布佐”日本近代気象学の父”「岡田松武邸跡・松岡邸・松嶋邸跡」 -布佐⑹

布佐”日本近代気象学の父”「岡田松武邸跡・松岡邸・松嶋邸跡」 -布佐⑹

今回は、布佐にゆかりのある3人の偉人の邸宅とその歴史をご紹介します。布佐という町がどれほど文化的にも栄えていたのか、改めて布佐の見え方が変わるきっかけになりました。

岡田松武邸跡(近隣センターふさの風)

千葉県我孫子市布佐2972−1。国道356号沿い、現在は「近隣センターふさの風」として生まれ変わっている場所が「岡田松武邸跡」。門柱だけ当時の物が残っている。

近隣センターふさの風

岡田松武邸跡については、門柱横と敷地内にも説明看板が設置されていて歴史が好きな方は必見。

岡田松武邸跡について

明治7年(1874)に布佐に生まれた岡田松武は、「日本近代気象学の父」と称されている。江戸時代以来、布佐は利根川の水運で大変栄えていたものの、川と手賀沼に接した低地のため、たびたび大規模な洪水に見舞われていました。また、日本の海難事故の多さもあり、彼が気象学者を志したのは、このような気象災害を防ぐことが人々の生活安定に必要不可欠と認識があったためという。

岡田松武の業績は国際的にも高く評価され、大正13年には気象学会最高の名誉である英国サイモンス金牌を受賞。柏市に気象予報官の養成所、利根町布川に測器工場など。昭和16年に辞任した後は、自宅の一角に自動文庫を創設し、地域教育に尽力した。

公共施設に

我孫子の景観を育てる会による「元”川港町”布佐 と ”緑”の布佐台の散策」に当時の建物の様子が記載されている。

(4)岡田松武邸跡
●地元の人は博士の家と呼んでいる、樹木に囲まれた住居(たたずまい)で、母屋左側の書庫洋館は、今は崩壊してしまった。柳田國男とは竹馬の友であった。明治32年東大物理学科卒業後、中央気象台に、予報課長時代に日露戦争があり、日本海海戦時の海域の様子を「天気晴朗なるも波高かるべし」と予報した。東郷連合艦隊司令長官はその予報文を其のまま引用している。
●中央気象台長、東大教授兼任、大正13年イギリス気象学会からサイモンズ賞を受賞。志賀直哉、谷崎潤一郎、鈴木大拙などと昭和24年に文化勲章を受章している。
昭和31年82歳の生涯を布佐の自宅で閉じた。

書庫の洋館。和洋折衷な豪勢な邸宅だったのだろうか。その名残か、門柱は洋風だ。

門扉を保存

また、旧敷地の樹木を移植したそうだ。

モミジの路地
保存樹木

現在、児童文庫跡には和室棟がある。

児童文庫跡
和室

取り壊し前の邸宅の様子をどこかで見たことがあるのだが…

インターネット検索ではゼンリンの「いつもNAVI」に古い画像が載っていた。これを見ると門柱は白ではなかったことが分かる。

岡田武松邸跡

文庫、書庫…全体像が分からないので何とも言えないが本当に木々に囲まれた邸宅だったんだな~

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松岡(柳田)邸

岡田松武邸跡の斜め向かい辺りにあるこちらの邸宅は、松岡(柳田)邸。

松岡(柳田)邸

柳田國男の実兄である松岡鼎家。柳田國男も青年期に寄宿し、岡田武松とも交友したようだ。

(5)松岡(柳田)邸
●明治20年医師で後に布佐町長、千葉県医師会長を務めた兄の松岡鼎家は、柳田が青年の頃寄宿した家である。 柳田はこの地で岡田武松と交友し、文学の山田花袋、国木田独歩、島崎藤村等とも論じ交わった。
このように篤志家の松岡家は幅広い人脈があり、また医学会の関連もあったのであろう東大大澤教授とも親交があったようで、大澤が布佐に住む様になってからは良き相談相手だったようである。
病院は、最近まで凌雲堂医院として継がれていた。
布佐文庫は明治41年に松岡が提唱し設立、蔵書は千冊に及んだ。当初は勝蔵院に置かれたが現在は布佐図書館にある。

我孫子の景観を育てる会による「元”川港町”布佐 と ”緑”の布佐台の散策」より

凌雲堂医院

そして最近まで、凌雲堂医院として営業していたため、看板の跡が今も残っている。

現在の松岡家のご当主は成田市で医師をなさっているそうです。

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松嶋重右衛門呉服屋屋敷

そして、国道沿いの少し東方面にある「松嶋重右衛門呉服屋屋敷」。外からは一切邸宅を見ることができないような垣根と木々に囲まれた巨大な邸宅が広がっていた。

松嶋重右衛門呉服屋屋敷

布佐の最盛期の代表として、明治27年の「日本博覧図-千葉県編」に銅版画で描かれている。その解説編に詳しく松嶋重右衛門宅について記載がある。

松島家は江戸時代に布佐河岸に定着し頭角を現した呉服商。布佐駅開業にも功績があったそうだ。松島呉服店は利根川の土手の上にあり、堤防の上の両側に並ぶ、150戸の布佐河岸の家並みのほぼ中央にあり店前の通りは成田街道(現国道)。隣の松岡家とも交際があった。

その後銀行経営にも進出し、千葉商業銀行の支店業務も営んだ。鉄道の開通によって利根川水運が衰退、往時の賑わいが失われる中で、堤防改修工事もあり分散・解体となったようだ。

(6)松嶋重右衛門呉服屋屋敷

●松嶋重右衛門さんの呉服屋は現在の大塚石屋さんの西隣にあったが、1955年頃新堤防構築のため、今でも残る堤防沿いの道に面する屋敷は壊された
松嶋重右衛門さんの呉服屋屋敷は、布佐の最盛期の代表として明治27年(1894) 「日本博覧図-千葉県編」 に銅版画で描かれ、その背景描写は、富士、筑波山、利根川、手賀沼、和田城跡、布佐台と水田の中の松等”布佐の全ての景観要素”が取入れています。

●当時の商家土蔵造りの家並みは、魚屋天忠さんのある交差点から東に味噌醸造の”やまつね”さん付近までの200m間に辛うじて残っている。

我孫子の景観を育てる会による「元”川港町”布佐 と ”緑”の布佐台の散策」より

呉服屋の店舗自体は西側にあったものの現在は更地に。

布佐の繁栄を物語る3つの物語。ますます布佐が好きになりました。

 

(訪問日:2022年3月)

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