粋を極めた近代和風住宅の主屋と、並び立つフランス積みの煉瓦塀。
主屋は、明治後期のもので、旧行徳街道に東面して建ち、桁行12m、梁間7.3mの木造平屋建、寄棟造桟瓦葺の建造物。正面は緩やかに起る切妻屋根の玄関を中央に付け、その両脇は銅板葺の出格子としている。内部は部屋が細分され、銘木を用い、模様ガラス戸を使うなど、上質な近代和風住宅である。


入り口には唐破風造りの玄関屋根。彫刻が素晴らしい。

全国を測量した、伊能忠敬が宿泊したという話もある。普段は非公開だが年に2回だけ内部を見学できる日があるそうだ。→「伊能忠敬が泊まった有力塩問屋だった家とか、、、再び行徳街道を散歩する♪」

レンガ塀は敷地を囲っている。

行徳街道で歴史を感じよう
行徳街道を歩いて気になった場所を紹介。
神明宮は、鳥居の後ろに高くそびえるイチョウの木が有名らしい。秋に訪れたいな。


ふとん&ギフトの「野地綿」は閉店している。

街灯の看板に残る「猪瀬米店」。この辺りは商店街として賑わっていたのかな~

電化ショップの「安野商会」も閉店している。

その隣はそば屋の「駿河屋」。

看板も色落ちしてしまっている…

こちらは350年前からつづく旧家だそうで、建物は明治10年築。取り忘れたが、芭蕉の碑が残っている。

バス停に残っていた古い地図。今は無いお店もたくさん。

改装されて「文化屋3丁目」というお店になっているが、元は「中島米店」。

澤木酒店は立ち寄ったので次回の記事で。

小川米店と岡野豆腐店。豆腐店は営業している雰囲気であった。


「越後屋」は営業中。屋号からして老舗だろうな~

2013年に撮影した「宮崎薬局」の建物は更地に。

行徳街道の記事、内容が濃くなってしまったが、それだけ歴史深い場所だということがわかると思う。
街道の見所は、次の病院の記事につづくので合わせて。
店名が書かれた街灯が街道沿いにたくさん並んでいるものの、街灯のふもとには新しい家が建っている場合も多かったので、取り壊しても街灯だけ残しているのかもしれない。
銭湯も一軒も無くなり、行徳の歴史を伝える建物も少なくなってきているが、若い人に足を運んで欲しいなと思った。散歩にちょうど良いコースです。
(訪問日:2021年4月)
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後藤神輿店の桃太郎外壁彫刻は、現在妙典八幡神社の神輿庫に保管されています。
ここに移設された経緯は不明ですが、神社本祭や行徳神社めぐり等のイベントで神輿公開された際に見ることができると思いますので、機会があれば足を運んでみてください。
浦安・行徳・妙典 東様
コメントありがとうございます!
保管されているとのこと安心いたしました。ぜひ一般公開の際は足を運びたいです。